第9話 普通の学生をやるはずが、初日から重傷者で目立ってしまう
「おいジェニー、お前俺の女になれよ。てめえからは処女の匂いがするぜ」
俺はヤンキーを見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。こういう場面では、焦ってはいけない。相手が何人いようと関係ない。大切なのは、こちらが相手を恐れていないことを態度で示すことだ。とはいえ、露骨に威圧するのも違う。大声を出したり、拳を握ったりするのは三流のやり方だ。俺はヤンキーの目をまっすぐ見つめ、できるだけ低く、落ち着いた声で言った。
「……なるほど。お前が女に相手にされない理由がよく分かった」
次の瞬間。
「なんだと、てめぇ!」
ヤンキーの拳が飛んできた。拳が俺の腹にめり込む。だが俺は動かなかった。痛くもない。当然だ。俺の肉体は限界まで鍛え上げてきた。多少、魔法を使えるヤンキーが全力で殴ったところで、俺にとってそれは蚊に噛まれるよりもダメージが少ない。
それに、俺は相手の拳が飛んでくることを最初から分かっていた。避けようと思えば、簡単に避けられた。拳が当たる寸前に身体を半歩ずらすこともできたし、腕を掴んで止めることもできた。そもそも、殴られる前に相手の懐へ入り込んで無力化することだってできる。
だが、ここはあえて殴られた。
これもまた、ハードボイルドだ。あえて受ける。
もう一度、拳が飛んでくる。それでも動かない。
「オラァ!」
ドンッ。
「この野郎!」
ドスッ。
「倒れろ!」
さらに拳が飛んでくる。
俺はただ立っていた。表情も変えない。呼吸すら乱さない。むしろ、相手のほうが苦しくなっているのが分かる。
最初は威勢よく殴っていたヤンキーの腕が、少しずつ重くなっていく。拳を振るうたびに肩が上下し、呼吸も荒くなる。
俺はその様子を見ながら、内心で頷いた。
いい。非常にいい。
こういうのだ。何発殴られても動じない男。敵の攻撃を真正面から受け止めながら、ただ静かに立ち続ける男。言葉で「俺は強い」と説明するより、こうして相手に体験させたほうが遥かに説得力がある。
「こいつ……、なんなんだよ……」
ヤンキーが息を切らしながら呟いた。俺は答えなかった。
「なんで倒れねえんだ、クソ……!」
本当に強い男は、自分の強さを語らない。相手が勝手に理解する。俺はそれこそハードボイルドだと思っている。
「おい……、大丈夫か?」
別のヤンキーが、殴っている男へ声をかけた。
「うるせぇ……!」
周囲の生徒たちも、次第にざわつき始めていた。
「何あれ……」
「全然効いてないぞ……」
「何発殴られてんだよ……」
「本当に人間か?」
「ヤバくない……?」
「一応、先生呼んだほうがいいんじゃない?」
「でもあの人……、痛く無さそう」
俺はその声を聞きながら、少しだけ満足した。どうやら、俺の演出は成功しているらしい。周囲は俺の異常な強さに気づき始めている。
今日も俺は、ちゃんとハードボイルドしている。
……ただし。俺はそこで、ある問題に気づいた。
学院の地下を調査するために潜入しているというのに、初日から「謎の強者」として認識されてしまえば、今後の行動に支障が出るかもしれない。
俺は普通の学生でいなければならない。
授業を受ける。昼食を食べる。友人と話す。そういう普通の学生を演じながら、裏では学院の地下を調べる。それが今回の俺のミッションだ。
そこで俺は、ある結論に至った。
普通の人間なら、殴られれば怪我をする。ならば怪我をすればいい。非常に単純な話だった。俺は誰にも気づかれないように魔力を操作した。
身体の内部へ傷を作る。もちろん、致命傷にはしない。ただ血が出る程度。普通の人間が殴られたときにできる程度の傷に調整する。これなら問題ない。
俺は自分の身体を傷つけながら、これでようやく普通の学生らしく見えるだろうと考えた。
そして――。
「ゴホッ……!」
俺は血を吐いた。口元から赤い血が流れ落ちる。制服にも血が付いた。
よし。
これなら普通に見える。俺は内心で満足した。ところが……。
「エリオット……!」
ジェニーは今にも泣き出しそうな顔で俺を見ている。
「血……?」
「血はヤバいでしょ」
「ちょっと待って、本当に怪我してるじゃん!」
「誰か先生呼んで!」
「保健室!」
「救護の先生は!?」
一気に周囲が騒がしくなった。生徒たちの顔には明らかな動揺が浮かんでいる。中には顔を青くしている生徒までいる。どうやら、思った以上の騒ぎになってしまった。
「私のせいで、ごめんなさい!」
震える声で言った。
