第28話 大きくしても読めない
星冠暦826年・収穫月8日・火耀日
居間の窓辺には、8、9、10の紙輪が三つ残っていた。
その下では、ミアが壁から外した「おえかきのおうち」を床へ広げ、中身を一つずつ確かめている。
色鉛筆を束ねた紐、小さくなった描画棒、まだ使えそうな紙片、何を作るつもりだったのか本人にも分からなくなった色紙。その間から、1から7までの紙輪までころころと転がり出した。
「いっぱいになった!」
ミアは嬉しそうだった。
隣で手伝っていたフィンは、青い描画棒を一本拾い、六つある不揃いな袋を見比べた。
「これ、どこ?」
「かくところ!」
「その『かくところ』が三つあるんだけど」
ミアも一緒になって三つを見比べる。
しばらく悩んだ末、一番右を指した。
「こっち!」
「何で分かるんだ?」
「ミアだから!」
説明になっていない。
長椅子で本を読んでいたエルナが笑いながら顔を上げた。
「札をつけたら?」
「ふだ?」
「何を入れるところか、分かる印をつけるの」
フィンが紙片を三枚持ってくると、ミアもすぐ描画棒を握った。
文字を全部きれいに書くのはまだ難しい。そこで大きな丸や線を描き、知っている文字を少しだけ添えていく。
出来上がった三枚は、知らない人なら首をかしげそうな札だった。
けれどミアには十分らしい。
丸が三つ並んだものを掲げる。
「これは、かくの!」
「丸三つで?」
「うん!」
次の札には太い線が何本も重なっていた。
「こっちは?」
「ぺたぺたするの!」
最後は、大きなぐるぐるだった。
「これは分かる。輪っかだろ」
「わっか!」
紙輪をしまう深い袋へ札がついた。
フィンは改めて三枚を眺め、笑って肩をすくめる。
「まあ、ミアが分かるならいいか」
「分かるよ!」
本人が胸を張っているので、少なくとも札としての役目は果たしているらしい。
そのころ工房では、オスカーが一枚の紙とにらめっこしていた。
昨日、雨水を均すつもりの試作布が、戸口を越えて店の中まで一滴運んでしまった。そのとき分かったことを、忘れないうちに残しておこうと思ったのである。
ところが一行書くと、その理由も必要な気がした。理由を書けば直し方も残したくなり、さらに注意点まで思い出す。
紙の下まで埋まったころには、まだ半分も書き終えた気がしない。
オスカーは紙を裏返し、当然のように続きを書き始めた。
そこへ居間から声が飛んでくる。
「パパ、みて!」
紙を手に出ていくと、ミアが三枚の札を誇らしげに差し出した。
「おうちの、ふだ!」
オスカーは一枚ずつ見た。
「分かりやすいな」
「ミア、かいた!」
「こっちは俺も手伝った」
フィンが付け加える。
オスカーはミアの大きな丸と、自分の紙を見比べた。
こちらは表も裏も細かな文字でびっしりだった。
少し腕を伸ばして読む。
細い。
もう少し離してみる。
今度は読めない。
エルナがその様子に気づいた。
「お父さん、それ何?」
「昨日の試作で分かったこと」
「そんなにあったの?」
「書き始めたら増えた」
「紙を増やせばよかったんじゃない?」
「一枚で済ませたかったんだよ」
フィンも覗き込んだ。
「これ、近くじゃないと読めないな」
「そうなんだよなあ」
オスカーはしばらく紙を眺めていたが、やがてミアの札へ視線を戻した。
「紙そのものを大きくしなくても、書いてあるものだけ大きく見えれば便利なんだが」
エルナが本を閉じた。
「今、思いついた?」
「ちょっとだけ」
「その言い方のとき、大体作るよね」
オスカーは否定しなかった。
午前の終わりごろ、工房から持ってきたのは、本よりひと回り大きな木枠だった。
中央には紙を挟む細い隙間があり、その周囲を術式線が囲んでいる。端には小型の蓄魔石と解除扣。少し離れた壁際には無地の白布を張った。
白布の端に近い棚では、ルクスが羽づくろいをしていた。
「今日は試すだけだぞ」
誰にともなく念を押してから、オスカーは木枠を卓上へ固定した。
「紙の濃い跡がどこにあるか拾って、向こうへ大きく映す。字を読んでるわけじゃない。丸なら丸、線なら線だ」
「ひかる?」
ミアが尋ねる。
「淡くな。熱は出ない。三十秒で勝手に消えるし、その前でもこれを外せば止まる」
解除扣を示し、子どもたちが決めた位置より前へ出ていないことも確認する。
最初は、新しい紙へ大きく一語だけ書いた。
木枠へ挟んで蓄魔石を起こすと、白布に淡い文字が浮かび上がった。
紙に書いたものと同じ形が、そのまま六倍ほどになっている。
「おっきい!」
ミアの声が弾んだ。
フィンも紙と白布を見比べる。
「離れてても読める」
「線の位置も変わってないね」
エルナが言った。
三十秒ほどで光は静かに薄れ、白布は元の白さへ戻った。
そこまでなら、ずいぶん素直な試験だった。
けれどオスカーの手には、朝から書いていた覚え書きがある。
「これも大きくすれば、読みやすくなるか」
最初の光が完全に消えていることを確かめ、紙を差し替える。
今度は表にも裏にも文字が詰まった紙だった。
蓄魔石を起こすと、白布いっぱいに淡い線が膨らんだ。
家族はそろって黙った。
大きくなっている。
一本一本の線もよく見える。
それなのに、何が書いてあるのかは前より分からなかった。
