第13話 二つの棚に呼ばれる本
星冠暦826年・実成月24日・月耀日
実成月の夕方になっても、風見鶏通りの石畳には昼の熱が残っていた。
保健院の仕事を終えて帰ってきたリディアが玄関で靴を替えていると、居間からエルナが本を二冊抱えて現れた。その後ろにはフィンが一冊、さらにミアが胸の前へ大きな絵本を抱えて続いてくる。
「図書館、今日行ってもいい?」
エルナが尋ねた。
「返す本ね?」
「それと、次の本」
「そっちが本命だろ」
フィンに言われても、エルナは否定しなかった。
工房から顔を出したオスカーは、四人の腕にある本を数えて笑った。
「帰りに持ちきれなくなっても、腕を増やす魔法はないからな」
「分かってる」
「姉ちゃんの『分かってる』は、本屋と図書館では信用できないんだよな」
「フィン」
靴を履き終えたリディアが名前を呼ぶ。
声はいつもどおり穏やかだったが、フィンは続きを飲み込んだ。
ミアは絵本を抱いたまま窓辺を振り返った。
「ルーちゃんもいく?」
夕方の光を浴びていた白い鳥は、片方の目をほんの少し開けた。それから何事もなかったように閉じる。
「いかないって」
「今ので分かるの、ミアだけだぞ」
フィンが笑った。
四人が家を出るころには、通りを歩く人の影がずいぶん長くなっていた。仕事を終えた職人、夕食の買い物を抱えた人、店先を片づけ始める商人。昼間ほどの騒がしさはなく、工房から響く金属音もところどころ途切れている。
リーデン市立西工房図書館は、風見鶏通りからいくつか角を曲がった先にあった。
厚い石壁の建物へ入ると、外の熱気が一段遠ざかった。
高い窓から斜めに差す光の中を細かな埃が漂い、紙と木の匂いがする。頁をめくる乾いた音や、椅子を引く小さな音まで、外より少し近く聞こえるようだった。
返却台では、司書のマーレン・ヴィッテが何冊かの本を整理していた。
「こんばんは」
リディアが声をかけると、マーレンは顔を上げた。
「こんばんは。返却ね」
四人が持ってきた本を、一冊ずつ受け取っていく。
ミアだけは最後まで絵本から手を離したがらなかったが、表紙を一度撫でてから、ようやく差し出した。
「またね」
本に向かって言う。
マーレンが笑った。
「また借りれば会えるわよ」
返された本は、傷んだところや挟み物がないか確かめてから、返却台の奥へ置かれた。
その向こうには、本を棚へ戻すための細い返架路が延びている。床から低い木柵で区切られた場所で、利用者が歩く通路とは交わらない。
「ちょうど動かすところだから、見ていく?」
マーレンが言うと、ミアがすぐにうなずいた。
返却台の下には、小さな蓄魔石が収まっていた。
マーレンが起動部へ触れる。
家族が返した本のうち一冊が、ふわりと持ち上がった。
高くは浮かばない。
床から手のひら二つほどのところで止まると、返架路の中をゆっくり奥へ進んでいく。
急ぐ様子も、迷う様子もなかった。
やがて一つの書架の端まで届き、浅い受け板の上へ静かに降りる。
「ほん、かえってった」
ミアが小声で言った。
図書館の静けさを覚えているらしく、歓声にはしなかった。
「ちゃんと自分の棚まで行くんだな」
フィンも返架路の外から眺めている。
エルナはもう、その先の本棚へ目を奪われ始めていた。
返却が済めば好きな本を探せる。その気持ちが顔に出ていたらしく、リディアが少し笑う。
そのとき、マーレンが足元の木籠を持ち上げた。
中には三冊の本が入っていた。
「こっちも戻してしまいましょう」
「返された本?」
エルナが尋ねる。
「いいえ。今日、館内で分類を替えた本よ。札を付け直したから、棚へ戻すところ」
薄い図鑑と、緑色の表紙の本。それから、少し厚い灰色の本。
