第14話 守り紐は庭を狭くする
星冠暦826年・実成月25日・火耀日
「ミア、そこ」
フィンが声を落とした。
庭の低木へ伸びかけていたミアの手が、枝に届く前でぴたりと止まった。
「なに?」
「その下。ほら」
実成月の朝だった。
風見鶏通り17番地の庭には、もう夏らしい強い日差しが落ち始めていたが、庭木の下にはまだ夜の涼しさが少し残っている。
フィンが指したのは、低く伸びた枝の裏だった。
樹皮に近いくすんだ色をした、小さな蛹が一つ付いている。
ミアは顔を近づけようとして、途中で止まった。
「これ、さわっていい?」
「分かんないから、やめとこう」
フィンもしゃがんだまま手を出さなかった。
夏の初めなら、二人とももう少し近くまで寄っていたかもしれない。けれど今は、見つけたからといって何かをしなければならないわけではないことくらいは知っている。
ミアは両手を自分の膝へ置いた。
「じゃあ、みるだけ」
「うん」
二人が並んで枝を眺めているところへ、前日に図書館から借りた本を抱えたエルナがやってきた。
何を見ているのか聞いたあと、彼女も少し離れた場所から腰をかがめる。
やがて台所の窓から三人を見つけたリディアまで庭へ出てきた。
蛹そのものには誰も触れなかった。
ただ、リディアは枝ではなく、その周りを見回した。
低木が生えているのは庭の隅ではない。母屋から庭の卓へ向かうとき、いつも脇を通る場所だった。
大人なら気づくだろう。
今日見つけた子どもたちもしばらくは覚えている。
それでも、何日かすれば考え事をしながら通ることもあれば、遊びに夢中で近づくこともある。
「何か目印があってもよさそうね」
「じゃあ紐を張る?」
フィンが言ったところで、工房の戸口から声がした。
「それなら、ちょうど使えるものがあるぞ」
オスカーだった。
手にしているのは、細い灰色の紐と何本かの短い杭である。
「いつから聞いてたの?」
「紐を張るあたりから」
「ほとんど最後じゃん」
「必要なところは聞いた」
オスカーが持ってきたのは、工房で作業場所を一時的に区切るときに使っている安全紐だった。
紐だけでも目印にはなるが、杭へ張って端の小さな蓄魔石を起動すると、もう一つ働きが加わる。
「杭の青い刻線を、入ってほしくない側へ向ける」
オスカーは何もない石畳へ二本の杭を打ち、短く紐を渡した。
「起動すると、紐のその側に手の幅くらいの反発帯ができる。そこへ固い物が入れば、外向きに弱い力がかかる」
「人も?」
エルナが尋ねた。
「人も椅子も球も同じだ。何が入ったかは見てない。ただし出力は小さいから、人間を押し戻すほどじゃない。靴で入れば、少し抵抗を感じる程度だな」
紐が人を判断して加減するわけではない。
同じ力でも、小さな木片なら目に見えて戻り、人の脚ならほとんど動かない。ただ「何かに軽く押された」と分かる。
オスカーは小さな木片を転がして見せた。
木片は紐を越えた直後、見えない柔らかな壁へ触れたように勢いを失い、ころりと外側へ戻ってきた。
続いて解除留めを外す。
もう一度転がされた木片は、そのまま紐の向こうへ抜けた。
「紐が緩んでも止まる。引っ掛けて倒れたときまで働き続けないようになってる」
フィンが感心したようにうなずいた。
ミアは木片より、最初から蛹を見ていた。
「これなら、あそこに近づきすぎたとき分かるでしょう」
リディアの言葉で、蛹のある低木の周りへ移ることになった。
そこで問題になったのが、どこへ紐を張るかだった。
フィンが枝から少し離れた場所を指す。
「このくらい?」
「もっと!」
ミアが両腕をいっぱいに広げた。
その幅では蛹どころか低木の半分まで入りそうだった。
オスカーも庭を眺める。
「まあ、余裕を取るなら悪くないか」
四本の杭が立てられた。
青い刻線はすべて蛹のある側へ向け、紐は大きな四角を作った。
蛹の付いた枝は、その中央より少し奥にある。
木片を使って四辺を試すと、どこもきちんと外側へ戻ってきた。
設置は成功だった。
「できた!」
ミアが嬉しそうに四角の外から覗く。
蛹には朝から何も起きていない。
枝も揺れていない。
安全紐も静かだった。
問題が分かったのは、それからだった。
昼前、フィンが庭で球を転がしていた。
狙ったところから少し逸れた球が、低木の近くへ向かう。
「あ」
安全紐を越える。
ぽん、と球の向きが変わった。
戻ってきた球はフィンの横を通り過ぎ、今度は反対側まで転がっていった。
ミアが笑う。
「おかえり!」
「帰ってきすぎだって」
球を追いながらフィンも笑った。
まだ、そのときはそれだけだった。
次はエルナだった。
木陰へ椅子を移し、本を読もうとしたのである。
