第23話 空になった殻
星冠暦826年・収穫月3日・木耀日
朝食を庭で食べようと言い出したのは、リディアだった。
収穫月に入ったからといって、昼間まで急に涼しくなったわけではない。それでも朝の空気には、実成月のころより少しだけ軽いところがある。
庭の卓を拭き、椅子を出し、パンと果実を運ぶ。
それだけで、いつもの朝食が少し違って見えた。
「おそとごはん!」
真っ先に庭へ出たミアは、卓へ向かう途中でくるりと曲がった。
庭の低木。その母屋側には、三本の短い杭と灰色の安全紐が残っている。
八月の終わり近く、低い枝に付いた小さな蛹へ不用意に近づかないために置いたものだった。四方を囲んで庭を狭くしてしまった最初の失敗から、今は人が通る母屋側だけを緩い弧で区切っている。
今朝は食器や椅子を何度も運ぶため、紐の弱い反発も起動してあった。
ミアはいつもの場所で足を止めた。
紐を越えようとはしない。
「おはよう」
枝の裏へ声をかける。
くすんだ色の蛹は、昨日までと同じところに付いていた。
少し離れた塀の上では、ルクスも白い身体を朝日にさらしていた。ミアが何へ挨拶したのかくらいは分かっているらしく、低木へ一度だけ目を向ける。
「ミア、パン冷めるぞ」
フィンに呼ばれ、ようやく卓へ戻った。
半分ほど食べたころだった。
フィンが果実へ伸ばしていた手を止めた。
「ミア」
「なあに?」
「あれ」
今度は名前すら言わなかった。
けれど、指の先を見たミアには十分だった。
椅子から勢いよく降りかけ、それから自分で速度を落とす。
エルナも本を卓へ伏せた。
蛹の表面に、細い裂け目ができていた。
昨日まで動かなかった殻の中から、小さな身体がゆっくりと現れている。
「でてくる……」
ミアの声まで小さくなった。
誰も紐の向こうへ入らなかった。
オスカーも枝へ手を伸ばさず、リディアは食器を運ぶ手を止めて少し離れたところから見守っている。
やがて殻の外へ出た虫は、枝にしっかりつかまった。
身体に比べて大きな翅はまだ柔らかそうで、最初からきれいに広がってはいない。
「ちょうちょ?」
ミアが囁いた。
「そう見えるな」
フィンも小声で答える。
庭へ来たアルノは少し遠くから眺めただけだった。
「今は、こっちが何かする時間ではなさそうじゃの」
それだけ言って朝食へ戻る。
ミアだけは名残惜しそうに立っていたが、やがて同じ席へ戻った。
それからの朝食は、妙に庭が気になるものになった。
パンを食べながら誰かが振り返る。
果実水を注いでからまた振り返る。
エルナは本を開き直したものの、同じ頁をずいぶん長く眺めていた。
時間が経つにつれ、小さな蝶の翅は少しずつ形を整えていった。
ときどき開く。
また閉じる。
朝の光を受けるたび、薄い褐色の中に細かな斑が見える。
安全紐はその間も静かに働いていた。
人が枝へ不用意に近づかないためには、まだ役目がある。
朝食が終わり、食器の大半が母屋へ戻ったあとも、蝶は枝に残っていた。
ミアは紐の手前へしゃがみ込み、今度は急かすこともなく待っている。
やがて蝶が、それまでより大きく翅を開いた。
一度。
少し休んで、もう一度。
塀の上のルクスまで、羽づくろいをやめた。
「とぶかな」
ミアが言った。
フィンが答えるより先に、蝶の脚が枝を離れた。
初めての飛翔は、想像していたほど鮮やかではなかった。
低木の葉の上を頼りなく進み、一度高度を落とす。そこからまた翅を動かし、母屋の方へ向きを変えた。
その先には、三本の杭を結ぶ灰色の紐がある。
蝶は飛びながら少し下がった。
灰色の紐とほとんど同じ高さになり、その蛹側――以前、木片を転がして確かめたのと同じ狭い帯へ入る。
次の瞬間、小さな身体が前へ弾んだ。
「あっ!」
蝶は自分で羽ばたいたときより急に速くなり、慌てたように翅を打った。
幸い、正面の壁へ向かうことはなかった。ふらつきながら少し上へ逃げ、庭の端の低い塀へ降りる。
ルクスがすぐ横へ来た蝶を見た。
蝶も動かない。
ルクスも動かなかった。
「そのまま」
