第16話 紙翼は飛んでからずれる
星冠暦826年・実成月27日・木耀日
午後、オスカーが最後の一枚を使ったところで、クラウゼル魔法具店の包み紙がなくなった。
正確には、商品を包むのにちょうどいい紙がなくなった。
棚の奥まで探せば細長い切れ端も、妙に厚い紙も、いつから置いてあるのか分からない茶色い紙も出てくる。けれど、どれも店の商品を包むには少し具合が悪い。
「買ってくるか」
オスカーが言うと、居間にいたミアが真っ先に顔を上げた。
「ミアも!」
「紙を買うだけだぞ」
「かう!」
何を買うかより、買いに行くことの方が大切らしい。
暇をしていたフィンも同行することになり、エルナは本を持ったまま少し迷ったものの、値札に使う紙も選んでほしいと言われて栞を挟んだ。
四人で風見鶏通りを出る。
夏の午後はまだ暑かったが、狭い道を抜ける風には、盛りを少し越えたような軽さが混じっていた。
西工房区では、木材を運ぶ職人と買い物籠を提げた人が行き交っている。開いた工房から金属を削る音が響き、その隙間を縫うように、どこかで焼いている菓子の甘い匂いが流れてきた。
目当ての紙店がある小広場まで来たところで、ミアが急に足を止めた。
「とんでる!」
白いものが、広場を横切った。
鳥にしては角張っている。
蝶にしては大きすぎる。
人の胸ほどの高さをゆっくり滑っていたそれは、途中で機首の向きをほとんど変えないまま、すっと左へ横滑りした。
二本の棒から下がった布輪を抜け、その向こうに広げられた大きな布へ、かさりと落ちる。
「紙?」
エルナが目を細めた。
「そう。紙だよ」
店先から笑い声が返ってきた。
紙商のトビアス・ヘルンが、大きな腕を組んで立っている。髪は半分ほど灰色だが、声だけならオスカーより若く思えるほどよく響いた。
「ちょうどいいところへ来たな、クラウゼルさん。今日は紙を買った人には一羽飛ばす権利つきだ」
「聞いたことないぞ、そんな値引き」
「値引きとは言ってない」
「増えてるのは仕事だろ」
「遊びだ」
トビアスは真顔で言った。
足元には色とりどりの紙が積まれ、広場の端では何人かの子どもが好きな色を選んで簡単な翼を折っている。
発射場所には白い線が一本引かれ、その先は人が入らないよう空けられていた。布輪よりさらに向こうには、紙翼を受ける大きな布が広げられている。
紙翼の中央に付いているのは、豆より少し大きな白い留め具だった。
「これで飛んでるの?」
フィンが尋ねる。
「落ちるのを少し遅くしてる、と言った方が近いな」
トビアスは一つを手に取った。
留め具には細い刻線があり、紙翼の中央の折り目へまっすぐ合わせて取り付けられている。
「この浮き留めには、小さな蓄魔石が入ってる。紙一枚を少し支える程度の力しかないけど、その分、投げた紙がしばらくゆっくり進む」
もう一方の手には、細長い札があった。
端に二つの丸い接点が並んでいる。
「こっちは、この留め具と対になってる。飛んでる間に一回だけ、左か右を押せる」
「押したら曲がる?」
ミアが尋ねた。
「曲がるというより、こうだな」
トビアスは片手を前へ進ませながら、途中でその手を横へすっとずらした。
「紙翼の向きはだいたいそのままで、全体が一紙幅ほど横へ移る。左を押せば、留め具の刻線から見て左。右なら右だ」
「輪の方へ行くの?」
「輪なんか知らないよ。押された方へ一回ずれるだけだ」
一度どちらかを押せば、札の二つの接点はどちらも消灯し、その飛行ではもう使えない。
蓄魔石の力も十数秒ほどで尽きる。そうなれば紙翼は急に落ちるのではなく、残った勢いのままゆっくり下がっていく。
説明を聞いていたオスカーが、子どもたちより先に浮き留めへ顔を寄せた。
トビアスが手元札で額を軽く押し返す。
「今日は分解禁止」
