第18話 涼しさは店の中を逃げる
星冠暦826年・実成月29日・土耀日
昼を過ぎるころには、風見鶏通りの石畳が白く光っていた。
店の扉を開けば熱い空気が入り、閉めれば今度は店の中に熱がこもる。
しかも今日は、修理品を受け取りに来る客や、簡単な調整を頼みに来る客が妙に続いていた。
からん、と扉の鈴が鳴る。
「いらっしゃいませ!」
ミアが店主より先に声を上げた。
用を済ませた客が笑いながら外へ出ていく。
からん。
「いらっしゃいませ!」
「今のは『ありがとうございました』」
カウンターの向こうでオスカーが訂正する。
「ありがとうございました!」
覚えたばかりのミアが元気よく言ったところへ、ちょうど次の客が入ってきた。
「今度は逆」
フィンが笑った。
エルナはカウンターの端で本を読んでいたが、客の邪魔にならないよう何度目かの椅子移動をしたところで、ついに頁から顔を上げた。
「暑い」
「夏だからな」
オスカーが答える。
「知ってる」
「じゃあ問題ない」
「知ってることと暑くないことは別でしょ」
母屋から畳んだ布を持ってきていたリディアが、二人の間を通りながら小さく笑った。
来客が重なる時間だけ店を手伝っているらしく、受け取った品を棚へ置いたり、カウンターを拭いたりしている。
店の高い棚ではルクスが翼を身体からわずかに浮かせていた。
誰より静かだが、どうやら暑いことだけは白い羽の具合で分かる。
日差しの届かない高い場所を選び、余計な動きをしない。
「ルーちゃん、あつい?」
ミアが見上げた。
返事はない。
「たぶんミアより賢く暑さを避けてる」
フィンが言うと、金色がかった目だけが一度こちらを向いた。
「仕方ない。あれを出すか」
オスカーが工房へ入っていった。
戻ってきたときには、腕ほどの長さがある薄い灰青色の板を抱えていた。
角には擦れた跡がいくつもあり、どう見ても新作ではない。
「何それ?」
フィンが尋ねる。
「冷却板。暑い時期に工房で使ってるやつだ」
「見たことない」
「奥で作業するときくらいしか出さないからな」
床へ直接寝かせるのではなく、オスカーは低い木台の上へ板を置いた。
側面には小型蓄魔石と、平たい停止片が付いている。
「これには触るなよ」
「危ない?」
「危険な出力ではない。でも位置を動かすと基準まで変わる。今日は俺が触る」
フィンは素直に一歩離れた。
ミアもそれを見て、同じだけ下がる。
オスカーが停止片を起こした。
派手なことは何も起こらなかった。
板は光らず、風も吹かない。
客が一人入り、修理品を受け取って帰っていく。
それから少し経ったところで、カウンターの前にいたフィンが不思議そうに腕を擦った。
「ここ、ちょっと涼しくない?」
エルナも本を閉じずに片手だけ伸ばす。
「あ。本当」
ミアがすぐに間へ割り込んだ。
「ひんやり!」
三人が一か所へ集まったせいで、次に入ってきた客がカウンターへ近づきにくそうにした。
「涼しい場所を塞ぐな。店だぞ」
オスカーに散らされる。
それでも最初のうちは、それでよかった。
冷たい風が吹くほどではないが、カウンターの近くへ行けば少しだけ空気が楽になる。
エルナも椅子をそこから遠くない場所へ戻し、本の続きを読み始めた。
ところが、しばらくして扉が大きく開いた。
外から差し込んだ真昼の日差しが敷居と石床を照らす。
客が入って扉が閉じても、窓際と入口近くには外の熱が残った。
そのころからだった。
「……あれ?」
フィンが顔を上げた。
さっきまで感じていた涼しさがない。
手を前へ出してみる。
右。
左。
「なくなった」
「冷却板、止まった?」
エルナが板を見る。
側面の表示はまだ消えていない。
オスカーも仕事の合間に一度そちらを見たが、慌てる様子はなかった。
ミアは店の中を見回した。