表の文字へ、裏側から拾った別の文字が逆向きに重なっている。縦線へ別の曲線が食い込み、丸の中へ違う文字の端が入り込み、小さかった読みにくさだけが壁いっぱいの大きさへ育っていた。
ミアが首を傾げる。
「じ、けんかしてる」
フィンが耐えきれずに笑った。
「父さん、大きくして読めなくしてる!」
「俺にもそう見える」
白布の端近くにいたルクスは、巨大な文字の塊がすぐ下まで広がるのを見ると、羽づくろいをやめた。
何も言わず、一段上の棚へ移る。
オスカーは解除扣を外した。
重なった光が消えてから紙を抜き、表と裏を見比べる。
「裏まで拾ったか」
エルナも横から覗いた。
「紙の向こう側も?」
「たぶんな」
木枠は文字の表裏を理解しているわけではない。
けれど、本当に紙の向きを変えても同じなのかは確かめられる。
オスカーは蓄魔石を外したまま紙の向きを変え、もう一度だけ試すことにした。
再び白布に現れた文字は、向きこそ先ほどと変わったものの、やはり二面分が重なったままだった。
今度は三十秒を待たず、すぐ解除扣を外す。
「向きじゃないな」
紙を抜いたオスカーは、起動していない木枠の隙間を覗いた。
「この枠、紙一枚の厚みをまとめて見てる」
「表と裏を分けてないってこと?」
「そういうことだな。濃い跡がこの厚みの中のどこにあるかは拾う。でも、それがこっちの面か、向こうの面かまでは分けてない」
ミアが自分の札を持ち上げた。
「ミアの、うら、ないよ」
最初の試験紙も、ミアの札も片面だけだった。
だから問題にならなかった。
オスカーは自分の覚え書きを見て、ようやく苦笑した。
「道具より先に、俺が紙を使いすぎたか」
昼を過ぎてしばらくすると、保健院の仕事を終えたリディアが帰ってきた。
壁にはもう読めない巨大文字はない。
それでも食卓には木枠とミアの札、そして両面を文字で埋めたオスカーの紙が残っていた。
事情を聞いたリディアは、まずミアの札を一枚ずつ眺めた。
「かわいい札ができたのね」
「これ、わっか!」
「これはすぐ分かるわ」
それからオスカーの紙を受け取る。
表を読み、裏返す。
もう一度表へ戻ったところで、少し笑った。
「ずいぶんたくさん残したのね」
「後で同じことをやらないようにと思ってな」
「これ、全部そのとき必要?」
オスカーはすぐには答えなかった。
昨日の試作が動いた理由。
雨が当たり続ければ何が起きるか。
入口の外と内を道具が区別しないこと。
思いついた改良案。
試してみたい別の形。
似た内容を言葉だけ変えて書いたところまである。
どれも間違いではない。
けれど次にあの布を触る自分が、最初に知りたいことは何なのか。
そう考えると、紙の両面いっぱいである必要はなかった。
「未来の俺に親切なつもりだったんだけどな」
「未来のあなた、全部読むかしら」
オスカーは紙を見つめたあと、吹き出した。
「途中で嫌になるな」
「じゃあ、すくなくする?」
ミアが自分の札を指した。
大きなぐるぐる一つでも、本人には紙輪の場所だと分かる。
オスカーは工房から新しい紙を持ってきた。
昨日の出来事を最初から書き写すことはしない。
次に同じ布を扱う自分が、最初に目へ入れた方がいいことだけを考えた。
そして二行だけ残した。
入口をまたいで敷かない。
雨が当たり続ける場所では使わない。
裏側は白い。
オスカーは書き終えた紙を眺め、それを木枠へ挟もうとはしなかった。
卓上へ置いたまま二、三歩離れてみる。
それでも十分読める。
「大きくしないの?」
エルナが尋ねた。
「これなら、このままでいい」
「枠は?」
オスカーは木枠へ目をやった。
表と裏を別々に拾う方法なら考えられる。
検出する厚みを狭めることもできるだろう。
朝のオスカーなら、そのどちらかを試していたかもしれない。
けれど今日は首を横へ振った。
「それも、今はいらないな」
エルナが少し意外そうに父を見て、それから笑った。
午後の光がゆっくり傾くころには、居間から試験の名残が薄れていた。
ミアは朝作った札を見ながら、床へ出していた画材を「おえかきのおうち」へ戻していく。家族全員が初見で理解できる印ではない。それでもミアの手はもう迷わず、フィンまで丸三つの札を見れば描画棒の袋だと分かるようになっていた。
オスカーの二行の紙も工房へ戻った。
壁いっぱいの文字にはならなかったが、朝の覚え書きより、ずっと早く必要なことが目に入る。
夕方の風が窓から入ると、残っていた三つの紙輪が小さく揺れた。
ミアはそれに気づいて椅子を寄せる。
「きょう、はち!」
8番の輪を両手で外した。
朝つけたばかりのぐるぐるの札を見つけ、深い袋へ運ぶ。そこには1から7までの輪が重なっている。
8番も、その仲間へ加わった。
窓辺には9と10。
あと二つになった輪が、夕暮れの風に並んで揺れている。
ミアは袋と窓を何度か見比べてから満足したらしく、夕食の匂いがする方へ駆けていった。
棚の上では、午前中に一段高い場所へ追いやられたルクスが、ようやく元の位置へ戻っている。
工房へ向かうオスカーの手には、あの二行だけの紙があった。
ルクスはそれを一瞥し、白い翼を整える。
「大きくする前に減らせ。……読めない字で俺のいる場所まで埋めるな、オスカー」




