第17話 小さな札は研究箱を追いかける
星冠暦826年・実成月28日・金耀日
昼を少し過ぎたころ、離れの戸が開いた。
出てきたアルノは、古い木製の研究箱を両腕で抱えている。
大きさのわりに今日は軽いらしく、足取りはいつもと変わらない。ただ、箱の上に付いた革の取っ手だけは見るからに危なかった。長く使われた革には細かなひびが入り、付け根の片側など、持ち上げればそのまま裂けそうになっている。
庭にいたフィンが顔を上げた。
「じいちゃん、それ持とうか?」
「大丈夫じゃよ。中身を半分出してきたからの」
「取っ手、切れそうだけど」
「だから使わずに抱えておる」
アルノはそのまま工房へ向かった。
開いた戸の奥では、オスカーが作業机に向かっている。
「オスカー君。革を一本、替えてくれんか」
「いいですよ」
オスカーが振り向き、箱を見る。
「ただし、持ってくる途中で切れてから言うのは駄目ですからね」
「まだ切れとらん」
「その理屈は職人には通りません」
「厳しいのう」
「お義父さん相手だから言ってるんです」
そのやり取りを聞いて、フィンが笑った。
少し離れた木陰ではエルナが本を読み、ミアは昨日の黄色い紙翼を石畳の上へ置いて、小石を周りへ並べている。
その頭上の枝にはルクスがいた。
紙翼からはもう魔法具を外してある。それでも昨日のことを覚えているのか、ときどき黄色い紙へ疑わしそうな目を向けていた。
アルノが庭を半分ほど渡ったところで、フィンの視界の端に何かが動いた。
離れの戸口だった。
薄茶色の、小さな四角いものが床の上を滑ってくる。
「じいちゃん」
「なんじゃ?」
「後ろ、なんか来てる」
アルノが振り返った。
それにつられて、エルナも本から顔を上げる。
小さな四角は、離れの中にある低い棚の下から姿を現したところだった。
棚のすぐ上には、さっきまで研究箱が置かれていた。
今まで箱の真下に隠れていたらしい。
木の札だった。
手のひらほどの大きさで、擦れた角が床をこすりながら、ゆっくり戸口へ向かってくる。
敷居へぶつかった。
かたり、と乾いた音がする。
止まる。
かと思うと、また前へ押された。
二度目には手前側がわずかに浮き、敷居の角へ乗った。
もう一度引かれたところで向こう側へ落ち、今度は庭の石畳をするすると滑り始めた。
その行き先にあるのは、アルノの研究箱だった。
「おはこ、こどもいる!」
ミアが立ち上がった。
「たぶん子どもじゃない」
エルナが本を閉じる。
「でも、箱についてきてるね」
アルノ自身も、白い眉を寄せて札を見ていた。
どうやらすぐには思い当たらないらしい。
木札は真っ直ぐ進んだ。
正確には、箱のある方角へ進み続けた。
庭椅子の脚が途中にあっても変わらない。
こつ、と真正面からぶつかり、そのまま木の脚へ端を押しつける。
右へ回ろうともしない。
左へ抜けようともしない。
箱へ近づこうとする力だけが、脚へ邪魔されて空回りしていた。
ミアがしゃがもうとしたところで、フィンが先に声を掛けた。
「まだ触らない方がいいよ」
言いながら、自分も近づかない。
それからアルノを見る。
「じいちゃん、止められる?」
「待っとくれ。まず箱を置こう」
アルノは研究箱を石畳へ下ろした。
箱そのものが近づいたことで、椅子の脚に押しつけられていた木札の力が少し弱まる。
工房からオスカーも出てきた。
二人で箱の表面を調べるうち、オスカーの指が後ろの角で止まった。
黒ずんだ真鍮の小片。
その中央に、小さな蓄魔石が埋め込まれている。
「お義父さん、これ」
アルノは覗き込み、目を丸くした。
「ああ」
声の調子が変わった。
指で埃を拭うと、真鍮の縁に細い刻印が現れた。
「まだ開いたままだったか」
金属片には、小さな遮断蓋が付いていた。
アルノがそれを閉じる。
途端に、庭椅子へ押しつけられていた木札が力を失った。
石畳へ、かたんと倒れる。
しばらく待っても、もう動かない。
そこで初めてオスカーが拾い上げた。
木札の裏にも、よく似た刻印がある。
「対印か」
「そうじゃ」
アルノは、ようやく全部思い出したらしい。
昔、セリアと研究資料を整理していたころに使っていたものだった。
親になる印は研究箱。
目録札の方には、それと対になる子印を刻んである。
二つが近くにある間は何もしない。
ところが一定以上離れると、箱側の小さな蓄魔石から、対応する子印へ弱い牽引が生じる。
札そのものを少しだけ軽くし、親印のある方向へ引く。
それだけの仕掛けだった。
「だから箱の下に落ちてても動かなかったんだ」
エルナが離れを振り返った。
さっきまで研究箱は低い棚にあり、木札はその真下に隠れていた。
近すぎたので、対印は働かなかった。
今日、箱だけが庭を渡り始めたことで初めて距離が開いた。
「あれ、箱を探してたんじゃないんだね」
フィンが言う。
「印の方へ引かれてただけじゃ」
アルノが答える。
「椅子も避けなかったし」
「道を探すようには作っとらんからの。まっすぐ引くだけじゃよ」
ミアは動かなくなった木札を見た。
「じゃあ、まよってなかった?」
「一度も迷っておらん」
「いすに、ずっとごっつんしてたよ」
「迷わないことと、賢い道を通れることは別じゃな」
その言い方にエルナが少し笑った。
オスカーは木札を裏返した。
「それにしても、よく力が残ってましたね」
「近くにある間はほとんど働かん仕組みじゃったからの。長いこと、何もせず箱のそばにおったんじゃろ」
