第20話 裏口から表口まで
星冠暦826年・実成月31日・月耀日
「クラウゼルさん、ちょっと手を貸してくれ」
昼を少し過ぎたころ、クラウゼル魔法具店の扉を開けたトビアス・ヘルンは、挨拶もそこそこにそう言った。
工房から顔を出したオスカーが眉を上げる。
「紙なら四日前に買ったばかりだぞ」
「今日は売りに来たんじゃない。運びたいんだ」
「紙を?」
「紙を」
居間にいたフィンが顔を上げた。エルナも本から目を離し、床で色鉛筆を選んでいたミアはもう立ち上がっている。
「おっきい紙?」
トビアスは両腕をいっぱいに広げてみせた。
「これくらいある」
「おっきい!」
「だから困ってる」
今朝、ヘルンの紙店へ新しい包み紙の巻きが届いたのだという。
丈夫な生成りの紙で、西工房区の工房や商店が、大きめの品物を包むのに使う。木工品や額、箱に入りにくい魔法具を包みたい客へ、必要な長さだけ引き出して切って売る紙だった。
荷は裏口から店の奥へ入れた。
ところが午後にさっそく注文が入り、売場の裁ち台脇まで持っていく必要が出たらしい。
「二人で持てない重さじゃない。だが幅がある。棚の間で抱えたまま向きを変えるのは、紙の端を潰しそうでな」
そこでトビアスが思い出したのが、以前オスカーから聞いた歩み帯だった。
オスカーは少し考えてから工房へ戻り、濃い茶色の帯を抱えて出てきた。
「運ぶ物を見てからだ。使えなかったら人力で考えるぞ」
「分かってる」
「ミアもみる!」
「見学は離れたところからな」
「うん!」
紙を運ぶだけのはずなのに、いつの間にか三人の子どもまで同行することになった。
小広場へ着いたところで、ミアが屋根を指さす。
白い翼が一度だけ翻り、ヘルンの紙店の軒へ降りた。
「ルーちゃんもきた!」
ルクスは下を見ようともしなかった。
同じ方向へ飛んできただけだと言いたいらしい。
紙店の奥には、トビアスが腕を広げて示したとおりの物が待っていた。
生成り色の紙が太い木の芯へ幾重にも巻かれ、その芯の両端を低い木製の運搬架が支えている。紙そのものは架台へ触れておらず、少し押せば芯だけが受けの上で回る作りだった。
幅は運搬架よりかなり広く、左右へ長く張り出している。
ミアが端から端まで目で追った。
「ながい」
「だろう」
なぜかトビアスは得意そうだった。
「売り物を自慢するのはいいが、運べなくて呼びに来たんだろ」
オスカーはしゃがみ込み、紙より先に運搬架の底を確かめた。
底面は硬く、ぐらつきもない。歩み帯を巻くには十分だった。
帯を架台の下へ回すと、四隅に平たい踏み片が収まり、側面から青い方位鋲がのぞいた。
「最初は一動作だけ見る」
オスカーが言うと、子どもたちはトビアスに示された棚際まで下がった。
フィンも進路へ出ず、まず足元と紙巻きの位置を見ている。ミアは自分からさらに半歩下がり、背中で両手を組んだ。
オスカーが歩み帯を起動した。
一つの踏み片が床を捉え、帯の内側がわずかに縮む。
低い運搬架が、ごそりと前へ進んだ。
その上で紙巻きも揺れずについてくる。
「紙があるいた!」
ミアの声が店の奥へ響いた。
「歩いてるのは下だぞ」
フィンに言われても、ミアには大した違いではないらしい。
オスカーは二度、三度と短く進ませ、そのたびに紙巻きと架台を確かめた。荷重にも傾きにも問題はなく、踏み片も床をきちんと捉えている。
売場までの通路も、運搬架だけなら十分に通れる幅があった。
問題になりそうなのは、途中にある一か所の角だけだった。
左右を紙棚に挟まれたそこで、通路は直角に折れている。
トビアスが角の先を覗いた。
「台は入るな」
「入る」
オスカーも方位鋲と床を見比べる。
歩み帯には四分の一だけ向きを変える回頭動作がある。車輪の付いた荷車のように大きな円を描かず、四つの踏み片の固定を入れ替えながら、底の中心をほとんど動かさずに向きを変えられる。
運搬架だけなら、棚に触れることなく曲がれるはずだった。
オスカーは角まで紙巻きを進め、いったん止めた。
周囲へ誰もいないことを確かめてから、回頭を始める。
架台がゆっくり右を向き始めた。
青い方位鋲が弧を描く。
底の中心は、ほとんどその場から動いていない。
だからこそ、最初の一瞬はきれいに曲がれているように見えた。
半分ほど向きが変わったところで、オスカーの視線が紙巻きの右端へ走った。
架台から長く張り出した紙の端だけが、思っていたよりずっと大きな弧を描いている。
その先には、棚から吊られた色紙の見本があった。
生成りの紙巻きが青い一枚へ触れる。
青が揺れ、その隣の赤、黄色まで続けてぱたぱたと鳴った。
それでも歩み帯は止まらない。
踏み片の下には何もない。架台も傾いていない。重さも最初と同じである。
オスカーが解除扣を押した。
回頭が止まり、何色もの見本紙だけがしばらく余韻のように揺れていた。
「きれい」
ミアが言った。
「売り物だよ」
トビアスは青い紙を確かめ、傷がないと分かってようやく笑った。