いつもの場所へ少し寄せようとすると、椅子の前脚が安全紐の内側へ入った。
片方だけが押され、椅子が手の中で斜めになる。
持ち直してもう一度動かすと、今度は反対の脚が引っ掛かった。
エルナはしばらく椅子と安全紐を見比べた。
「……広く取りすぎじゃない?」
「守ってるんだから仕方ないだろ」
球を拾ってきたフィンが言った。
「分かってるけど、私の椅子は蛹に用がないよ」
「紐には分かんないよ」
昨日の図書館で、二枚の札を付けられた本が両方の棚へ律儀に引かれていたのを見たばかりだった。
エルナは何か言い返しかけ、口を閉じた。
今日の紐も同じだった。
椅子だから通す。
球だから戻す。
そんなことは知らない。
決められた側へ入った固い物に、決められた弱い力を返しているだけだ。
午後になるころには、四角く囲った場所が思った以上に大きかったことを、家族全員が身体で理解していた。
リディアは庭の卓へ籠を運ぼうとして、いつもの近道を通れずに足を止めた。
フィンの球はまた紐に押し返された。
エルナの椅子は結局、いつもよりずっと手前へ置かれている。
ミアが掃除を手伝おうと箒を運んだときには、柄を抱えた身体はそのままなのに、先端だけが反発帯へ入り、箒が横へくるりと回った。
「あれえ?」
抱え直したミアの前を、ちょうど離れから出てきたアルノが通りかかった。
庭を横切ろうとして、安全紐を見る。
いつもの道を見る。
もう一度、安全紐を見る。
「庭が昨日より狭くなったのかの?」
「守ったら狭くなった」
フィンが答えた。
アルノは四角い囲いの中央にある、小さな蛹を眺めた。
それから大回りして庭の卓へ向かった。
何も解説しなかったが、その遠回りだけで十分だった。
リディアが笑いをこらえながら言った。
「少し、守る場所が広すぎたかもしれないわね」
四角い紐へ視線が集まった。
中央には低木がある。
その枝に蛹が一つ。
朝から何も変わっていない。
変わったのは、その周りを使う家族の方だった。
エルナは本を閉じ、母屋から庭の卓までの道を目でたどった。
「私たちが気をつけたいのって、どこから近づくとき?」
フィンも庭を見回した。
今まで四角の内側ばかり見ていたのに、問われると答えはすぐ近くにあった。
枝へうっかりぶつかりそうなのは、母屋から卓へ抜ける側である。
低木の奥は植え込みになっていて、人が通る場所ではない。
左右にも普段の道はない。
「こっちだけでいいのか」
フィンが母屋側を指した。
ミアは大きな四角を見る。
蛹を見る。
少し考えてから尋ねた。
「おうち、いらない?」
「蛹のおうちを作るわけじゃないからな」
オスカーが笑った。
安全紐はいったん切られた。
解除留めを外し、力が消えたことを確かめてから杭を抜く。
今度は低木を四方から囲わない。
母屋からの通り道に面した側だけへ三本の杭を立て、枝の少し手前を横切るように緩い弧を作った。
青い刻線は、すべて蛹側を向いている。
短い紐の向こうへ木片を転がすと、ちゃんと戻った。
けれど、その横には十分な空間が残っていた。
庭の卓へ行く人はそのまま通れる。
椅子も運べる。
箒も妙な方向を向かない。
フィンが球をいつもの場所へ転がす。
今度は何にも邪魔されず、夏の日差しの中をまっすぐ進んでいった。
「庭、戻った」
ミアが言った。
庭そのものは、朝から一寸も広くなっていない。
それでも皆には、本当に少し広くなったように感じられた。
夕方になるころには、日差しが傾き、低木の下へ影が長く伸びていた。
ミアは安全紐より手前へしゃがみ、朝と同じ距離から蛹を眺めている。
もう「触らないで」と言われなくても、手は膝の上にあった。
フィンも隣へ腰を下ろした。
二人の後ろを、リディアが夕食前の籠を持って普段どおり通り過ぎる。
少し離れた木陰では、エルナがようやく落ち着いた椅子で昨日借りた本を読んでいた。
蛹を守るために庭を閉ざす必要はなかった。
家族が庭を使うのを諦める必要もなかった。
必要なところにだけ、小さな境目を残せばよかった。
低木の反対側の枝には、いつの間にかルクスが来ていた。
朝から窓辺や庭木を移りながら、一連の騒ぎをほとんど見ている。
安全紐などなくても、白い翼なら好きなところへ行ける。
ミアが気づいて手を振った。
「ルーちゃんも、みるだけだよ」
ルクスは蛹を一度だけ見た。
次に、もう遠回りしなくてもよくなった庭を見渡す。
そのあとで、得意そうなミアへ金色がかった目を向けた。
「一つ守るたびに庭を半分使えなくしていたら、そのうちお前たちの居場所がなくなるぞ。……囲う前に、どこまで守れば足りるかくらい考えろ」




