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風見鶏通り17番地、今日も魔法日和  作者: リタイアルーキー


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19/87

第19話 宵種は夜を知らない

 星冠暦826年・実成月30日・陽耀日

 昼すぎの台所で、ミアの両手は白かった。

 手のひらも、指の間も白い。

 なぜか鼻の頭まで白い。

「ミア」

 リディアが呼ぶ。

「なあに?」

「顔でパンをこねた?」

「こねてないよ」

「じゃあ、どうして鼻まで粉だらけなのかしら」

 ミアには自分の鼻が見えない。

 代わりに、隣で生地を丸めていたフィンが吹き出した。

「さっき、粉の手で鼻かいたじゃん」

「あ」

 思い出したらしい。

 そのまま同じ手で拭こうとしたところへ、リディアが布巾を差し出した。

「その手では増えるだけよ」

 実成月最後の陽耀日。

 風見鶏通り17番地の台所では、夕食用のパン作りが進んでいた。

 大きなこね鉢には、小麦粉と水、塩、少しの油を合わせた生地がまとまっている。

 今日のパンがいつもと違うのは、その隣に灰色がかった細かな粒の入った紙包みが置かれていることだった。

「これ、よいだね?」

 鼻を拭き終えたミアが覗き込む。

「そう。今日はこれを使ってみようと思って」

 リディアは答えた。

 宵種は、生地へ練り込むものではなかった。

 乾いたままでは何もせず、成形した湿った生地の表面へ、ごく薄く振って使う。

 明るいところでしばらく休ませておく。

 それから周りが十分暗くなると、一度だけ生地をふっくらさせる。

 料理をする人間なら、それだけ知っていれば困らない程度の説明だった。

「暗くなったら?」

 ミアが聞く。

「そうね」

「よる?」

「だいたい、そのころね」

 向かいで料理本を開いていたエルナも頁を確認する。

「こっちにも『明るい場所で十分休ませ、日が落ちるころに焼く』って書いてある」

 ミアは窓を見た。

 外はまだ、夏の午後らしい強い光で満ちている。

「まだ?」

「まだ」

「もうちょっと?」

「それは、ミアの『もうちょっと』がどのくらいかによるかな」

 フィンが笑った。

 リディアは生地を六つへ分けた。

 今日はアルノも夕食に来ることになっているので、数はちょうど六つである。

 それぞれが自分の分を丸めているうちに、ミアは自分の生地からほんの少しだけちぎった。

 細長くする。

 真ん中を太くする。

 両側をつまんで平たくする。

 先端を尖らせる。

 フィンが横から覗いた。

「何それ?」

「ルーちゃん」

 窓の外には、本人がいた。

 開けた窓の外枠で白い翼を休め、台所の様子を眺めている。

 ミアは生地を持ち上げた。

「ほら」

 ルクスは生地を見る。

 次に自分の身体を見る。

 もう一度、生地を見る。

 金色がかった目が明らかに疑わしそうになった。

「鳥なんだって」

 なぜかエルナが弁護した。

 ルクスの視線が今度は彼女へ移る。

 弁護として十分ではなかったらしい。

 丸いパン六つと、ミアの小さな鳥らしき生地が焼き板へ並んだ。

 リディアはそれぞれの表面をほんの少し湿らせ、宵種を薄く振る。

 灰色の粒は湿った生地へ付くと、それきり動かなくなった。

 虫が寄らないよう、高さのある目の粗い覆いを被せる。

 光まで遮ってしまうほど密なものではない。

 焼き板は明るい窓辺へ置かれた。

「これで待つの?」

 フィンが聞いた。

「これで待つの」

「何もしない?」

「しない」

「本当に?」

「見張られて早くなるパンなら、ミアがもう三回くらい焼き上げてるわね」

 本人はまだ一度しか見張っていなかったが、その後すぐに二度目が来た。

 しばらくして三度目も来た。

 最後には自分用の椅子まで窓辺へ運び、膝へ手を置いて焼き板を眺めている。

「大きくなった?」

 フィンがさっきの大きさを両手で作ってみせた。

「同じじゃない?」

「ちょっとは?」

「たぶん、ちょっとも」

「おそい」

 窓の外ではルクスが片目を開けた。