そして入口へ行く。
今度は走らず、客の通り道を避けながら端へ寄った。
「あった!」
敷居の少し内側だった。
外から熱が入り込んだ場所だけ、空気が薄く冷えている。
エルナも近づき、眉を寄せる。
「移った?」
「何が?」
「涼しい場所」
フィンも来た。
三人が入口付近へ集まりかけたので、リディアが笑いながら手で散らした。
「そこに皆でいたら、今度はお客さんが入れないわよ」
結局、子どもたちはまた元の場所へ戻った。
涼しさだけが入口に残る。
「お父さん、知ってた?」
エルナが尋ねた。
「何を?」
「動くこと」
「動くぞ」
「先に言ってよ」
「冷却板だとは言った」
「場所まで動く冷却板とは聞いてない」
「そこまで聞かれなかった」
エルナが何か言おうとして、やめた。
代わりにリディアがオスカーを見た。
「あなた、その説明で店の商品を売ったら駄目よ」
「これは売ってない」
「そういう問題じゃないわ」
オスカーは素直に口を閉じた。
次に涼しさが移ったのは、その少しあとだった。
修理済みの金属製魔法具を受け取りに来た客が、布包みをカウンターへ置いた。
日なたを歩いてきたらしく、包み越しでも外装にはかなり熱が残っている。
「今日は暑かったでしょう」
リディアが声を掛けると、客は額の汗を拭った。
「もう少しで、この子を抱えているのが嫌になるところでした」
「修理は終わってますよ」
店主の声に戻ったオスカーが包みを開き、修理箇所を説明する。
その間、カウンターの周りで別の変化が起きていた。
最初に気づいたのはミアだった。
「またきた」
入口の涼しさが薄くなっている。
代わりに、暖かな修理品が置かれたカウンターの周りが、少しずつひんやりしていた。
客も気づいたらしく、自分の腕を見た。
「私についてきた?」
「いえ」
オスカーが笑った。
「たぶん、そっちです」
指された修理品を見て、客も笑った。
「品物の方が待遇がいいのね」
会計を終えた客が包みを持ち上げて帰ると、カウンターにはまだ少しだけ冷たさが残った。
けれど時間が経つにつれてそれも薄れ、やがて入口近くへ静かに戻っていく。
フィンはその様子をずっと見ていた。
「持ってる間は追いかけなかった」
「置いたところに来たね」
エルナも本を閉じていた。
人を追っているようには見えない。
品物そのものを追っているようにも見えない。
温かいものがしばらく置かれた場所に、遅れて涼しさが現れている。
「試したい顔をしてるわね」
リディアに言われ、フィンが振り向いた。
「ちょっとだけ」
「熱い道具は駄目よ」
「分かってる」
オスカーも工房へ目を向けたフィンへ先回りした。
「炉の近くから何か持ってくるのも禁止」
「まだ何も言ってないって」
「だから先に言った」
危険なものを持ち出す必要はなかった。
庭の日なたに置きっぱなしだった座布団が一枚ある。
オスカーが手で確かめ、子どもが扱っても問題ない温かさだと確認してから、フィンへ渡した。
「床へ置くだけだぞ」
「うん」
座布団を店の奥側へ置く。
すぐには何も起こらなかった。
ミアが床へ顔を近づけそうになり、途中でやめた。
代わりにしゃがんだまま待つ。
入口にあった冷たさが少しずつ薄れていく。
やがて座布団の置かれた床の周りへ、あのわずかな涼しさが現れた。
「来た!」
ミアが声を上げる。
今度は座布団を反対側へ移してみた。
しばらく待つ。
涼しい場所はすぐには動かない。
座布団が置かれていた床の熱が落ち、別の場所へ置かれた座布団の下が暖まってから、ようやく作用する場所が変わった。
フィンがそこで納得したようにうなずいた。
「座布団を追ってるんじゃないんだ」
リディアも二つの場所を見比べていた。
「座布団が暖めたところを冷やしているのね」
「そういうこと」