「今回はな」
オスカーは架台ではなく、左右へ張り出した紙巻きを見た。
運搬架は曲がれる。
歩み帯も命令どおり曲がっている。
けれど、その上の荷物がどこまで長いかなど、帯は知らない。
紙の端が柔らかな見本へ触れても、踏み片の動きを邪魔しなければ、安全停止が働く理由もなかった。
トビアスが長い紙巻きの端を軽く叩いた。
「台は賢く曲がれても、こいつの長さは消えないわけだ」
「そういうことだな」
オスカーは工具袋へ手を入れた。
もう少し手前で回すか。何度か位置をずらして向きを変えるか。
指令片へ伸びかけた指が止まる。
紙棚を見上げていたミアが、いつの間にか反対側を向いていた。
店の奥には、朝この紙巻きを入れたという裏口が開いている。
外から細い路地の明るさが差し込んでいた。
「おそとなら、まがれる?」
オスカーが裏口を見る。
トビアスも振り返った。
店の外へ出れば、建物の脇を通って小広場まで回れる。中を抜けるよりずっと遠いが、棚の間で紙巻きを曲げる必要はない。
しかも今朝、この紙巻きはその裏口から入ってきたばかりだった。
トビアスが額を押さえた。
「入れるところまでは考えたんだがな」
「その先を考えろ、紙屋」
「お前にだけは言われたくない」
オスカーはしばらく工具袋へ入れた手をそのままにしていたが、結局何も取り出さずに蓋を閉じた。
「外を回そう」
紙巻きは来たばかりの裏口から、もう一度夏の日差しの下へ出ることになった。
トビアスが先に路地を確かめ、子どもたちは壁際の安全な場所を歩く。オスカーが歩み帯を短く動かすたび、運搬架は石の上へ四つの踏み片を順に置きながら、人の歩みより遅い速度で進んでいった。
店内では邪魔に見えた長さも、空の下へ出てしまえば印象が変わる。
生成り色の紙巻きは左右へたっぷり幅を取っていたものの、その先に触れる棚はない。角へ来るたびトビアスが周囲を確かめ、十分な空間を取ってから向きを変えれば、紙の端は何にも触れず夏の光の中を大きく回った。
ミアは最初こそ一歩進むたびに数を数えていたが、十を越えたあたりで分からなくなったらしい。それからは紙巻きが止まるたびに自分も止まり、動けばまた歩くことにした。
フィンは少し前から振り返り、紙の両端が壁や軒へ近づいていないかを見ていた。エルナはその横で、店の中なら数歩で済んだ距離が、外ではずいぶん長くなることを面白そうに眺めている。
頭上では、ルクスが一行より先に屋根を渡っていた。
一つ先の軒へ飛んでは止まり、紙巻きが追いつくころになると、また次の屋根へ移る。
急かすでもなく、離れてしまうでもない。
小広場まで出ると、ようやく紙巻きの周囲に何もない場所ができた。
そこでオスカーが回頭させると、さっき店内で色紙を揺らした長い端が、今度は何にも触れず大きく空を切った。
トビアスが紙店の正面にある両開き戸をいっぱいに開ける。
あとは裁ち台まで、ほとんど一直線だった。
午後の光を背負った大きな紙巻きが、店の表からゆっくり入っていく。奥から運ぼうとしたときにはあれほど邪魔だった左右の長さも、正面さえ合っていれば何の問題にもならなかった。
裁ち台脇の定位置まで運搬架が収まると、トビアスは芯が滑らかに回ることを確かめた。
紙を少し引けば、生成りの面が裁ち台の上へまっすぐ伸びる。
これなら注文された長さに合わせて切れる。
「着いたな」
トビアスが満足そうに紙を巻き戻した。
「店の中を通るより、ずいぶん歩いたが」
「紙は傷んでない」
オスカーはしゃがんで歩み帯を外し始めた。
「棚もな」
「帯も直さない?」
ミアが尋ねた。
オスカーの手が一瞬だけ止まった。
「直すところがないからな」
「でも、さっきぶつかったよ?」
「ぶつかりかけたのは紙だ。こいつは自分の仕事をした」
外した帯を丸め、工具袋へ収める。
その顔には、少し前まで新しい指令を考えていた名残があったが、もう袋を開き直そうとはしなかった。
トビアスがそれを見て笑う。
「今日はずいぶん素直だな、クラウゼルさん」
「何がだ」
「その場で便利にしようとしない」
オスカーは返事の代わりに工具袋を肩へ掛けた。
「次の注文が来る前に、裏口から表へ回す道だけ片づけておけ」
「はいはい」
紙店を出るころには、午後の日差しも少し傾いていた。
小広場から振り返ると、開いた店の奥に大きな生成りの紙巻きが見える。さっきまで裏口近くで行き場をなくしていた物が、今は裁ち台の横で客の注文を待っていた。
ミアは満足そうにそれを眺め、それからオスカーの工具袋へ目を移した。
今日は何も増えていない。
新しい術式も、新しい注意札もない。
ただ、家へ戻る道だけが、紙巻きの歩いた道よりずっと短かった。
屋根の上をついてきていたルクスが、風見鶏通りへ入る角で塀へ降りた。
白い翼を畳み、何でもない顔で家族を見回す。
「最初から外を回る頭があれば、俺が屋根の上で荷物番までしなくて済んだんじゃないか?」




