第18話 闇の支配者、学院に宣戦布告する
「ミスターXだ!」
ジェニーが振り向く。アガサも顔を上げる。体育館の入口付近に集まっていた生徒たちが、一斉に同じ方向を見ていた。
ジェニーは内心、とても驚いていた。ミスターX。まさか、この学院に来てくれたのだろうか。いや、待って。ジェニーの頭に、別の可能性が浮かんだ。
もしかして、ミスターXさんのマネージャーであるエリオットが、ミスターXを呼んだのだろうか。
エリオットは以前、自分がミスターXのマネージャーだと話していた。あのときは驚いたし、少し信じられない気持ちもあった。けれど、エリオットならやりかねない。こんな学院を襲う魔物を放っておくとは思えない。
「アガサさん! 行きましょう!」
ジェニーがアガサの手を取った。アガサも歓声のする方向を見る。2人は人混みをかき分け、その方向へ走った。
「本物だ!」
「ミスターXが来た!」
「学院を救ってくれたぞ!」
「すげえ!」
「さっきの魔物、全部あの人が倒したんだろ!?」
「学院最強の生徒会長まで助けたらしいぞ!」
「えっ、マジで!?」
「ほら、あそこ!」
歓声がさらに大きくなる。そして、2人の視界にその姿が入った。黒い服。黒いコート。黒い手袋。そして、顔を隠すハット。
ミスターXだった。
その腕には、白銀の守護隊の隊長であるイザベラ・コスタクロックが抱えられている。
「お姫様抱っこじゃん!」
誰かが叫んだ。
「ミスターXが、生徒会長を抱えてるぞ!」
「学院最強の剣士と謎の最強男って、完全に物語の主人公とヒロインじゃん!」
「生徒会長、顔真っ赤!」
イザベラの声が響く。
「私は、その……助けてもらっただけで……!」
ヒューヒュー、と冷やかすような歓声が上がった。イザベラの顔がさらに赤くなる。ジェニーはそんな光景を見つめながら、少しだけ目を丸くした。
「……ミスターXさん」
やっぱり、本物だ。しかも学院最強の生徒会長を助けたらしい。お姫様抱っこまでして……。それはどうでもいい。やっぱりエリオットが呼んだのだろうか。だったら、エリオットもこの近くにいるのかもしれない。
ジェニーは周囲を見回した。アガサも周囲を見回す。でもエリオットの姿は見当たらない。
2人が探している本人がミスターXであり、ほんの数メートル先にいることなど、2人には分からなかった。そのまま2人はミスターXへ近づいていく。
「すみません! ミスターXさん!」
ジェニーが声をかけた。ミスターXの足が、ほんのわずかに止まった。ミスターXは、ハットの影からジェニーを見る。そして、その隣にいるアガサを見る。
「……」
一瞬、思考が止まった。ジェニー。アガサ。2人とも、泣きそうな顔をしている。
「エリオットがどこにいるか知りませんか?」
ジェニーが尋ねた。その言葉を聞いて、ミスターXはようやく思い出した。
そういえば、こいつらを置いてきたんだった。完全に忘れていた。ミスターXとしての活動に夢中になっていて、頭から抜け落ちていた。
「……」
ミスターXは、ハットのつばをわずかに下げた。なんだか、申し訳ない。2人とも、本気で心配している。今にも泣きそうなほどに。
「トイレに行ったきり、戻ってこないんです」
ジェニーが続ける。
「どこにいるか、知りませんか?」
ミスターXは答えに困った。もちろん知っている。自分がそのエリオットなのだから。ここで「俺がエリオットだ」と言えば、2人の不安は一瞬で消える。けれど、それはできない。ミスターXの正体を知られるわけにはいかない。
ミスターXはしばらく黙っていた。そして、できるだけ自然に答えた。
「……その男なら見ていない。俺の視界には、魔物しか映っていなかった」
「そうですか……」
ジェニーは目を伏せた。その顔を見た瞬間、ミスターXの胸に小さな罪悪感が生まれた。アガサも隣で落ち込んだ様子で黙っている。本当はここで何か言ってやりたい。エリオットは大丈夫だ。心配する必要はない。自分は無事だと伝えてやりたい。だが、それを言うわけにはいかない。ミスターXとしての自分を守るためには、ここで余計なことを言うべきではない。
だからせめて、これだけは伝えておこう。
「君たちが帰る場所である限り、男は自分の足で帰ってくる。そういうもんだ。信じて待ってやれ」
ジェニーは小さく頷いた。
「ありがとうございます」
その笑顔は、無理に作っていることが分かる笑顔だった。しかしミスターXは歩みを止めない。イザベラを抱えたまま、体育館の奥へ進んでいく。
ミスターXは、そのまま体育館の入口をくぐった。
そこには、避難してきた全校生徒と教師たちが集まっていた。体育館の中は人で埋め尽くされている。生徒たちは不安そうに周囲を見回し、教師たちは人数を確認しながら負傷者の有無を確認していた。そこへ、黒い衣装に身を包んだ一人の男が入ってきた。しかも、その腕には学院最強の剣士として知られる生徒会長、イザベラ・コスタクロックが抱きかかえられている。