魔法の仕組みが分かれば、騒ぎそのものはそれで終わりだった。
壊れているわけではない。
直す必要もない。
対印の蓋を閉じたままにしておけば、目録札が勝手に庭を滑ることもない。
ところが、アルノは木札を受け取ったあと、その場からなかなか動かなかった。
表側を見たまま黙っている。
フィンたちも、それに気づいた。
古い木の表には、細い文字が何行も並んでいた。
箱へ収めていた資料の一覧らしい。
観測記録。
計算紙。
会議の控え。
番号を付けられた草稿。
どれも子どもたちには馴染みのない名前ばかりだったが、その一番下だけ、少し間を空けて別の文章が書かれている。
アルノの指先が、そこへ止まった。
「セリアの字じゃ」
それまで騒ぎを聞いていたのだろう。
母屋の戸が開き、保健院の仕事を終えて帰っていたリディアが庭へ出てきた。
「お母さんの?」
アルノから札を受け取る。
リディアはほんの少し目を細めた。
「本当。お母さんの字ね」
セリアが記録をきちんと残す人だったことは、子どもたちも家族の話として知っている。
けれど目の前にあるのは、整理された研究記録だけではなかった。
「なんてかいてあるの?」
ミアが背伸びをする。
リディアが一番下の一行を読んだ。
「『アルノへ。この箱を持って帰るなら、机の上の昼食も忘れないこと』」
庭が一瞬、静かになった。
最初にアルノを見たのはフィンだった。
次にエルナ。
オスカーも、手にしていた工具を下ろしたままこちらを見る。
アルノは目録札を見つめていた。
「じいちゃん」
フィンが口元を緩める。
「忘れたの?」
「何をじゃ」
「昼飯」
アルノは少し考えた。
思い出そうとしているのは研究資料ではない。
もうずっと昔の、一度の昼食である。
やがて首を傾げた。
「箱を持って帰った記憶はあるんじゃが」
「お昼は?」
リディアが尋ねる。
「……覚えとらん」
リディアが吹き出した。
その笑いにつられて皆の表情も崩れる。
「じゃあ、たぶん忘れたのね」
「なぜそう決める」
「お母さんが、わざわざ木札にまで書いてるもの」
「それを言われると反論しにくいのう」
アルノもとうとう笑った。
難しい研究題目が並ぶ木札の、一番下。
そこにあるのは研究内容の補足でも、重要な注意事項でもない。
昼食を忘れないこと。
ただそれだけだった。
ミアはしばらく札を見てから、アルノを見上げた。
「おばあちゃん、じいちゃんにごはんたべてって?」
「そういうことね」
リディアが答える。
「じいちゃん、たべた?」
「だから覚えとらんと言っとるじゃろ」
「きょうは?」
「今日は食べた」
ミアは安心したように大きくうなずいた。
「よかった」
なぜ今日の昼食まで確認されるのか分からない、という顔をしながらも、アルノは楽しそうだった。
取っ手の交換は、それから始まった。
工房へ運び込まれた研究箱から傷んだ革を外し、オスカーが同じ幅の新しい革を合わせていく。
金具を締める小さな音が響くあいだ、アルノは作業台の端に座り、例の木札を手元へ置いていた。
難しい文字の並びを眺める。
最後の一行へ目を移す。
また箱を見る。
亡くなってから長い時間が過ぎても、セリアの文字は何か大げさなことを語ってはいなかった。
記録を整え、そのついでのように、研究へ夢中になる夫の昼食を気にしている。
それがかえって、アルノには昔のままに見えた。
「できましたよ、お義父さん」
オスカーの声で顔を上げる。
新しい取っ手は、古い箱によく似た落ち着いた革で作られていた。
アルノが持ち上げても、もう危うい軋みはない。
「これならまだ使えるのう」
「箱は、ですね」
「わしもじゃろ」
「そこは修理してません」
工房に笑いが戻った。
木札は、箱の内側に残っていた細い差し込みへ収められた。
寸法がぴたりと合う。
長い間、棚の下へ落ちていたせいで忘れられていただけで、もともとはそこに入るものだったらしい。
親印の遮断蓋も、今度はきちんと閉じた。
帰りはフィンが箱を抱えた。
勝手に持ち上げたのではなく、一度アルノへ尋ねてから重さを確かめている。
「これなら平気」
「落とすでないぞ」
「分かってるって」
「取っ手は直したが、中身は直っとらんからの」
「中身って紙でしょ?」
「紙も落とせば散らかる」
離れまでの短い庭を、二人は並んで歩いた。
その少し後ろをミアがついていき、エルナとリディアも母屋へ戻りながら見送る。
庭木では、ルクスが白い翼を整えていた。
札が離れから這い出してきたところから、庭椅子へ正面衝突したところも、工房でセリアの一文が読まれたところも、ずっと見ている。
夕食になると、研究箱はもう元の棚へ戻っていた。
ただし木札は、今度こそ箱の中である。
アルノが食卓へ来るなり、ミアが椅子の上から確認した。
「じいちゃん、ごはんあるよ」
「見れば分かる」
「わすれない?」
「今日はお前が忘れさせてくれんじゃろ」
満足したミアは、ようやく自分の皿へ向き直った。
窓辺のルクスだけが、まだアルノを見ていた。
研究箱より小さな木札が、一日かけて大騒ぎを連れてきた。
けれど家族が夕食で思い出しているのは、魔法の仕組みより、札の一番下に残されていた短い一文の方だった。
ルクスはしばらく黙っていたが、やがて呆れたように金色がかった目を細めた。
「昼飯まで見張られていた男が、今さら目録札くらいで驚くな。……せっかく追いついたんだ、今度は置いていくなよ、アルノ」




