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風見鶏通り17番地、今日も魔法日和  作者: リタイアルーキー


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17/87

第17話 小さな札は研究箱を追いかける

 星冠暦826年・実成月28日・金耀日

 昼を少し過ぎたころ、離れの戸が開いた。

 出てきたアルノは、古い木製の研究箱を両腕で抱えている。

 大きさのわりに今日は軽いらしく、足取りはいつもと変わらない。ただ、箱の上に付いた革の取っ手だけは見るからに危なかった。長く使われた革には細かなひびが入り、付け根の片側など、持ち上げればそのまま裂けそうになっている。

 庭にいたフィンが顔を上げた。

「じいちゃん、それ持とうか?」

「大丈夫じゃよ。中身を半分出してきたからの」

「取っ手、切れそうだけど」

「だから使わずに抱えておる」

 アルノはそのまま工房へ向かった。

 開いた戸の奥では、オスカーが作業机に向かっている。

「オスカー君。革を一本、替えてくれんか」

「いいですよ」

 オスカーが振り向き、箱を見る。

「ただし、持ってくる途中で切れてから言うのは駄目ですからね」

「まだ切れとらん」

「その理屈は職人には通りません」

「厳しいのう」

「お義父さん相手だから言ってるんです」

 そのやり取りを聞いて、フィンが笑った。

 少し離れた木陰ではエルナが本を読み、ミアは昨日の黄色い紙翼を石畳の上へ置いて、小石を周りへ並べている。

 その頭上の枝にはルクスがいた。

 紙翼からはもう魔法具を外してある。それでも昨日のことを覚えているのか、ときどき黄色い紙へ疑わしそうな目を向けていた。

 アルノが庭を半分ほど渡ったところで、フィンの視界の端に何かが動いた。

 離れの戸口だった。

 薄茶色の、小さな四角いものが床の上を滑ってくる。

「じいちゃん」

「なんじゃ?」

「後ろ、なんか来てる」

 アルノが振り返った。

 それにつられて、エルナも本から顔を上げる。

 小さな四角は、離れの中にある低い棚の下から姿を現したところだった。

 棚のすぐ上には、さっきまで研究箱が置かれていた。

 今まで箱の真下に隠れていたらしい。

 木の札だった。

 手のひらほどの大きさで、擦れた角が床をこすりながら、ゆっくり戸口へ向かってくる。

 敷居へぶつかった。

 かたり、と乾いた音がする。

 止まる。

 かと思うと、また前へ押された。

 二度目には手前側がわずかに浮き、敷居の角へ乗った。

 もう一度引かれたところで向こう側へ落ち、今度は庭の石畳をするすると滑り始めた。

 その行き先にあるのは、アルノの研究箱だった。

「おはこ、こどもいる!」

 ミアが立ち上がった。

「たぶん子どもじゃない」

 エルナが本を閉じる。

「でも、箱についてきてるね」

 アルノ自身も、白い眉を寄せて札を見ていた。

 どうやらすぐには思い当たらないらしい。

 木札は真っ直ぐ進んだ。

 正確には、箱のある方角へ進み続けた。

 庭椅子の脚が途中にあっても変わらない。

 こつ、と真正面からぶつかり、そのまま木の脚へ端を押しつける。

 右へ回ろうともしない。

 左へ抜けようともしない。

 箱へ近づこうとする力だけが、脚へ邪魔されて空回りしていた。

 ミアがしゃがもうとしたところで、フィンが先に声を掛けた。

「まだ触らない方がいいよ」

 言いながら、自分も近づかない。

 それからアルノを見る。

「じいちゃん、止められる?」

「待っとくれ。まず箱を置こう」

 アルノは研究箱を石畳へ下ろした。

 箱そのものが近づいたことで、椅子の脚に押しつけられていた木札の力が少し弱まる。

 工房からオスカーも出てきた。

 二人で箱の表面を調べるうち、オスカーの指が後ろの角で止まった。

 黒ずんだ真鍮の小片。

