第25話 市場帰り、籠の中
星冠暦826年・収穫月5日・土耀日
「はねる?」
午前の市場で、ミアが豆売りの台へ顔を近づけた。
台の上には、細長い緑色の莢が山になっている。
濃い緑。
少し黄みがかった緑。
ところどころ褐色の筋が入り始めたものもある。
見たところは、少し大きな豆莢でしかない。
「跳ねるよ」
店番の男が笑った。
「ただし、今ここで跳ねさせるのはなしだ」
「みたい」
「売り物が床へ散るから駄目」
即答だった。
ミアは残念そうに莢を見る。
隣で買い物籠を持っていたフィンも、少し興味を引かれたらしい。
「どうやって跳ねるの?」
「熟したやつはな、固いところへ強くぶつけると莢が縮むんだ。それが戻るときに、ぽんといく」
男は自分の指を軽く曲げ、弾くように伸ばしてみせた。
「食べるのは中の豆。持って帰るなら、固い籠の底へ布を敷いておくといい」
リディアが籠の中を見た。
今日は最初から、野菜を傷めないよう厚手の布を一枚敷いてある。
「これなら?」
「十分だよ。あとは籠を道へ叩きつけないことだ」
「しないよ」
フィンが言った。
「普通はしないな」
男も笑った。
夕食に使う分だけ量ってもらう。
跳ね莢は籠の底の布へ載せられ、その上へ柔らかな葉物が置かれた。
そのときは、どの莢も静かだった。
ミアはしばらく籠を見ていたが、何も起きないと分かると、すぐ隣の果物屋へ気を取られた。
「これ、あかい!」
「昨日も見たでしょう」
エルナが言う。
「きょうもあかいよ」
それには反論しにくい。
市場には果物の甘い匂いと、焼いた生地の香ばしい匂いが混じっていた。
干した香草を束ねる音。
木箱を動かす音。
どこかで商人が値段を呼ぶ声。
夏の名残を感じさせる強い日差しの下でも、並んでいる品物には少しずつ収穫月らしい色が増えている。
屋根の端には、いつの間にか白い姿までいた。
「あ、ルーちゃん」
ミアが見上げる。
ルクスは市場へ来た家族ではなく、通りの屋根を選んで休んでいるだけ、という顔で別方向を向いた。
その後も買い物は続いた。
果物が増える。
根菜の包みが増える。
小さな瓶も一本増えた。
フィンの籠は、少しずつ両手で持った方が楽な重さになっていった。
「持ち替える?」
リディアが尋ねる。
「まだ平気」
無理をしている様子ではない。
フィンは一度籠を地面へ置き、取っ手を握り直してからまた持ち上げた。
ただ、その間に中身は少し動いた。
底へ広げてあった布の端が、根菜の包みに押されて折れ込む。
跳ね莢の何本かが、布のない硬い籠底へ転がった。
誰もそこまでは気づかなかった。
市場を出るころにも、籠の中は静かなままだった。
「ぜんぜんはねないね」
ミアが言う。
「跳ねない方が持って帰りやすいだろ」
「でも、はねるっていったよ」
「家で叩くなよ」
「たたかないよ」
その返事を聞いたエルナが、少し疑わしそうにミアを見た。
ミアも見返す。
「ほんとだよ」
今度は誰も何も言わなかった。
西工房区へ戻る道は、しばらく平らだった。
ところが古い工房が並ぶ辺りまで来ると、石畳の一部に少し高さの違うところがある。
人が歩くだけなら、気になるほどではない。
フィンも普通にそこへ足を掛けた。
靴が石の縁へ乗り、身体がわずかに上下する。
両手の籠も一度だけ揺れた。
底から、
こつ。
硬い音がした。
フィンは足を止めた。
「今、何か当たった」
籠を覗く。
果物も瓶も無事だった。
跳ね莢も、見える範囲では動いていない。
「大丈夫そうね」
リディアが言う。
フィンもうなずき、また歩き始めた。
一歩。
二歩。
三歩ほど進んだころだった。
籠の中から、
ぽん。
緑色の莢が一つ飛び上がった。
「わっ」
フィンが反射的に籠を抱え込む。
莢は手のひら一つぶんほど浮き、縁へ軽く当たって中へ落ちた。
ミアが目を丸くする。
「はねた!」
フィンはその場で立ち止まった。
籠はもう揺れていない。
それなのに、底にあった別の莢がゆっくり弓なりに曲がる。
少し遅れて、
ぽん。
「また!」
今度はエルナも覗き込んだ。
三本目がわずかに震えている。
「手、入れないで」
リディアが言うより先に、フィンは籠を身体から離した。
人の流れを確かめ、壁際の邪魔にならない場所まで数歩運ぶ。
そこへ静かに下ろした。
全員で少し離れる。
屋根の上をついてきていたルクスまで、いつの間にか向かいの軒から籠を見下ろしていた。
しばらくして三本目が跳ねた。
そのあとは何も起きない。
フィンはすぐには触らなかった。
籠の中が完全に静かなままなのを確かめてから、さっき通った石畳を振り返る。
「籠をぶつけたのは、あそこだよな」
「でも、跳ねたのはそのあと」
エルナが言った。
フィンもうなずいた。
男は「ぶつけた瞬間に跳ぶ」とは言っていなかった。
固い衝撃を受ける。
莢が縮む。
戻るときに跳ぶ。
その間に、ほんの少し時間があるらしい。
しかも三本が同時ではなかった。