オスカーの声で、ミアとフィンは足を出しかけることもなく止まった。
オスカーは安全紐の端へ回り、解除留めを外す。
見た目には何も変わらない。
それでも、灰色の紐の内側にあった弱い反発は消えた。
塀の蝶が翅を閉じているのを確かめてから、ミアが安全紐を見た。
「いまの、これ?」
「そうだな」
オスカーは三本の杭を見た。
青い刻線は、どれも蛹のある側を向いている。
人や物が枝の方へ入りすぎれば、弱い力が母屋側へ押し返す。
八月から、ずっとそうしてきた。
「蝶が外へ出ようとしたから、その力が同じ向きにかかったんだ」
エルナが紐と塀を見比べる。
「入るときも、出るときも同じなんだね」
オスカーがうなずいた。
「紐には、どっちが『守りたい方』の動きかなんて分からないからな」
蝶だから特別に強く押したわけでもない。
人の脚なら、少し抵抗を感じるだけだった。
けれど今そこにいるのは、小さな一匹だった。
同じ上限の弱い力でも、その動きにははっきり表れた。
フィンが空になった蛹殻を見る。
「昨日までは、あれが動かなかったからよかったんだ」
「そういうことだな」
枝にぶら下がっていたものは、もう中身のない殻になっている。
一方、守っていた相手は塀の上にいる。
オスカーは解除した安全紐へ手を掛けた。
「こいつも、ここでの役目は終わりだ」
ミアはすぐには答えなかった。
八月から、蛹を見るときにはいつも灰色の弧が手前にあった。
ここまで。
それより近くへは行かない。
小さな三本の杭は、いつの間にかそんな目印になっていた。
ミアは殻を見て、それから塀の蝶を見る。
「……うん」
オスカーが紐を外し始めると、ミアはもう「残して」とは言わなかった。
力が切れていることを確かめたあと、三本の杭も順に土から抜かれていく。最後の一本が工房へ運ばれるころには、低木と母屋の間から八月以来の灰色の弧がなくなっていた。
庭そのものの広さは変わらない。
それでも低木の前だけ、ずいぶん何もなくなったように見える。
ミアは以前なら安全紐の手前だった場所まで歩いていった。
そこにもう境界はない。
けれど枝のすぐそばまでは行かなかった。
空の殻が見えるくらいの場所で止まる。
塀の上では、小さな蝶がまだ翅を休めている。
「とばないね」
「急がなくていいんじゃない?」
リディアが答えた。
ミアはうなずき、庭の卓へ戻った。
誰も蝶を捕まえようとはしなかった。
やがて朝より高くなった日差しが塀を照らし始める。
蝶はゆっくり翅を開いた。
今度は先ほどより迷いなく身体が浮かぶ。
低く庭へ入り、朝まで安全紐があった場所を横切った。
そこにはもう、飛ぶ方向を変えるものはない。
小さな羽ばたきの速さのまま低木の上へ出て、庭を一度横切ると、少しずつ高さを増していった。
ミアは追わなかった。
空を見上げたまま、その場に立っている。
蝶は母屋の軒より高くなり、風見鶏通りの屋根を越えると、やがて隣家の向こうへ見えなくなった。
「いっちゃった」
「行ったな」
フィンが隣で答えた。
ミアはしばらく空を見たあと、低木へ目を戻した。
蝶はいない。
枝には、開いた小さな殻が残っている。
「これ、どうするの?」
「そのままでいいんじゃない?」
エルナが言った。
ミアは少し考え、うなずいた。
今度は何かへしまおうとも、持って帰ろうとも言わなかった。
夕方になると、低木の下へ長い影が伸びた。
安全紐も三本の杭も工房へ戻り、庭を通る家族はもう遠回りをしない。それでもミアは何度か空の殻を見に行き、そのたびに少し離れた場所で止まった。
日が傾いたころ、窓辺では夏休みの紙輪が揺れていた。
ミアは先頭の3番を外し、昨日までの二つが入っている「おえかきのおうち」の袋へ加えた。
袋から覗く輪は三つ。
窓辺には、4から10までの七つが残った。
その窓から庭を見れば、低木の枝には小さな空の殻がまだ見える。
塀にはもう蝶はいなかった。
一日じゅうその様子を見ていたルクスは、屋根へ移る前に低木を見下ろした。
「飛んでいったなら、それでいいだろ。空まで囲う紐はないんだから」