 その中央に、小さな蓄魔石が埋め込まれている。

「お義父さん、これ」

 アルノは覗き込み、目を丸くした。

「ああ」

 声の調子が変わった。

 指で埃を拭うと、真鍮の縁に細い刻印が現れた。

「まだ開いたままだったか」

 金属片には、小さな遮断蓋が付いていた。

 アルノがそれを閉じる。

 途端に、庭椅子へ押しつけられていた木札が力を失った。

 石畳へ、かたんと倒れる。

 しばらく待っても、もう動かない。

 そこで初めてオスカーが拾い上げた。

 木札の裏にも、よく似た刻印がある。

「対印か」

「そうじゃ」

 アルノは、ようやく全部思い出したらしい。

 昔、セリアと研究資料を整理していたころに使っていたものだった。

 親になる印は研究箱。

 目録札の方には、それと対になる子印を刻んである。

 二つが近くにある間は何もしない。

 ところが一定以上離れると、箱側の小さな蓄魔石から、対応する子印へ弱い牽引が生じる。

 札そのものを少しだけ軽くし、親印のある方向へ引く。

 それだけの仕掛けだった。

「だから箱の下に落ちてても動かなかったんだ」

 エルナが離れを振り返った。

 さっきまで研究箱は低い棚にあり、木札はその真下に隠れていた。

 近すぎたので、対印は働かなかった。

 今日、箱だけが庭を渡り始めたことで初めて距離が開いた。

「あれ、箱を探してたんじゃないんだね」

 フィンが言う。

「印の方へ引かれてただけじゃ」

 アルノが答える。

「椅子も避けなかったし」

「道を探すようには作っとらんからの。まっすぐ引くだけじゃよ」

 ミアは動かなくなった木札を見た。

「じゃあ、まよってなかった?」

「一度も迷っておらん」

「いすに、ずっとごっつんしてたよ」

「迷わないことと、賢い道を通れることは別じゃな」

 その言い方にエルナが少し笑った。

 オスカーは木札を裏返した。

「それにしても、よく力が残ってましたね」

「近くにある間はほとんど働かん仕組みじゃったからの。長いこと、何もせず箱のそばにおったんじゃろ」

 魔法の仕組みが分かれば、騒ぎそのものはそれで終わりだった。

 壊れているわけではない。

 直す必要もない。

 対印の蓋を閉じたままにしておけば、目録札が勝手に庭を滑ることもない。

 ところが、アルノは木札を受け取ったあと、その場からなかなか動かなかった。

 表側を見たまま黙っている。

 フィンたちも、それに気づいた。

 古い木の表には、細い文字が何行も並んでいた。

 箱へ収めていた資料の一覧らしい。

 観測記録。

 計算紙。

 会議の控え。

 番号を付けられた草稿。

 どれも子どもたちには馴染みのない名前ばかりだったが、その一番下だけ、少し間を空けて別の文章が書かれている。

 アルノの指先が、そこへ止まった。

「セリアの字じゃ」

 それまで騒ぎを聞いていたのだろう。

 母屋の戸が開き、保健院の仕事を終えて帰っていたリディアが庭へ出てきた。

「お母さんの?」

 アルノから札を受け取る。

 リディアはほんの少し目を細めた。

「本当。お母さんの字ね」

 セリアが記録をきちんと残す人だったことは、子どもたちも家族の話として知っている。

 けれど目の前にあるのは、整理された研究記録だけではなかった。

「なんてかいてあるの?」

 ミアが背伸びをする。

 リディアが一番下の一行を読んだ。

「『アルノへ。この箱を持って帰るなら、机の上の昼食も忘れないこと』」

 庭が一瞬、静かになった。

 最初にアルノを見たのはフィンだった。

 次にエルナ。

 オスカーも、手にしていた工具を下ろしたままこちらを見る。

 アルノは目録札を見つめていた。

「じいちゃん」

 フィンが口元を緩める。

「忘れたの?」

「何をじゃ」

「昼飯」

 アルノは少し考えた。

 思い出そうとしているのは研究資料ではない。

 もうずっと昔の、一度の昼食である。