 自分の名を勝手に付けられた小さな生地も、確かにまだ細長い鳥らしき形を保っている。

 午後は、パンとは関係なく少しずつ進んでいった。

 リディアは煮込み鍋の支度を始め、エルナは本を持って居間へ移った。

 フィンは庭へ出て、ミアも一度はついていく。

 それでも、ときどき誰かが台所へ戻るたび、窓辺の焼き板へ目をやった。

 夏の日差しは長く残り、粗い覆いの下まで十分な明るさが届いている。

 宵種は黙ったままだった。

 かなり時間が経ってから、庭から戻ったフィンが言った。

「じゃあ、今暗くしたら膨らむのかな」

 ミアがすぐ反応した。

「まっくらにする?」

 リディアは笑った。

「今なら、たぶんね。でも夕食までまだ早いでしょう?」

「種は時間を知ってるわけじゃないんだよね?」

 エルナが居間から顔を出す。

「そう聞いてるわ」

「じゃあ夕方まで待つのは、料理する人の都合?」

 その問いに、ちょうど工房から水を飲みに来たオスカーが反応した。

「正確に言うと――」

「パパ、ながい?」

 ミアが尋ねる。

 オスカーは口を閉じた。

 少し考える。

「今日は、やめとく」

「えらい」

 エルナに褒められ、本人は複雑そうだった。

 結局、焼き板には誰も手を出さなかった。

 変化が起きたのは、それからさらに時間が過ぎてからだった。

 最初に空の変化へ気づいたのはルクスだった。

 窓枠で伏せていた白い頭が持ち上がる。

 つられるようにミアも外を見た。

 風見鶏通りの向こうから、厚い雲が広がってきていた。

 雨雲というほど黒くはない。

 けれど夏の太陽をすっかり覆うには十分な厚さだった。

 石畳から白い照り返しが消え、庭の草木に落ちていた影が薄くなる。

 台所も、急に夕方を先取りしたような色になった。

「よる?」

 ミアが尋ねた。

「まだそこまで遅くないよ」

 エルナが窓の外を見る。

 雲はすぐには通り過ぎなかった。

 しばらく薄暗さが続く。

 台所の中まで目が慣れ始めたころだった。

 焼き板の上で、丸い生地の表面がわずかに持ち上がった。

「……あ」

 フィンが声を落とした。

 今度は誰も近寄らなかった。

 覆いの向こうで、生地がゆっくり丸みを増していく。

 一つだけではない。

 同じ窓辺で午後じゅう光を受けていたパンが、ほとんどそろって膨らみ始めていた。

 平たかった表面に張りが出る。

 指先で付けた小さな印が広がる。

 フィンのパンに入っていた細い溝は、笑った口のように太くなった。

 エルナのものは、もともと丁寧に丸めてあったせいか、ますます行儀のいい半球になる。

 そして、ミアの鳥は。

 細かった胴が太くなった。

 左右へ伸ばした翼もふくらんだ。

 頭まで丸くなる。

 鳥らしさが消えていくほど、全体が立派にふっくらしていった。

 ミアが息を呑んだ。

 窓の外の本人と見比べる。

「ルーちゃん、ふとった!」

 白い翼がさっと身体から浮いた。

「パンが、ね」

 リディアがすぐに付け足した。

 フィンは笑いそうになりながらも、焼き板へ手は伸ばさなかった。

「もう触っていい?」

「まだ待ちましょう」

 リディアが答える。

 生地の動きが落ち着くまで、全員そのまま眺めた。

 やがて膨らみは止まった。

 覆いにも触れていない。

 焼き板からこぼれてもいない。

 ただ、予定していた夕方より一足早く、焼けるのを待つ形になっただけだった。

 エルナが窓の外を見た。

「まだ夕方じゃないよね」

「うん」

 フィンも空を見る。

「でも暗くなった」

 その二つを並べると、答えはほとんど出ていた。

 リディアは焼き板と雲を見比べ、納得したように息をつく。

「本に書いてあった『日が落ちるころ』は、種にとっての時刻じゃなかったのね」

「宵種の方は夜なんか知らないからな」

 オスカーが言った。

 人間には夕方が分かる。

 夕食の時間も分かる。

 今日はまだ少し早い、という予定もある。

 けれど宵種にあるのは、そんな予定ではなかった。

 湿った生地へ接していること。

 明るい場所で十分な時間を過ごしたこと。

 そして、そのあと暗さがしばらく続いたこと。

 今日の雲は、その最後の条件だけを予定より早く満たした。

