第22話 「おやつだよ」の後ろ
星冠暦826年・収穫月2日・水耀日
「それで、何を落としたんじゃ?」
午後の庭を渡って母屋へやって来たアルノは、おやつの皿より先にそう尋ねた。
食卓には切った果実と焼き菓子が並び、水差しの表面には細かな水滴が浮いている。すぐに席へ着けばいいところなのに、アルノは戸口で立ったまま、妙に真面目な顔をしていた。
「おとしてないよ?」
ミアが答える。
「そうなのか?」
「うん」
二人で首を傾げ合う。
その向こうではフィンが木の盆を見下ろし、エルナも何か思い当たることがないかという顔で食卓を眺めていた。
窓辺のルクスだけは、少し前から何も変わらない。
昨日作った紙輪が、その白い姿の近くで九個揺れている。
「わしには、最後に何かが落ちた音まで聞こえたんじゃがのう」
アルノの言葉で、オスカーが庭へ目を向けた。
母屋から離れまで、軒に沿って五枚の継声石が並んでいる。
どれも今は黙っていた。
少し前。
おやつが並び始めたころ、ミアはアルノだけが離れにいることへ気づいた。
「おじいちゃん、よぶ!」
母屋側の送信端末へ向かう。
この継声石は、もう家では珍しいものではなかった。食事ができたときや、母屋へ来てほしいとき、わざわざ庭を渡らなくても離れへ短い声を届けてくれる。
窓辺のルクスが、紙輪の向こうからミアを見た。
ミアは端末の起動部へ指を置く。
「おじいちゃん、おやつだよ!」
その声のすぐ後ろを、木の盆を持ったフィンが通った。
「姉ちゃん、それ!」
ほとんど同時に、盆の端へ寄っていた木の匙が倒れる。
こつん。
送信端末の淡い光が消えた。
それだけだった。
フィンは匙を元へ戻し、エルナは頼まれた皿を渡し、ミアも大仕事を終えたような顔で食卓へ戻った。
アルノへ伝えたかった言葉は、ちゃんと言えた。
だから誰も気にしなかったのである。
ところが、その声を受け取ったアルノには、
『おじいちゃん、おやつだよ――姉ちゃん、それ――こつん』
と聞こえていた。
「それで何か落としたと思ったの?」
エルナが尋ねる。
「そういうことじゃ。食事の呼び出しにしては、最後が不穏じゃろう」
「これだ」
フィンが木の匙を持ち上げた。
アルノがじっと見る。
ミアも見る。
「おさじ?」
「たぶん、そのお匙じゃな」
フィンが吹き出した。
笑いが広がるまでに時間はかからなかった。
おやつを知らせるはずの短い呼びかけに、フィンの一言と匙の音までついて離れへ届いたらしい。
「でも、ミアがおはなししたんだよ?」
「したな」
オスカーは送信端末を手に取らず、その場から一度眺めた。
故障している様子はない。
「ミアの声だけ選んで送る仕組みじゃないんだ」
送信中の短いあいだに端末へ入った音が、一回分の共鳴として送り出される。
途中の継声石も、それを聞き分けたり整理したりはしない。届いたものを受け、決められた方向へ次の一枚に渡していく。
ミアの呼び声も。
そのすぐ後ろにいたフィンの声も。
近くで鳴った匙の音も。
同じ短い時間に端末へ届けば、それぞれ事情を聞かれることなく一緒に離れまで運ばれる。
「壊れたんじゃないんだ」
フィンが言う。
「最初からそういう道具だからな」
オスカーの返事はそれだけだった。
エルナは端末ではなく、さっきまで皆が集まっていた食卓を振り返った。
「じゃあ、呼ぶときだけちょっと待てばいいんじゃない?」
ちょうど果実を配り終えたリディアも、同じ方を見る。
「そうね。ずっと静かにする必要はないもの」
必要なのは、ほんの一呼吸だった。
話を聞き終えたアルノは、ようやくいつもの席へ座った。
「まあ、何も落ちとらんなら問題ない」
そう言って焼き菓子へ手を伸ばしたところで、少し考える。
「しかし昼のあれも、悪くはなかったぞ」
フィンが目を丸くした。
「ごちゃごちゃしてたのに?」
「お前さんが近くにおることまで分かったからの」
アルノは匙で果実を一つすくう。
「ミアだけかと思ったら、後ろにフィンまで付いてきた」
「俺は付いてってないよ」
「声は付いてきたぞ」
それには誰も反論できなかった。
午後の残り時間、継声石はいつもどおり軒下で静かにしていた。
何かを付け加える必要も、取り外す必要もない。
家族の方が、端末の前に立ったときだけ少し気をつければいい。
夕方になり、台所から夕食の匂いが漂い始めるころ、アルノはまた離れへ戻っていた。
ミアが送信端末の前に立つ。
「おじいちゃん、よぶよ」
今度は、その一言だけで居間の空気が変わった。
騒いでいたわけでもないのに、皆が急に自分の立てる音を気にし始める。
誰かが置きかけた食器は卓の少し上で止まり、開いた本の頁もそのままになる。フィンはちょうど何か言いかけた顔で口を閉じ、エルナはそれを見て笑いそうになるのをこらえた。
リディアは、そんな家族の様子がおかしいらしく、口元だけで笑っている。
窓枠ではルクスが片目を開けた。
ミアが起動部へ触れる。
「おじいちゃん、ゆうごはんだよ」
今度は、その後ろに何も続かなかった。
ほんの短い沈黙の中を、送信端末の光だけが淡く消えていく。
光がなくなった途端、フィンが息を吐いた。
「終わった?」
「終わった」
「三秒って、もっと短くなかったっけ」
「黙ろうと思うと長いんじゃない?」
エルナが笑う。
さっきまで抑えていたぶんまで戻ってきたように、居間はすぐいつもの音で満たされた。
庭の向こうでは、共鳴を受けた継声石が一枚ずつ淡く応えている。
その光が軒下を渡り終えてしばらくすると、離れの戸が開いた。
アルノがゆっくり庭を渡ってくる。
「今度は、ずいぶん行儀のいい呼び方じゃったな」
「ちゃんと聞こえた?」
ミアが駆け寄る。
「もちろんじゃ」
アルノは母屋へ上がりながら、まだ何となく静かにしているフィンたちを見回した。
「毎回そこまで黙らんでもよいぞ。昼のくらいなら、誰がおるか分かって面白い」
ミアは少し考えた。
「おさじも?」
「匙はなくてもよい」
そこだけは即答だった。
夕食が終わるころ、窓辺の紙輪が夕方の風に小さく揺れた。
ミアは昨日と同じように、先頭にある2番を一つ外す。
昨日しまった赤い1番の隣へ、今日の輪をそっと差し込むと、「おえかきのおうち」の袋から二つの色が並んで覗いた。
窓辺に残った輪は八個になった。
昼には余計な音まで運んだ継声石も、今は軒下で何事もなかったように静まっている。
食卓ではフィンが「三秒なら次は絶対余裕」と、もう一度言い始めていた。
窓辺から一日じゅうそれを見ていたルクスは、白い翼へ嘴を入れる前に、呆れたように目を細めた。
「三秒黙っただけで得意そうにする家は、たぶんここくらいだな」