 やがて首を傾げた。

「箱を持って帰った記憶はあるんじゃが」

「お昼は?」

 リディアが尋ねる。

「……覚えとらん」

 リディアが吹き出した。

 その笑いにつられて皆の表情も崩れる。

「じゃあ、たぶん忘れたのね」

「なぜそう決める」

「お母さんが、わざわざ木札にまで書いてるもの」

「それを言われると反論しにくいのう」

 アルノもとうとう笑った。

 難しい研究題目が並ぶ木札の、一番下。

 そこにあるのは研究内容の補足でも、重要な注意事項でもない。

 昼食を忘れないこと。

 ただそれだけだった。

 ミアはしばらく札を見てから、アルノを見上げた。

「おばあちゃん、じいちゃんにごはんたべてって?」

「そういうことね」

 リディアが答える。

「じいちゃん、たべた?」

「だから覚えとらんと言っとるじゃろ」

「きょうは?」

「今日は食べた」

 ミアは安心したように大きくうなずいた。

「よかった」

 なぜ今日の昼食まで確認されるのか分からない、という顔をしながらも、アルノは楽しそうだった。

 取っ手の交換は、それから始まった。

 工房へ運び込まれた研究箱から傷んだ革を外し、オスカーが同じ幅の新しい革を合わせていく。

 金具を締める小さな音が響くあいだ、アルノは作業台の端に座り、例の木札を手元へ置いていた。

 難しい文字の並びを眺める。

 最後の一行へ目を移す。

 また箱を見る。

 亡くなってから長い時間が過ぎても、セリアの文字は何か大げさなことを語ってはいなかった。

 記録を整え、そのついでのように、研究へ夢中になる夫の昼食を気にしている。

 それがかえって、アルノには昔のままに見えた。

「できましたよ、お義父さん」

 オスカーの声で顔を上げる。

 新しい取っ手は、古い箱によく似た落ち着いた革で作られていた。

 アルノが持ち上げても、もう危うい軋みはない。

「これならまだ使えるのう」

「箱は、ですね」

「わしもじゃろ」

「そこは修理してません」

 工房に笑いが戻った。

 木札は、箱の内側に残っていた細い差し込みへ収められた。

 寸法がぴたりと合う。

 長い間、棚の下へ落ちていたせいで忘れられていただけで、もともとはそこに入るものだったらしい。

 親印の遮断蓋も、今度はきちんと閉じた。

 帰りはフィンが箱を抱えた。

 勝手に持ち上げたのではなく、一度アルノへ尋ねてから重さを確かめている。

「これなら平気」

「落とすでないぞ」

「分かってるって」

「取っ手は直したが、中身は直っとらんからの」

「中身って紙でしょ?」

「紙も落とせば散らかる」

 離れまでの短い庭を、二人は並んで歩いた。

 その少し後ろをミアがついていき、エルナとリディアも母屋へ戻りながら見送る。

 庭木では、ルクスが白い翼を整えていた。

 札が離れから這い出してきたところから、庭椅子へ正面衝突したところも、工房でセリアの一文が読まれたところも、ずっと見ている。

 夕食になると、研究箱はもう元の棚へ戻っていた。

 ただし木札は、今度こそ箱の中である。

 アルノが食卓へ来るなり、ミアが椅子の上から確認した。

「じいちゃん、ごはんあるよ」

「見れば分かる」

「わすれない?」

「今日はお前が忘れさせてくれんじゃろ」

 満足したミアは、ようやく自分の皿へ向き直った。

 窓辺のルクスだけが、まだアルノを見ていた。

 研究箱より小さな木札が、一日かけて大騒ぎを連れてきた。

 けれど家族が夕食で思い出しているのは、魔法の仕組みより、札の一番下に残されていた短い一文の方だった。

 ルクスはしばらく黙っていたが、やがて呆れたように金色がかった目を細めた。

「昼飯まで見張られていた男が、今さら目録札くらいで驚くな。……せっかく追いついたんだ、今度は置いていくなよ、アルノ」


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