「まだ何もしてない」
「その顔は知ってる」
エルナとフィンが同時に笑った。
先に買い物を済ませることになった。
オスカーが商品の包み紙を選び、エルナは値札に使いやすい厚さの紙を何種類か指で確かめる。その間にミアは紙翼用の黄色い紙を選び、フィンは青を取った。
遊びに使う分の紙を折り終えると、トビアスが浮き留めを中央の折り目へ合わせて取り付ける。
「発射線より先へは入らないこと。飛ばす人以外は横へ下がる。落ちても追いかけない。留め具の光が消えてから俺が回収する」
フィンは素直にうなずいた。
その隣でミアも、兄の顔を一度見てから大きくうなずく。
最初に飛ばしたのは、ほかの子どもだった。
投げ出された紙翼は少し右へ流れたが、持ち主が左の接点を押すと、機首をほとんど変えないまま横へ一つずれた。布輪の端を惜しくもかすめ、着地布へ落ちる。
次の紙翼は最初から輪の近くを進んでいた。
ところが持ち主が早々に右を押したため、せっかくの進路から横へ外れた。
広場に笑いが起きる。
成功しても失敗しても、飛行が終われば同じように布へ降りる。浮き留めの光が消えたのを確かめてからトビアスが回収し、次の子へ場所を空けた。
やがてフィンの名前が呼ばれた。
青い紙翼を右手に、手元札を左手に持って発射線へ立つ。
布輪までの距離を見て、紙翼の鼻先をほんの少し右へ向けた。だが、そのまま投げることはできなかった。
真っ直ぐ出せば、横移動を使わなくても入るかもしれない。
最初から少し右へ出しておけば、左へ寄せる一回だけ考えればいい。
けれど風はさっきから強くなったり弱くなったりしている。投げる角度だけでなく、どこで一回しかない入力を使うかまで決めようとすると、今度は最初の角度が分からなくなる。
紙翼を構えたまま、フィンは広場と布輪を何度も見比べていた。
「フィン」
オスカーが呼んだ。
「何?」
「腕、疲れないか」
言われて初めて、自分がずっと同じ姿勢だったことに気づく。
腕を下ろしたフィンを見て、横から小さな笑い声が漏れた。
本人も少しだけ笑った。
「……飛ばす」
次は長く構えなかった。
青い紙翼が手から離れ、いったん浅く沈んでから、浮き留めに支えられて滑り始める。
出だしは悪くなかった。
けれど広場を抜ける風に押され、紙翼は少しずつ輪の右側へ寄っていった。
フィンの親指が左の接点へ掛かる。
押せば一度で終わる。
もう少し待った方が、ずれの大きさがはっきりするかもしれない。
そう考えている間にも、青い翼と布輪の位置は変わっていく。
もう一度迷ったところで、輪が思ったより近くなった。
フィンは左を押した。
札の二つの接点が同時に暗くなる。
青い紙翼は機首を前へ向けたまま、すっと左へ横移動した。
魔法は命令どおり働いた。
ただ、遅かった。
一紙幅ぶん戻っても輪の右端には届かず、そのまま外側を通過して着地布へ降りた。
フィンは手元札を見下ろした。
一度きりの入力は、ちゃんと左へ働いている。
壊れてもいないし、方向を間違えたわけでもない。
ただ、押すまでに紙翼の方が先へ進んでいた。
「もう一回やる?」
トビアスが聞いた。
フィンはすぐには答えず、着地布の上にある青い紙翼を見た。
飛ばす前に考えていた線とは違う場所に落ちている。
けれど、違ったから分かったこともあった。
どのくらい風に流されるのか。
左を押すと、実際にはどのくらい横へずれるのか。
そして、その一回を使う判断まで、飛ばす前に決めておく必要はなかった。
「やる」
浮き留めの光が完全に消えてから、トビアスが青い紙翼を回収した。
折り目が崩れていないのを確かめ、充填済みの別の浮き留めを同じ中央線へ取り付ける。
フィンが二度目の順番を待つ間に、ミアの黄色い紙翼が発射線へ出た。
こちらには長い迷いがなかった。