「私……、怖くて動けなくて……」
「いや……」
俺が言葉を挟もうとすると、ジェニーは首を横に振った。
「大丈夫ですから……! もう無理しないで!」
違う。無理はしていない。俺は元気そのものだ。むしろ今はかなり調子がいい。ただ自分で少し傷を作って血を出しただけだ。でもそれを説明するわけにはいかなかった。俺はミスターXのように強くあってはいけない。あくまでジェニーの中で俺はミスターXのマネージャーである。
ジェニーの顔を見て、俺は口を閉じた。
泣きそうな顔をしている。どうやら、本気で心配しているらしい。
そのとき、ヤンキーの1人が、再びジェニーへ手を伸ばした。それは駄目だ。ジェニーに手を出すのは、さすがになしだ。とはいえ、ここで俺がヤンキーを本気で叩きのめしてしまえば、今度こそ正体を疑われる。
それだけは避けたい。
ならば、どうする。
俺は即座に判断した。注意を自分へ戻せばいい。そして、そのために使えるものは1つしかない。
俺は再び魔力を操作した。
「ゴホッ……、ゴホッ……!」
大量の血が口から溢れた。
だが、これだけじゃ足りないかもしれん。念のため今度は全身を魔法で傷つけてみた。当然ながら、全身から血が噴き出す。
「えっ……!」
「きゃっ!」
「ちょっと!」
先ほどとは比べものにならない量の血が流れ、制服へ広がっていく。血が床へ落ちる。俺の足元に赤い血だまりができた。
周囲が完全に静まり返った。
「…………」
誰も声を出さない。
俺自身も血だまりを見下ろした。
……やりすぎたかもしれない。
「きゃぁああああああ!」
ジェニーの悲鳴が響いた。周囲からも悲鳴が上がる。
「誰か先生!」
「救護を呼んで!」
「早く!」
おいおい騒ぐな。そんな大事にするつもりはなかった。ジェニーは泣きながら叫ぶ。
「エリオット! しっかりして!」
しっかりしている。
俺は少し困った。めちゃくちゃ元気なのだが、ここで元気だと言ってしまうと、負傷者という演出が台無しになる。ならば、ここは最後まで通すしかない。
俺はジェニーに身体を傾けた。
ドサッ。
「エリオットォォオオオオオオオオオオオ!!」
ジェニーの声がさらに大きくなる。
ヤンキーたちは完全に固まっていた。さっきまで俺を殴っていた男の顔から、血の気が引いている。
「おい……」
「なんだよ……」
「もう行こうぜ」
「お、おう……」
「こいつ……、普通じゃねえ」
ヤンキーたちは逃げるように、その場から離れていった。俺はその背中を見送った。
「エリオット……」
ジェニーの声が震えている。俺はゆっくりと彼女へ視線を向けた。
「どうしてそこまで……」
ジェニーの目には涙が浮かんでいた。
「どうして、私のために……。死なないで……」
ジェニーが震える手で俺の手を握る。
申し訳ないが、俺にとってはただの演出。ノーダメである。
「エリオット君!」
遠くから声が聞こえた。教師だ。騒ぎを聞きつけてやってきたらしい。教師は俺の姿を確認した瞬間、顔色を変えた。
「エリオット君!?」
「…………」
俺は答えない。教師が俺の身体を確認する。
「早く保健室へ! 担架を持ってきてくれ!」
俺は内心少し焦った。話が大きくなりすぎている。治癒魔法を使えば、一瞬で元に戻れる。だが、ここで治癒魔法を使うわけにはいかないだろう。逆に目立ちすぎる。ここは普通の学生らしく、怪我人として振る舞う。そうすれば、少なくとも「傷を一瞬で治す謎の男」という余計な情報を与えずに済む。
俺は静かに目を閉じた。
「エリオット君、意識はあるかい!」
「…………」
何も答えない。これでいい。苦しそうにする必要もない。むしろ、余計な演技はしないほうが自然だ。静かに目を閉じている。それだけで十分だろう。
ところが、教師はさらに慌てた。
「意識がない。はやく担架を!」
やがて、担架が運ばれてきた。
「ゆっくり乗せるぞ!」
「出血が多いから気をつけて!」
俺は担架へ乗せられた。身体を持ち上げられ、周囲の景色が少しずつ遠ざかっていくのを感じた。ジェニーがすぐ横についてくる。
「エリオット、きっと大丈夫。大丈夫……。お願いします、神様」
その声は、まだ震えていた。ジェニーがずっと俺の顔を見つめているのが分かる。
まあ、潜入任務にトラブルは付き物だ。むしろ、こういう予想外の出来事を冷静に処理できるかどうかが、真のハードボイルドには問われる。
学院の地下にある謎の魔力反応を調査するという本来の目的は、ちゃんと遂行する。
俺は目を閉じたまま、心の中で静かに笑った。
……フッ。面白くなってきやがったぜ。