マーレンは三冊を返却台へ並べた。
起動部へもう一度触れる。
三冊がそろって持ち上がった。
最初は、さっきの本と変わらなかった。
低い高さを保ち、返架路を静かに進んでいく。
ところが、棚が左右へ分かれるところまで来たときだった。
先頭の薄い図鑑が、左へ傾いた。
続いて緑色の本も同じ向きへ動く。
そのまま左の棚へ進むのかと思った次の瞬間、三冊が揃って少し右へ引き戻された。
また左。
少し右。
大きく往復するほどではない。
けれど、どちらへも進みきれない。
最後には三冊とも返架路の途中で、妙に斜めになったまま止まってしまった。
灰色の厚い本だけは偶然ほとんど水平で、目に見えない小さな机の上へ置かれたようだった。
ミアが目を丸くする。
「ほんが、まよってる」
「迷えるようには作ってないはずなんだけどねえ」
マーレンの声にも、さすがに戸惑いが混じった。
フィンが一歩だけ前へ出る。
けれど、木柵へ手を掛ける前に止まった。
ここ数日の騒ぎで身についたらしい。
動いているものへ、とりあえず手を伸ばすことはしない。
「触らない方がいいよね」
「ええ。そのままでいて」
マーレンは返却台の脇へ回り、壁際から下がっている停止紐を引いた。
返架路を満たしていた弱い力がほどけていく。
空中にいた三冊も、急に落ちることはなかった。ゆっくり高さを失い、返架路の床へ一冊ずつ降りていく。
完全に止まったのを確かめてから、マーレンが木柵の内側へ入った。
リディアと子どもたちはその場で待った。
やがて三冊を抱えて戻ってきたマーレンは、灰色の本の背を見たところで眉を上げた。
「あら」
分類札の下から、別の色がほんの少しのぞいていた。
新しく付けた青い札。
その下に、古い緑の札が残っている。
薄い図鑑にも。
緑色の表紙の本にも。
二枚ずつ。
「外したつもりだったんだけど」
マーレンは困ったように笑い、二枚の札を指でずらした。
「三冊とも、古い札が残ってるわ」
エルナは返架路の奥を見る。
さっき本が止まったところから左には青い印の棚があり、右には緑の印が付いた棚があった。
「両方から呼ばれてたの?」
マーレンは二枚の札を見てから、左右の棚を見た。
「そうみたいね」
返架の魔法が見ているのは、本の題名でも中身でもない。
札へ刻まれた返架印と、棚の端にある印。
同じ印があれば、そちらへ本を導く。
この三冊には、その行き先が二つ残っていた。
しかも旧分類と新分類の棚が、ちょうど返架路を挟んで左右に分かれている。
どちらの札も本物だった。
だから魔法にとっては、片方を無視する理由がなかった。
左右からほとんど同じように導かれ、どちらにも進みきれなくなったのである。
「壊れたんじゃないんだ」
フィンが言った。
「ええ。間違えたのはこっち」
マーレンは、自分の指で二枚になった札を軽くつまんだ。
言い訳するでもなく、笑って肩をすくめる。
「新しい方を付けたところで安心しちゃったのね。古い方を外したか、一冊ずつ確かめないと」
そのまま魔法を再び動かすことはしなかった。
分類替えをした本は、残りも全部木籠へ集める。
二重になっている札がほかにないか確認してから棚へ戻すことになった。
エルナたちの返却本も今日は一緒に人の手で戻すらしい。
原因が分かったからといって、急いでもう一度動かす必要はない。
ミアは木籠の三冊を見つめていた。
「おほん、おひっこししたの?」
「そうね」
マーレンが答える。
「前とは違う棚に置くことにしたの」
ミアは本を見る。
左の棚を見る。
今度は右の棚。
しばらく考えてから、もう一度本へ視線を戻した。
「でも、おほんはおんなじ?」
「同じ本よ」
それで納得したらしい。