「一瞬、影になったくらいじゃ動かないの?」

 フィンが尋ねた。

「そのくらいでは動かない」

 オスカーが今度は短く答えた。

「暗い状態が少し続いて、初めて放す。働くのも一回だけだ」

 それで説明は足りた。

 なぜ今日だけ早かったか分かれば、あとは台所の問題である。

 リディアは煮込み鍋を見た。

 まだ、ゆっくり火を通したいところだった。

 焼き板には、もう十分ふくらんだパンが並んでいる。

「夕食、まだだよ?」

 ミアが聞く。

「そうね」

 リディアは少し考えたあと、笑った。

「でもパンの方は待たせない方がよさそうね」

 予定どおりの夕食にパンを合わせ直すより、今日は夕食の方を少し変えることにした。

 煮込みは火を弱めて、そのままゆっくり仕上げる。

 パンだけ先に焼く。

 焼き板を窯へ運ぶのはリディアとオスカーに任せ、子どもたちは卓の上を空けた。

 いつもなら「夕食の支度」は一つのまとまりのように進んでいくのに、今日はパンだけが先に夕方へ駆け込んだようだった。

 その早足へ合わせるうちに、家族の方もだんだん可笑しくなってくる。

「パンだけ先にごはん?」

 ミアが聞く。

「パンは食べられる方よ」

 エルナが笑う。

「じゃあ、ミアたちがパンに追いつく?」

「それなら合ってるかも」

 焼き窯から熱が回り始めると、それまで魔法の条件ばかり気にしていた台所へ、今度は普通のパンの匂いが広がった。

 小麦の香ばしさ。

 焼けていく表面の匂い。

 鍋から漂う煮込みの香り。

 先ほどまで薄暗かった家の中も、いつの間にか少しずつ明るさを取り戻していた。

 雲が東へ抜け始めたのだ。

 西から日差しが戻ってくる。

 それでも、窯の中のパンがもう一度膨らみ直すことはない。

 宵種の仕事は、雲が来たときに一度終わっている。

 そのころ、庭の離れからアルノが顔を出した。

 窓から流れてきた匂いにつられたらしい。

「夕食には、まだ少し早くないかの?」

「パンだけ早くなったの」

 ミアが答える。

 アルノは少し考えた。

「パンに何か急ぐ用事でもあったのか?」

「雲」

「ますます分からんのう」

 詳しい説明を求めるかと思ったが、焼き窯の匂いを嗅ぐと、そのまま食卓の椅子へ向かった。

 今日は理屈よりパンの方が強かった。

 焼き上がったものを並べると、同じ生地だったはずなのに、形にはそれぞれ性格があるように見えた。

 エルナのパンは妙に整っている。

 フィンのものは中央の筋が大きく開き、笑っているようだった。

 オスカーは少し大きく作ったせいで、隣の一つと端がくっついている。

 リディアのものは、本人が「普通でいいのよ」と言っていたとおり、いちばん素直な丸だった。

 アルノは自分の印を探して三つほど眺めた末、結局ミアに選んでもらった。

 そして焼き板の端には、小さな七つ目が残っている。

 ルクスになるはずだったパンである。

 翼は丸い。

 胴も丸い。

 頭も丸い。

 辛うじて片側に尖った部分があり、それを嘴だと思えば、どうにか鳥と言えなくもない。

 焼きたてなので触れるまで少し待ち、十分冷めてからミアが両手で持ち上げた。

「ルーちゃんパン!」

 窓辺の本人へ見せる。

 ルクスは逃げなかった。

 金色がかった目で、パンを見る。

 自分の翼を見る。

 またパンを見る。

 食卓の方では、煮込みが仕上がるまでの間に、焼きたてのパンを少しずつちぎって味見することになっていた。

 予定より早かった。

 けれど、そのせいで困る者はいなかった。

 割ったパンから立つ湯気をミアが嬉しそうに覗き、リディアは煮込み鍋をゆっくり混ぜている。

 西日が戻った窓の外では、さっき家を暗くした雲が遠ざかり、その下から本当の夕方が近づいていた。

 ミアはまだ、丸い鳥のパンとルクス本人を見比べている。

 そしてとうとう、一番聞きたかったことを尋ねた。

「にてる?」

 ルクスはしばらく答えなかった。

「それを俺だと言うなら、せめて翼と胴の区別くらいつけろ。……雲一つで丸くなるほど、俺は素直じゃない、ミア」


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