第27話 乾いた端まで雨が来る
星冠暦826年・収穫月7日・月耀日
雨が降り始めたのは、午後になってからだった。
朝のうちは薄い雲が流れていただけなのに、昼を過ぎるころから空の色が少しずつ重くなった。やがて風見鶏通りの石畳へ、ぽつり、ぽつりと濃い丸が増え、それが互いにつながるころには、軒を叩く音もすっかり雨らしくなっていた。
居間の窓辺では、7から10までの紙輪が四つ揺れている。
「雨!」
ミアが窓へ駆け寄った。
庭へ出るつもりだったフィンは、開けかけた戸をそのまま閉じる。
「今日は無理そうだなあ」
「何が?」
本を読んでいたエルナが尋ねた。
「外」
「広すぎない?」
「外で走るの」
「やっぱり走るつもりだったんだ」
フィンが何か言い返そうとしたところで、店の扉が開いた。
「あ、ママ!」
保健院での短時間勤務を終えて帰ってきたリディアは、軒下で上着についた雨粒を軽く払ってから中へ入った。それでも裾や履物から落ちた水が、入口の石床へ小さな染みをいくつも作る。
迎えに行きかけたミアは、その手前で足を止めた。
「ぬれてる」
「そうね。ここはゆっくり歩きましょう」
リディアも濡れたところを踏み広げないように中へ入る。
工房から顔を出したオスカーは妻に「おかえり」と言ったあと、すぐ床へ目を落とした。
「結構落ちたな」
「思ったより降っていたの」
「この辺だけ濡れると、誰か踏んだとき危ないな」
オスカーは乾いた布を持ってきて水を拭った。それだけで石床はほとんど元へ戻り、リディアはそこで話が終わったつもりで上着を掛ける。
ところが振り返ると、オスカーの姿がない。
代わりに工房から、引き出しを開けたり閉めたりする音が聞こえてきた。
「オスカー」
「まだ何もしてないぞ」
奥から返事だけが来た。
リディアは少し笑う。
「何をしようとしているの?」
「だから、まだ何も」
長椅子から様子を見ていたエルナが本を伏せた。
「お父さん、それ昨日までに何回か聞いた答えだよ」
「回数は数えなくていい」
雨脚が少し強くなった。
軒先を流れる水の音を聞きながら待っていると、しばらくしてオスカーが厚手の敷布を抱えて戻ってきた。
布の表面は細い術式糸でいくつもの四角へ区切られている。区画の境には水を通しにくい処理がされていて、そのままなら一つの区画へ落ちた水は隣へほとんど染み出さない。端には小さな蓄魔石と解除扣が付いていた。
「今作ったの?」
フィンが身を乗り出す。
「試すところまでな」
オスカーは敷布を乾いた床へ広げた。
「入口って、濡れる場所が偏るだろ。だったら一か所へ水が集まらないように、布の中で分けてやればいいと思って」
「乾かすんじゃなくて?」
エルナが尋ねる。
「そこまではしない。布が抱えた水を、偏らせないだけだ」
子どもたちを少し離れさせてから、オスカーは一つの区画へ匙一杯ほどの水を落とした。
水は丸い染みになったものの、縫い目の向こうまでは広がらない。そこまで確かめてから蓄魔石を起こすと、しばらくして最初の染みがわずかに薄くなり、隣の四角へ新しい染みが現れた。
その隣にも、さらに少し。
初めは一か所だけ濃かった水が、術式糸を渡るようにゆっくり分かれていく。
ミアが目を丸くした。
「おみず、おひっこししてる」
「そんな感じだな」
やがて区画ごとの濡れ方が近くなると、それ以上は動かなくなった。
オスカーは解除扣を外して布を確かめる。
「よし」
「成功?」
フィンが聞いた。
「少なくとも、今の試し方ならな」
その言い方に、リディアが少しだけ眉を上げた。
オスカーも気づいたらしい。
「何だよ」
「何も言ってないわ」
「顔に書いてある」
「誰かさんに教わったの」
雨はまだ降り続いていた。
店に客がいないのを確かめ、オスカーは試作の敷布を入口へ置いた。布の半分は軒に近い外側、残りは店の内側へ入っている。
濡れた履物で入ってきても、一か所ばかりが水浸しにならない。その程度の働きを期待していた。
家族は布を踏まない位置から様子を見る。
風に押された細かな雨粒が外側へ吹き込み、いくつかの四角を濃くした。ほどなくして水は隣へ分かれ始め、最初の試験と同じように、濡れ方の偏りが少しずつ消えていく。
「ちゃんと動いてるな」
オスカーが満足そうに言った。
ミアは増えていく染みを指で数えていたが、途中でその指を止めた。
「パパ」
「ん?」
「雨、こっちに歩いてる」
指しているのは店の内側だった。