元気よく投げた直後、ミアはほとんど間を置かず右の接点を押した。
黄色い翼が、すっと右へ移る。
「ミア、輪は反対」
エルナが言ったときには、もう手元札の接点は両方とも暗くなっていた。
「え?」
布輪は左。
黄色い紙翼は右。
その先にある標柱には、いつの間にやって来たのか、ルクスが白い翼を休めていた。
黄色い紙翼が横へ寄った瞬間、金色がかった目が細くなる。
「ルーちゃん!」
ミアだけは嬉しそうだった。
浮き留めに止まり木の意味など分からない。
黄色い翼はそのまま前へ滑り、標柱よりだいぶ手前で力を失った。ルクスに触れることもなく、着地布の端へかさりと落ちる。
「そっちじゃなかった!」
ミアが発射線のこちら側から弁明した。
ルクスは標柱を離れなかった。
ただ、どうして左右を間違えた先に自分がいるのか、とでも言いたげな目を向けただけだった。
そこへ、保健院の仕事を終えたリディアが広場の向こうから歩いてきた。
包み紙を買いに出たはずの家族が、紙の翼を飛ばしている。
一瞬だけ不思議そうな顔をしたものの、オスカーの腕にちゃんと紙の包みがあるのを見ると、事情を尋ねながら皆のそばへ加わった。
そのころには、フィンの二度目の順番が来ていた。
同じ青い紙翼を持って発射線へ立つ。
最初のときと同じように布輪を見たが、今度は投げる前から一回の補正まで決めようとはしなかった。
中央線が大体前を向いている。
人は進路へ入っていない。
それだけを確かめると、腕を振る。
青い紙翼は一度目よりわずかに左から飛び出した。
完璧な線ではない。
それでもフィンは、投げ直せないことを惜しむ代わりに、飛び始めた翼を見続けた。
浮き留めに支えられた紙が風を受け、ゆっくり右へ流れていく。
一度目と似た動きだった。
ただし今度は、どこまで待てば遅すぎるかを知っている。
輪との間にまだ十分な距離があるうちに、フィンの親指が左の接点を押した。
青い紙翼が前を向いたまま、一紙幅弱だけ左へ移る。
それは大きな変化ではなかった。
飛び方そのものが立派になったわけでもない。
けれど最初のずれを見たあとで選んだ、その小さな横移動だけで十分だった。
紙翼は布輪の内側へ入り、そのまま向こうへ抜けていった。
歓声を上げたのはミアだった。
「はいった!」
フィン自身は一瞬遅れて笑った。
エルナやオスカーの拍手に、途中から見ていたリディアの笑顔も重なる。
飛び終えた青い紙翼は、輪の向こうでゆっくり高度を失い、着地布の中央へ降りた。
今度もフィンは追いかけなかった。
浮き留めの明かりが消え、トビアスが回収してよいと合図するまで発射線のこちら側に残ったまま、布の上の青い紙を眺めていた。
一度目と同じ紙だった。
飛ばす前に完璧になったわけでもない。
ただ、一度飛んで外れたから、二度目には飛んでいる途中を使うことができた。
帰り道では、買った紙の包みをオスカーが抱え、子どもたちは魔法の留め具を外した紙翼だけを持っていた。
夕方の光が西工房区の屋根を斜めに照らし、広場で聞こえていた笑い声は、角を二つ曲がるころにはもう遠くなっていた。
フィンは歩きながら、ときどき青い紙翼を眺めた。
布輪を外した紙と、布輪を抜けた紙。
二枚あるわけではない。
同じ折り目の、同じ一枚だった。
隣ではミアが黄色い翼を両手で持ち、少し先の塀を移動しているルクスへ一生懸命見せている。
「ルーちゃん、これ、もうとばないよ!」
ルクスは足を止めずに一度だけ紙翼を見た。
「ほんとだよ。まほう、ないよ」
まだ信用されていないと思ったのか、ミアは紙翼を裏返してまで見せた。
ルクスはようやく塀の上で立ち止まり、黄色い紙と、その持ち主を順番に見下ろした。
「左右を間違えるのは勝手だが、そのたび俺のいる方へ紙を寄せるな、ミア」