オスカーがようやく冷却板のそばへ来た。
起動した位置を基準に、店内をいくつもの小さな範囲へ分けて温度差を見る。
一定より熱くなった場所があれば、その中で最も温度の高いところへ冷却作用を寄せる。
そこが落ち着けば、また別の熱だまりへ移る。
見ているのは人でも、荷物でも、座布団でもない。
その瞬間、その場所がどれだけ熱を持っているかだけだった。
「工房だと、窓際とか壁際だけ熱がこもることがあるからな」
オスカーが言う。
「一か所を冷たくするより、熱いところを少しずつ潰していく方が長く作業しやすい」
「じゃあ」
フィンが入口を見る。
「最初から、あそこを冷やしてくれてたんだ」
日差しの残る敷居には、また薄い涼しさが戻り始めていた。
人間の方は、自分たちのところへ来てくれないので勝手に逃げられたと思っていた。
リディアがその様子を眺めて笑った。
「追いかけなくても、ちゃんと働いてくれるのね」
フィンは手にしていた座布団を見た。
それから庭へ戻しに行った。
冷却板の仕組みを変える者はいなかった。
代わりにリディアが果実水を持ってきて、店の奥の日差しが当たらないところへ椅子を少し寄せた。
エルナはそこへ座り直して本を開き、フィンも窓際から離れる。
ミアは最初こそ、入口へ移った涼しさを名残惜しそうに見ていたが、果実水の方が早く勝った。
午後の後半にも客は何人か来た。
扉が開けば、外の熱気が入る。
暖かい品物が置かれれば、その周りの床やカウンターも少し温まる。
冷却板は急がなかった。
しばらく同じ場所で働き、熱が落ち着くと、いつの間にか別の場所へ移っている。
もう、そのたびに子どもたちがぞろぞろ後を追うことはなかった。
エルナが頁をめくる音。
オスカーが客へ修理内容を説明する声。
リディアが棚の品を整える小さな音。
ときどき鳴る扉の鈴。
その全部の下で、冷却板だけが目立たず働き続けていた。
「なんか、思ったより地味だね」
夕方近く、エルナが本から顔を上げて言った。
オスカーはカウンターの下を整理しながら笑った。
「工房の道具なんて、ちゃんと働いてるとだいたい地味なんだよ」
「最初、みんなで追いかけたけどね」
フィンが言う。
「それは道具の責任じゃない」
「分かってる」
「本当に?」
「今日は分かってる」
今度はオスカーの方が笑った。
日が傾くにつれて、風見鶏通りから差し込む光も弱くなっていった。
昼には熱を持っていた敷居が冷め、窓際の床も少しずつ落ち着いていく。
やがて冷却板の表示が暗くなった。
蓄魔石が今日使う分を終えたらしい。
オスカーが停止片を戻す。
店じゅうから急に涼しさが消えるわけではなかった。
外の風そのものが昼より少し軽くなっている。
客足も途切れ、閉店前の静かな時間が戻ってきた。
高い棚では、ルクスが午後のほとんどを同じ場所で過ごしていた。
最初から直射日光の来ない場所なので、冷却板の作用域は一度もそこへ移らなかった。
ミアが見上げる。
「ルーちゃん、ひんやりこなかったね」
片方の目だけが開いた。
「ルーちゃんも、ひんやりほしかった?」
返事はない。
ミアは少し考え込んだ。
その顔を見たフィンが何か言おうとしたが、間に合わなかった。
ミアは庭へ走るのではなく、いったん店先で足を止め、誰も通っていないのを確かめてから外へ出た。
戻ってきた腕の中には、さっきの座布団がある。
夕方とはいえ、まだ日なたの温もりが少し残っていた。
「これ、ルーちゃんのしたにおいたら――」
冷却板はもう止まっている。
それ以前に、ルクスの目が座布団とミアの間を何度も往復していた。
白い翼がわずかに身体へ寄る。
ミアは座布団を抱いたまま首を傾げた。
「俺は頼んでない。どうしても涼しくしたいなら、まずその日向の座布団を近づけるな、ミア」




