第26話 消え残りの午後
星冠暦826年・収穫月6日・陽耀日
エルナが学院へ持っていく鞄を大机へ置いたのは、昼前だった。
夏休みはまだ終わっていない。
窓辺には、その証拠のように6から10までの紙輪が五つ下がっている。収穫月の風が入るたび、色の違う輪が少しずつ揺れた。
「姉ちゃん、もう学校行くの?」
長椅子で本を読んでいたフィンが顔を上げた。
「行かないよ」
「鞄出してるじゃん」
「中を確認するだけ」
「それを学校へ行く準備って言うんじゃない?」
エルナは返事の代わりに鞄を開いた。
薄い本が二冊。その下に筆記具をまとめた袋があり、さらに底から淡灰色の板が出てきた。
ミアがすぐ近寄る。
「なに、それ?」
「練習板」
エルナが休みに入る前まで使っていたものだった。
淡灰色の表面には、古い計算の跡がまだ残っている。数字と横線、小さな図が何度も重なり、端には途中でやめたらしい式まであった。
「いっぱい」
「そのまま片づけたからね」
エルナは少し気まずそうに言った。
板と一緒に入っていた細い筆記棒を取り出し、表面の隅を丸い先でなぞる。
インクは付いていない。
それでも押されたところだけが、すっと暗い線へ変わった。
「かけた!」
「表面を押すと色が変わるの」
ミアは覗き込みながらも、今度はすぐ手を出さなかった。
「どうやってけすの?」
「日に当てる」
フィンも本を閉じ、板を横から見る。
「それだけ?」
「強い光を受けてると、少しずつ元の色へ戻るから」
書いてあるものの意味は関係ない。
計算でも文字でも、ミアが絵を描いても、押されて暗くなった場所は同じだった。
十分に強い光を受ければ薄くなる。
室内の明るさだけなら、すぐには変わらない。
エルナは窓辺の大机を見た。
ちょうど午後へ向かう日差しが、窓から斜めに入っている。
「ここでいいかな」
空いている場所へ練習板を置いた。
その少し上には、夏休みを数える五つの紙輪がある。
窓枠の外側にはルクスもいた。
白い身体を日にさらしながら羽づくろいをしていて、こちらへ興味があるようには見えない。
エルナも特に気にしなかった。
板そのものには、はっきり日が当たっていた。
「いつきえる?」
ミアが尋ねる。
「すぐ全部じゃないよ」
エルナは鞄の中身へ戻った。
フィンも長椅子の本を開き直す。
最初のうちはミアだけが何度も板を見に行った。
「まだある」
「さっきより薄いでしょう?」
「ちょっと」
三度目くらいには変化を待つ方に飽きたらしく、「おえかきのおうち」から色鉛筆を出して床へ座った。
居間には静かな時間が戻った。
外から店を訪れる客の声がかすかに聞こえ、工房の方では時折、道具を置く乾いた音がする。
窓から入る風が少し強くなるたび、五つの紙輪は揺れた。
輪の細い影が机の上を滑る。
少し右へ動き、戻り、また別の場所を横切っていく。
窓枠のルクスも、ときどき身体の向きを変えていた。
日が高くなるにつれ、練習板の古い筆跡はゆっくり薄くなっていった。
やがて鞄の確認を終えたエルナが、板を取り上げる。
「そろそろ――」
言葉が途中で止まった。
「消えた?」
フィンが聞く。
「ほとんど」
「ほとんど?」
二人が寄ってきた。
古い数字や線の大半は、淡灰色の表面へ溶けるように消えていた。
けれど、何か所かだけ細い筆跡が残っている。
半分になった数字や、途中だけ濃い横線が、緩い弧に沿うように並んでいた。
右上にはもう少し広い範囲で、昔の計算の一部がまとまって残っている。
「へんなけしかた」
ミアが首を傾げる。
「だね」
エルナも板を傾けた。
光の当たり方を変えて見ても、残った線は消えない。
「板が悪くなった?」
フィンが尋ねる。
「休み前は普通だったんだけど」
エルナは板を見る。
窓を見る。
そのとき、6番の紙輪が風に押された。
丸い輪郭の影が机の上を横切り、エルナが持っている板の端へ一瞬だけ掛かる。
三人の目が同時にその影を追った。
風が戻ると、影も反対へ動く。
「これだ」
フィンが言った。
エルナは練習板を、先ほど置いていた位置へ戻してみた。