外から雨が吹き込んでいる場所ではない。
それなのに、さっきまで乾いていた一番外寄りの四角から、その隣、そのまた隣へと、濡れた色が少しずつ近づいてきている。
窓辺にいたルクスも羽づくろいをやめた。
オスカーは布のそばへしゃがみ込みかけ、触れずに動きを止める。
外側には今も新しい雨粒が落ち続けていた。雨が加わるたびにそこだけが周囲より濡れ、敷布は生じた差を埋めるように水を隣へ渡す。渡った先でまた濡れ方に差ができれば、その差も次へ送られる。
人間なら入口の縁を見て「ここから先は店の中だ」と考える。
けれど敷布が比べているのは、隣り合った区画の水の多さだけだった。
店内側が乾いているかぎり、そこにはまだ水を分ける余地がある。
リディアが、じわじわ近づいてくる染みを見て笑った。
「ずいぶん平等なのね」
オスカーは額へ手を当てた。
「……そういうことか」
フィンが布を覗き込みながら聞く。
「何が?」
「俺は水が偏らないようにしたかった。でも、こいつには入口の外と中なんて関係ないんだ。水が多いところと少ないところしか見てない」
その説明を待っていたように、一番内側まで届いた水が布の端へ集まり、小さな一滴となって石床へ落ちた。
ミアが感心したように息を呑む。
「ほんとに、おうちまできた」
「そこまで来なくていいんだよなあ」
オスカーが解除扣を外すと、それまでゆっくり進んでいた濡れ色はそこで止まった。
リディアは新しい乾いた布を持ってきて、床に落ちた一滴だけを拭う。魔法も術式糸もない、ごく普通の布だった。
「結局、今はこれが一番早いわね」
「否定できない」
オスカーは苦笑したものの、すぐ工房へ試作品を持ち帰ろうとはしなかった。
雨の音が続く入口にしゃがんだまま、端から端まで濡れた布を眺めている。
失敗したのは、水を動かす仕組みそのものではない。
むしろ狙ったとおりに動き続けたからこそ、人間の都合とは違うところへ行ってしまった。
「水を均すのと、乾いた場所を残すのは別だったな」
ぽつりと言うと、リディアが隣へ立った。
「今日分かってよかったじゃない」
「店の中まで濡らしたけどな」
「一滴だけね」
「一滴でも店の中だ」
「じゃあ次は、その一滴を入れない方法を考えればいいでしょう」
オスカーは妻を見上げた。
少しだけ悔しそうだった顔が、そこでようやくほどける。
「今日は考えるだけにしておく」
「ええ」
「作らないとは言ってないぞ」
「今日は、ね」
夕方が近づくにつれ、雨は少しずつ細くなった。
軒から落ちる雫の間が長くなり、濡れた石畳の向こうにも明るさが戻ってくる。蓄魔石を外した試作布は雨の当たらない軒下へ広げられ、四角ごとに残った濃淡をゆっくり薄くしていた。
家の中にも夕食の匂いが満ちてくる。
昼間は庭へ出られないとぼやいていたフィンも、いつの間にか雨のことを忘れ、食卓で今日の話を蒸し返していた。
「でもさ、最初の試し方ではちゃんと成功してたんだよな」
「だから余計に困るんだ」
オスカーが答える。
「失敗するなら、最初から失敗してくれた方が分かりやすい」
エルナは少し考えてから首を横へ振った。
「でも、入口で試さなかったら分からなかったんじゃない?」
「それも否定できない」
今日はオスカーの負けが多い。
リディアが笑い、フィンもつられて笑った。
食事が終わるころには、雲の切れ間から薄い夕空が見えていた。
窓を少し開けると、雨上がりの湿った風が入ってくる。
その風に揺れた紙輪を見て、ミアが椅子から降りた。
「きょう、おわり」
7番の輪を両手で外す。
「雨も終わったしな」
フィンが窓の外を見る。
ミアは外した輪を「おえかきのおうち」まで運び、これまでの六つが入っている深い袋へそっと加えた。色の違う輪が重なり、窓辺に残った数字は8、9、10の三つだけになる。
エルナはそれを見上げてから、昼間から開いたままだった本を手元へ引き寄せた。
夏休みは、あと三日。
庭へ出られなかった午後も、店の中まで雨が一滴やってきた午後も、終わってみれば同じように一日分だけ過ぎている。
軒下では、乾きかけた試作布から最後の雫が落ちた。
昼から窓辺にいたルクスは、その音に一度だけ目を向ける。
外の雨が布の中を伝って店へ入り、オスカーが慌てて止めたところまで、ずっと見ていた。
工房へ戻ろうとしたオスカーへ金色がかった目を向け、白い翼を小さく震わせる。
「雨は戸口で止めろ。店の中まで招くな、オスカー」