一瞬、体育館の空気が止まった。
誰もがミスターXを見る。
黒いコート。黒い手袋。そして顔の上半分を隠すように被ったハット。その姿だけでも十分に目立つというのに、さらに腕の中には学院最強の生徒会長。あまりにも現実離れした光景だった。
やがて、あちこちから小さなざわめきが起こる。
「……あれ、ミスターXじゃないか?」
「本物?」
「さっき魔物を倒してた人だろ?」
「生徒会長を抱えてる……」
「えっ、あのイザベラ会長を?」
ざわめきは、次第に大きくなっていく。その腕の中では、学院最強の剣士であるイザベラが、顔を真っ赤にしたまま固まっていた。
「……あの」
イザベラが小さな声を出す。
「なんだ」
ミスターXは前を向いたまま答えた。
「……そろそろ、下ろしていただけませんか?」
できるだけ平静を装っていた。しかし、その声には隠しきれない動揺が混じっている。今のお姫様抱っこの状態を意識するたびに、顔が熱くなる。
「歩けるのか?」
ミスターXが淡々と尋ねた。
「それは……」
イザベラは言葉に詰まった。実際、まだ脚に力が入らない。魔物に吹き飛ばされ、壁へ叩きつけられた身体は、思っていた以上に消耗していた。立ち上がろうとしても、膝が震えてまともに歩けないだろう。
だからといって、このまま抱き上げられているのは恥ずかしい。しかも、周囲には学院中の生徒がいる。
自分は生徒会長だ。白銀の守護隊を率いる立場でもある。普段なら誰かを守る側にいる自分が、今は正体不明の男に抱きかかえられている。
「少し休めば……」
「無理をする必要はない」
短い言葉だった。
「……ですが」
「今は、このままでいい」
それだけ言うと、ミスターXはイザベラを下ろそうとしなかった。イザベラは反論しようとして、口を閉じた。
「……はい」
小さく返事をする。顔が、さらに赤くなる。恥ずかしい。今すぐこの腕から下ろしてほしい。そう思っているはずなのに、不思議と嫌ではなかった。むしろ、この人の腕の中にいると、身体の奥に残っていた緊張が少しずつ抜けていく。
これまで、ずっと誰かを守る側だった。危険があれば自分が前に出る。仲間が傷つけば、自分が盾になる。学院で何か問題が起きれば自分が解決する。
それが当然だと思っていた。
強くなければならない。誰かに守られるのではなく、自分が誰かを守らなければならない。それが、イザベラの生き方だった。
けれど今は違う。自分より圧倒的に強い男の腕の中にいる。何も考えずに身を預けていられる。その感覚を知った瞬間、胸の奥に今まで知らなかった感情が生まれた。守られるということは、こんなにも安心するものなのか。
イザベラは戸惑っていた。
そして同時に、自分がこの男に心を奪われつつあることにも、まだ気づいていなかった。ミスターXは、そんなイザベラの感情など知る由もない。
彼の頭の中にあるのは、別のことだった。
ミスターXは、体育館の奥へ進む。そして、そのまま壇上へ向かった。教師たちがざわつく。
「おい、何をするつもりだ?」
「止めろ!」
制止する声も飛んでくる。だが、ミスターXは足を止めなかった。壇上へ上がる。視線が集まる。体育館にいる全員が、彼を見ていた。
準備は整った。闇の支配者には、闇の支配者らしい宣言が必要だ。
グールを倒したのはただの余興。恐怖を与えるなら、学院全体へ自分の存在を知らしめなければならない。
ミスターXは、学院全体へ張り巡らされている魔導通信網へ、自分の魔力を伸ばした。複雑な術式が幾重にも重なっている。普通なら、学院の設備へ勝手に干渉することなどできない。だが、ミスターXにとっては大した問題ではなかった。
術式の流れを読む。魔力の経路を確認する。必要な部分だけを書き換える。音声出力。学院内放送。接続完了。
学院中に響いていた避難誘導の放送が、突然途切れた。
体育館が静かになる。何が起きたのか分からず、生徒たちが顔を見合わせる。
学院中の魔導スピーカーから、低い男の声が響いた。
「聞け。アストリオン魔法皇国学院の者たちよ」
体育館にいた生徒たちが息を呑む。避難していた生徒たちも足を止める。教師たちも立ち止まった。
学院全体に、ミスターXの声が届いている。
ミスターXは、できるだけ低く、落ち着いた声を作った。こういうときに声を張る必要はない。静かなほうがいい。聞き逃したくないと思わせるくらいが、ちょうどいい。
そして、腕の中にいるイザベラへ視線を落とした。彼女は目を丸くして、ミスターXを見上げている。
「何をするつもりですか?」
ミスターXは答えなかった。ただ、学院中へ向けて言葉を続ける。
「お前たちが誇る生徒会長、イザベラ・コスタクロックは――」
そこで一度、言葉を切る。静寂が広がった。誰もが次の言葉を待っている。ミスターXは、わずかに口元を上げた。
「――俺が預かった」
その言葉が、学院全体へ響き渡った。




