第17話 エリオットが帰ってこなくて曇る2人
「愛してしまったから」
ミスターXは静かに答えた。
「……っ」
イザベラの息が止まった。
「愛して……しまった……」
ミスターXは前を向いたまま続ける。
「ああ。どうしようもないくらいにな」
本人が愛しているのは、ハードボイルドだった。黒衣。孤独な強者。煙草。渋い台詞。そんな生き方への憧れと愛情。それがミスターXをここまで突き動かしている。けれど、イザベラは別の意味でその言葉を受け取っていた。
胸の奥が熱くなる。涙が込み上げてきた。大切な人を失っても、その人への愛を忘れられない。だから強くなった。だから今も戦っている。だから、自分を犠牲にしてでも誰かを守ろうとしている。イザベラは必死に涙をこらえた。ここで泣いてはいけない。この人、これ以上悲しい顔を見せるべきではない。もうこの人の人生は、哀しみで溢れすぎている。
「……すみません」
声が震えた。いったいどれだけのものを失えば、こんな目をするようになるのだろう。イザベラは彼に同情すると共に、尊敬の念を抱かざるを得なかった。
「どうして謝る?」
ミスターXが不思議そうに尋ねる。
「分かりません。でもきっと……」
そこから先は言えなかった。あなたの亡くなった奥さんも、あなたに幸せになってほしいと思っているはずです。そう言いたかった。けれど、そんなことを口にする勇気はなかった。一方でミスターXは、女にハードボイルドを理解させるのはやはり難しいと感じていた。理解できないから謝った。彼はそう解釈していたのだ。
ただ、なぜイザベラが泣きそうになっているのか分からなかった。だからミスターXは、それ以上何も言わなかった。かわりに、腕の中にいるイザベラを落ち着かせるように、歩く速度を少しだけ緩めた。
「あまり、一人で無理をしないでください」
イザベラは顔を上げ、必死に涙を隠すように微笑んだ。
「……善処しよう」
ミスターXは流すこともできず、それだけ答える。2人の認識がひたすらにすれ違っていたことを、2人は知らない。片方は亡き妻への愛を背負った男だと思い込み、片方はハードボイルドへの愛を理解してもらうことの難しさを嘆いていた。
男は頭を切り替え、短くなった疑似タバコを外へ投げ捨てた。グールはすべて倒した。ならば、次にやることは決まっている。ここから先は、闇の時間だ。誰もが忘れられない絶望を刻み込んでやる。
そのころ、少し離れた場所では、2人の少女が周囲を見回していた。ジェニーとアガサだった。
「エリオット、どこ?」
ジェニーが不安そうに周囲を見渡す。アガサも周囲へ視線を向けた。
2人のいる場所には、避難してきたものの体育館に入りきれない生徒たちが大勢いた。教師たちは生徒の人数を確認しながら走り回り、負傷者がいないか確認している。誰かが友人の名前を呼び、別の場所では教師が「押すな!」と声を張り上げている。
魔物の襲撃はもう収まったけれど、まだ混乱状態は続いていた。それはジェニーとアガサにとっても同じだった。なぜなら、2人にとって大切な存在のエリオットがまだトイレから帰ってこないからだ。
「エリオット……!」
ジェニーがもう一度、名前を呼ぶ。どこからも返事はない。体育館に避難してきたあと、エリオットは2人にトイレへ行くと言って、その場を離れた。それきり戻ってきていない。
最初のうちは、2人ともそれほど心配していなかった。けれど、結構な時間が経っても戻ってこない。生徒たちは次々と避難してくる。二人の中で、どんどん不安は膨らんでいった。
「まさか、魔物に食べられ――」
ジェニーが呟いた瞬間だった。
「ない」
アガサが即座に否定した。
「エリオットは、そんなに弱くない」
その言葉には迷いがなかった。エリオットは弱くない。アガサはそう信じている。ジェニーは小さく頷いた。
「ですよね……。すみません」
ジェニーも、エリオットが弱くないことは分かっている。むしろ、ジェニーは誰よりもそれを知っているつもりだった。カフェテリアでヤンキーたちに絡まれたとき、エリオットは迷わず前に出た。何度も殴られた。一発や二発ではない。何度も何度も殴られて、それでもエリオットはびくともしなかった。最後には大量の血を吐いて、全身傷だらけになっていたけれど、それでも私を庇い続けた。
「……」
ジェニーの胸が締めつけられた。エリオットは強い。だから大丈夫。そう思いたい。けれど、いつまでたっても帰ってこない。もしエリオットが一人で魔物と遭遇していたら。そんな恐怖が、頭の中で何度も再生されていた。