同じ揺れを受けても、硬い底へ強く当たったものから少しずつ反応したのだろう。
リディアが籠の底へ目を向けた。
「あら」
折れ込んだ布の端が見えた。
最初に跳ね莢を載せたときには、底いっぱいに広がっていたはずの布だった。
今は根菜の包みに押され、一部が横へ寄っている。
フィンも気づいた。
「豆、籠の底に直接ついてる」
市場では布が衝撃を和らげていた。
帰り道では、その布がずれた。
そこへ石の段差が一度、硬い籠底を通して莢へ伝わった。
「俺が強く揺らしたからじゃないのか」
「誰が持っても、あの状態で同じ石を踏めば揺れるでしょうね」
リディアの返事は穏やかだった。
フィンは一度だけ道を見た。
それから籠へ戻る。
「じゃあ、持ち方より中を直す」
リディアが笑った。
「そうしましょう」
上の荷物を少し横へ寄せ、折れた布をもう一度籠底へ広げる。
まだ反応していない跳ね莢は、その上へ静かに集めた。
布の残った部分を折り返し、今度は莢の上にも軽く掛ける。
もし一本くらい跳ねても、籠の外へは出にくい。
「これで行ける?」
ミアが尋ねる。
フィンは籠をすぐ持ち上げず、一度だけ中を見直した。
「行ける。でも、あっちはやめる」
指した先には、古い石が続く近道がある。
反対側へ回れば少し遠いが、石の高さが揃った広い道へ出られる。
「遠回りするの?」
エルナが尋ねる。
「近道してまた止まる方が遅そう」
「それはそうね」
四人は広い方へ曲がった。
帰り道は、来たときより少し長くなった。
フィンは籠を胸へ抱え込まず、両手で下げたまま歩いた。
足元の段差を全部避けようともしない。
ただ、大きく欠けた石があれば少し横へずれ、籠を揺らさない方が楽なところを選ぶ。
隣ではミアが、布を被った豆の様子を何度も気にしていた。
「まだいる?」
「いるよ」
「みえない」
「豆は見えなくてもいなくならないだろ」
「とぶ?」
「飛ばない方がいいな」
そんな話をしていたところで、フィンの靴が小さな石を踏んだ。
籠が一度だけ上下する。
何も起きない。
そのまま数歩進む。
布の下で、
ぱす。
小さな音がした。
ミアの顔が輝いた。
「いた!」
フィンも思わず笑った。
「一個、まだ残ってたか」
布は少し持ち上がっただけで、莢は外へ出なかった。
それ以上は何も続かない。
フィンも立ち止まらなかった。
風見鶏通りへ入るころには、籠を持つ腕に多少重さを感じるようになっていたが、歩き方は市場を出たときよりずっと楽そうだった。
屋根伝いに来ていたルクスは、17番地へ着くと家族より先に窓辺へ降りた。
もちろん出迎えたつもりはないのだろう。
台所では、フィンが籠を床へ置いてもしばらく上の布を外さなかった。
最後の揺れから少し経ち、何の音もしないことを確かめてからリディアが中身を取り出していく。
跳ね莢も、今度は大人しく台へ並んだ。
「これ、まだはねる?」
ミアが尋ねる。
「さっき跳ねたのはもう終わり。でも、まだ跳ねてないのは強くぶつけない方がいいね」
リディアが答えた。
「じゃあ、どうやってたべるの?」
「中を出すの」
一つの莢を手に取り、普通の豆と同じように筋に沿って開く。
ぱきりと莢壁が割れた。
中から丸い豆が並んで現れる。
莢を跳ねさせていた弱い魔力は、曲がって戻る外側の壁に保持されている。開いてその形が崩れれば、もう跳ねる仕組みも残らない。
中の豆には最初からその反応はなかった。
リディアが一粒を皿へ落とす。
ころん、と転がった。
ミアが待つ。
フィンも何となく待つ。
豆は静かだった。
「とばない」
「飛ばなくていいんだよ」
エルナが笑った。
それからは皆で莢を開いた。
ミアは最初の一つだけ慎重に遠くから見ていたが、何も起きないと分かると、リディアの隣で豆を皿へ移す役になった。
フィンも莢を割りながら、空になった殻を何度か裏返して眺める。
昼の道で跳ねたものと同じなのに、開いてしまえばただの薄い莢だった。
夕食では、その豆が温かい煮込みの中に入った。
アルノも離れからやって来て、オスカーは今日の買い物の話を聞きながら匙を動かしている。
「それで、フィンが豆を飛ばしながら帰ってきたのか」
「飛ばしてない。勝手に飛んだ」
「ミア、みたよ!」
「証人がいるらしい」
フィンは少し不満そうだったが、煮込みは気に入ったらしく、二度目には豆の多いところを自分で選んでいた。
食後、ミアは窓辺の紙輪から5番を外した。
1番から4番までの輪が入っている「おえかきのおうち」へ今日の一つも加わり、窓辺に残ったのは6から10までの五個になった。
台所の隅には、開いて静かになった莢がまとめてある。
皿の中の豆も、もう誰の匙からも逃げようとはしなかった。
市場から帰る道も、布の下で鳴った小さな音も、夕食まで見届けていたルクスは、空になった皿を見て目を細めた。
「食べる前にはあれだけ跳ねて、皿に入った途端ずいぶん行儀がいいんだな」