ミアは大きくうなずくと、もう本の引っ越しより絵本の棚の方が気になり始めた。
騒ぎが片づくころには、窓から差していた光もだいぶ赤みを増していた。
四人はそれぞれ借りる本を探し始めた。
フィンは自然の棚へ向かい、ミアは絵本の列の前で背表紙を一つずつ眺めている。リディアも少し離れた棚から薄い本を一冊抜いた。
エルナはすぐには自分の目当ての場所へ行かなかった。
さっき三冊が止まった返架路の近くへ戻り、新しく分類された棚を眺める。
確認を終えたマーレンが、ちょうど灰色の本をそこへ収めるところだった。
置かれる場所は変わった。
背の札も変わった。
けれど、角の少し擦れた表紙も、厚い頁の束も、さっき空中で妙に行儀よく水平になっていた本と同じだった。
マーレンが立ち去ったあと、エルナはその本を一度だけ抜いてみた。
頁を開く。
当然だが、中の文字はさっきまでと何も変わっていない。
分類が替わったからといって、書いてあることまで書き替わるわけではなかった。
その当たり前のことが、今日は少し面白く感じられた。
エルナは本を閉じ、今度こそ新しい棚へ戻した。
それから自分が借りる本を探しに行った。
図書館を出るころ、四人の腕には行きより多くの本があった。
オスカーの予想どおりである。
ただし、持ちきれなくなる一歩手前でリディアが止めたので、腕を増やす魔法は必要なかった。
帰り道では、ミアが新しい絵本を抱きながら何度も「本のおひっこし」と口にしていた。
夕方の風が少しだけ涼しくなり、石畳に四人の影が伸びている。
「じゃあさ」
フィンが歩きながらミアへ尋ねた。
「その絵本を違う棚に置いたら、別の本になる?」
「ならないよ」
返事は早かった。
「じゃあ、ミアが違う椅子に座ったら?」
今度は少し考えた。
歩きながら自分の足元を見て、やがて胸を張る。
「ミア!」
「だよな」
フィンが笑う。
その隣で、エルナも小さく笑った。
夕食までには、図書館であったことは留守番組にもすっかり伝わっていた。
ミアの説明では三冊の本が左右の棚から思いきり引っ張り合われたことになっており、実際よりずいぶん大騒ぎだった。フィンが横から少しずつ直し、エルナが二枚の札を手で重ねて見せるころには、オスカーも事情を理解したらしい。
食卓の端では、アルノが借りてきた本の山を眺めている。
その向こうで、ルクスは窓辺にいた。
本人は図書館へ行っていない。
けれど本が二つの棚へ引かれて途中で止まったことも、古い札を外し忘れていたことも、ミアが何度も話したおかげで十分伝わったらしい。
夕食が終わっても、ミアはまだ今日の出来事が気に入っていた。
空になった自分の皿を左右から両手でつかみ、本の真似をしてみせる。
「こっちー。こっちー」
自分で左右へ引っ張っているので、皿はもちろん一歩も動かない。
フィンが笑い、リディアも片づけながら肩を揺らした。
やがてミアの目が窓辺へ向く。
今度は何を思いついたのか、少し考えてから尋ねた。
「ルーちゃんは、どこのたな?」
ルクスは答えなかった。
夕方からずっと同じ窓枠にいるくせに、質問そのものが気に入らなかったらしい。
白い翼をゆっくり整える。
それから窓枠を二歩だけ横へ移り、そこでまた座った。
ミアが追うように顔を動かす。
「そこ?」
金色がかった目が、じろりと返ってきた。
窓の外では、通りの家々に一つずつ灯りが増えていた。
借りてきた本の山は明日から読む順番を待ち、今日返した本はもうそれぞれの棚へ戻っているころだろう。
ルクスはしばらくミアを見ていたが、やがて諦めたように嘴を開いた。
「棚の名前くらいで中身が変わるなら苦労はない。ついでに言っておくが、俺の分類は『窓辺』じゃないぞ、ミア」