「どうして、ついていかなかったんだろう」
アガサが振り向く。
「ジェニー?」
「本当は、怖かったんです」
ジェニーは自分の手を強く握った。
「トイレに行く途中に魔物に襲われるかもしれないって考えたら、ついて行くのが怖かったんです……」
あのとき。エリオットが「トイレに行く」と言ったとき。ジェニーは一緒に行こうとは言わなかった。怖かったから。学院の中に魔物がいる。そんな状況で、わざわざ危険な場所へ向かうのは嫌だった。だから、エリオット一人で行かせた。ジェニーは唇を噛んだ。エリオットなら大丈夫だと思ったけれど、そんな保証、どこにもないのに。
「私も同じ」
アガサの声は小さかった。
「私、運動音痴だから、ついて行ってもしものことがあったら足手まといになると思って。むしろエリオット一人で行かせた方がいいと思った」
その判断が正しかったのか。今となっては明らかだ。
「でも、間違ってた」
「アガサさん……」
「一人にするべきじゃなかった」
その言葉には強い後悔が滲んでいた。
「エリオットは、危険な場所へ行くときほどカッコつけてハードボイルドでいようとする。昔からそうだった」
アガサは周囲を見回した。
「だから、トイレへ行くという言葉だけを信じるべきじゃなかった」
「……え?」
「もしかしたら、トイレじゃなかったのかも」
ジェニーが不安そうに尋ねる。
「どこに行ったんでしょう?」
「分からない」
アガサの答えは短かった。
「……分からないの」
その言葉が、2人の胸に重く落ちた。エリオットは今どこにいるのか。何をしているのか。無事なのか。それすら分からない。
アガサは拳を握った。
「私が、もっとちゃんと見ていれば……。どこに行くのか、問いただしていれば……」
せっかく、また会えたのに。
アガサは顔を伏せた。7歳で出会って、10歳で一度離れて。長い時間が経って。それでも、再び同じ学院で過ごせるようになった。嬉しかった。運命なんて非科学的なもの信じていないけれど、それでも運命だと思った。
隣にいる時間が、また続くと思っていた。もう会えなくなるなんて……。
一粒の涙が落ちた。
アガサ自身、その涙を見て驚いた。自分がここまで動揺するとは思っていなかった。普段なら、もっと冷静に考えられるはずだった。学院の地図を思い出し、魔物の出現地点を整理して、エリオットが向かった可能性のある場所を絞り込む。そうやって、最も効率的な捜索方法を考える。けれど今は、何も考えられなかった。
ただ怖かった。エリオットは、もう死んでいるかもしれない。その可能性が頭から離れない。死を否定すればするほど、エリオットが遠ざかる気がした。
「……私のせい」
「違います!」
ジェニーはアガサの肩に手を置いた。
「アガサさんのせいじゃないです! 私もついていかなかったんです。だから2人のせいです」
「ジェニー……」
「一緒に探しましょう」
ジェニーは目元を赤くしながら、それでもアガサを真っ直ぐ見つめた。
「エリオットは絶対に生きてます」
それは確信というより、願いだった。
「絶対です」
ジェニーは自分自身に言い聞かせるように、もう一度繰り返す。
「きっと学院のどこかに隠れてます。だったら、私たちが見つければいい」
「……うん」
アガサが頷く。
2人は涙を拭った。そして、再び人混みの中へ入っていった。
「あなたたち、エリオットを見なかった?」
アガサが近くにいた生徒へ尋ねる。
「編入してきたばかりの1年の男子生徒で、髪は黒。身長はこのくらい。少し細身で、あまり目立たない感じの……」
生徒は少し考えてから首を横に振った。
「見てません」
「そう……。ありがとう」
アガサは次の生徒へ向かう。
「すみません」
ジェニーも別の生徒に声をかけた。
「エリオットっていう男子生徒を見ませんでしたか? 黒髪で、身長170センチくらいの……」
「知らないな」
「そうですか……。もし見かけたら、教えてください」
そう言って頭を下げる。すぐに次の生徒へ向かう。
「エリオットを見ませんでしたか?」
「いや」
「このくらいの身長で……」
「見てない」
「そうですか……」
聞いても、聞いても、答えは同じだった。見ていない。知らない。分からない。そのたびに、アガサとジェニーの胸に冷たいものが沈んでいく。
「エリオット……」
二人は小さく名前を呼ぶ。
そのときだった。遠くから、大きな歓声が上がった。
「ミスターXだ!」