五つの紙輪が揺れる。
そのたび、細い影が板の上を何度も通った。
消え残った弧と、ぴったり同じ線ではない。それでも、影が何度も通る範囲と残り方はよく重なっている。
「ずっと影だったわけじゃないのに?」
ミアが聞く。
「ずっとじゃなくても、その間は光を受けてないから」
エルナはようやく納得した顔になった。
練習板の表面は、強い光を受けた分だけ少しずつ元へ戻る。
紙輪の影が何度も通った場所では、その時間だけ復元が遅れる。
周囲が先に淡くなれば、そこに重なっていた古い筆跡だけがしばらく残る。
板は、それが夏休みを数える輪の影だとは知らない。
ただ、届いた光の量が違っただけだった。
「じゃあ、右のこれは?」
フィンが、広く消え残った一角を指した。
紙輪の影より大きい。
エルナもそこを見る。
しばらく考えて、今度は窓枠へ視線を移した。
ルクスがいる。
白い身体はちょうど日差しと大机の間にあり、羽づくろいのたびに板の右側へ小さな影を落としていた。
フィンも気づいた。
「あっちもだ」
ミアの顔が明るくなる。
「ルーちゃんも、けさない!」
金色がかった目が三人へ向いた。
本人は何もしていない。
いつもの場所で羽を整えていただけである。
「ルクスが残そうとしたわけじゃないよ」
エルナは笑いながら板を持ち上げた。
ルクスの目はさらに細くなった。
「今度は場所を変えよう」
庭へ出る。
エルナは枝や軒の影が掛からない場所を選び、庭の卓へ練習板を置いた。
すぐ後ろから来たミアも卓を覗き込む。
ところが、自分の頭の影が板を覆っていることに気づいた。
「あ」
一歩下がる。
まだ少し掛かっている。
もう半歩。
「ここ?」
「そこなら大丈夫」
ミアはその場所で止まった。
今度は誰も板へ影を落とさない。
エルナはしばらく様子を見てから居間へ戻った。
学院へ持っていく物は、もうほとんど確かめ終わっている。
破れた本もない。
筆記棒も足りている。
鞄の留め具も問題なかった。
その横には、学院とは関係のない本が数冊残っていた。
図書館から借りてきたものや、休みのうちに読み終えようと思っていたものだ。
フィンがその山を見た。
「学校の本より多くない?」
「何が?」
「これ」
エルナも見た。
学院へ戻す物の山。
読みかけの本の山。
比べてから、何でもないことのように後者を自分の方へ寄せる。
「まだ夏休みだもん」
「学校の準備してたのに」
「準備したら、残り全部準備の日になるわけじゃないでしょう」
「それはそうだけど」
エルナは本を一冊取り、栞のあるところを確かめた。
窓辺では、紙輪が五つ揺れていた。
少なくなったことは一目で分かる。
けれど、まだ五つあることも同じくらいよく見えた。
午後になって庭の練習板を取り込むと、今度は古い数字も線も残っていなかった。
表面は端から端まで同じ淡灰色へ戻っている。
エルナは板を大机へ置き、筆記棒を取った。
「またかくの?」
ミアが尋ねる。
「使うために消したからね」
新しく引いた線は、今度はまっさらな板の上ではっきり見えた。
エルナは休み明けに必要な本と筆記具を確認したことを書き留めたあと、少し考え、もう一行だけ加えた。
「借りた本を読み終える」
横から覗いたフィンが笑う。
「それ、学院の準備じゃないじゃん」
「私の予定だからいいの」
「ミアのもかいて」
「何を書くの?」
「おやつ」
エルナは思わず笑った。
「それは書かなくても忘れないでしょう」
「わすれないよ!」
自信たっぷりの返事だった。
夕方になると、窓辺の紙輪へ橙色の光が差した。
ミアは今日の6番を外し、1番から5番までが入っている「おえかきのおうち」の袋へそっと加える。
窓辺に残ったのは、7から10までの四つになった。
昼には練習板の光を何度も遮った輪も、明日は一つ少ない。
大机には、エルナが書き直した三行が残っている。
窓枠へ戻ったルクスは、その板と四つの紙輪を眺めたあと、昼間自分がいた場所へ一度だけ目を向けた。
「文字を消すだけの話に、どうして俺の影まで参加してるんだ?」




