第16話 ミスターX、なぜか亡き妻を愛し続ける悲劇の男だと思われる
ミスターXは、イザベラを腕の中に抱えたまま学院内を進んでいた。いわゆる、お姫様抱っこである。イザベラは最初こそ、自分がどういう状態になっているのか理解できずに固まっていた。けれど、しばらくして状況を理解すると、顔が熱くなった。頬だけではない。耳まで熱い。
自分は白銀の守護隊を率いる生徒会長だ。誰かに守られる側ではなく、生徒たちを守る側の人間である。それなのに今は、正体不明の黒衣の男に抱き上げられている。それも、まるで当然のことのように。
「……あの」
イザベラが小さく声をかける。この人は、一体何者なのだろう。どこから来たのか。なぜ、こんな力を持っているのか。何のために学院へ現れたのか。自分を助けた理由は何なのか。知りたい。もっと、この人のことを知りたい。そんな恋心にも感情が胸の中に生まれていることに、イザベラ自身はまだ気づいていなかった。
しかし、ミスターXは前方を見たまま歩いている。返事はない。聞こえていないのだろうか。それとも、意図的に無視しているのだろうか。イザベラは少しだけ迷ったあと、もう一度口を開こうとしたときだった。
前方から、魔物の咆哮が響いた。
「グオオオオオオオッ!」
校舎の陰から、複数のグールが姿を現す。さらに後ろから別の個体が現れ、こちらへ向かって走ってくる。
「……っ!」
イザベラは反射的に身体を強張らせた。今の自分にはまともに戦うこともできない。けれど、ミスターXは違った。足を止めない。視線すらほとんど動かさない。ただ、口に咥えていた疑似タバコを僅かに傾ける。
「ふぅぅ~っ」
白い煙が吐き出された。次の瞬間、凄まじい風圧が走った。グールたちの巨体が一斉に吹き飛ぶ。巨体が木の葉のように吹き飛び、その直後に姿を消した。空間ごと引き裂かれるように消滅した。
「…………」
イザベラは呆然とした。ミスターXは、何も起きなかったかのように歩き続けている。イザベラは再び口を開こうとした。しかし、その直後、別の方向から魔力反応が生じる。ミスターXはそちらへ目を向けた。そこから1体のグールが飛び出してくる。
「グオオオオオオッ!」
ミスターXは、ため息をついた。
「……はぁ」
そのため息と同時に、空気が揺れた。巨体が地面から浮き上がる。まるで見えない手に掴まれたように宙へ持ち上げられ、そのまま握りつぶされた。男はただ、退屈そうだった。実際、退屈だった。もう少し強くなければ、ハードボイルドのやりがいもない。
イザベラは、そんな彼を見上げる。そして、先ほどのため息について考える。どうして、ため息をついたのだろう。イザベラは自分のせいだと思った。私は彼の正体について尋ねようとした。そのことが彼をイラつかせたのだ。自分が踏み込んではいけない過去があるのかもしれない。
「……すみませんでした」
ミスターXは首を傾げた。だが、深く考えることはなかった。本人としては、単純に敵が弱すぎてため息が出ただけである。
「つまらない」
ミスターXが呟いた。
「……!」
イザベラの身体が僅かに強張る。つまらない。先ほどから現れる強敵を倒し続け、彼はつまらないと言った。イザベラは、その言葉の意味を考えた。戦いに勝利しても、一切の達成感を見せない。そこから1つの結論に辿り着いた。この人は、戦闘そのものを楽しんでいるわけではない。ならば、なぜここまで強くなったのか。なぜ、こんな力を手に入れたのか。答えは1つしかない。守りたい誰かがいたから、強くなったのだ。
「……」
イザベラはミスターXを見つめる。戦いを楽しむことすらなく、ただ淡々と敵を倒していく姿。こんな哀愁ただよう雰囲気、普通の人生経験を経ただけではだすことができない。きっと、過去に大切な人を失ったんだ。彼の恋人。いや妻だったのかもしれない。愛する女性を失ったのである。そうでなければ説明がつかない。誰かを守りたかった。けれど、守れなかった。だから、もう二度と同じことを繰り返さないために強くなった。その悲しみが彼をここまで強くしたのだろう。
イザベラの胸が苦しくなった。こんなに強い人が、どうしてこんなに寂しそうなのか。その理由を知った気がした。きっとその愛する人から、タバコを吸うのはやめてと言われていたことだろう。それでもこの人は、愛する人から叱られるときのことを思い出すためにタバコを吸っているのだ。
思わず涙ぐんでしまう。
「ん?」
「……いえ」
イザベラは首を横に振った。あなたは愛する人を失ったから強くなり、思い出の中で愛する人に出会うためタバコを吸っているのでしょう、などと、そんなことを尋ねられるはずがない。
「……」
もちろんミスターXは、イザベラのそんな心中など知らない。
しばらく進んだところで、ミスターXが足を止めた。学院の奥。そこから、地下へ続く魔力の流れを感じる。数か月前に感じた、あの巨大な魔力反応と同じだった。今回、大量発生しているグール。そして、その異常な再生能力と吸収能力。
「……人体実験」
ミスターXが呟く。その言葉を聞いた瞬間、イザベラの表情が変わった。
「……人体実験?」
ミスターXは地下を意識しながら考える。魔物を人工的に生み出すための実験でもしていたのかもしれない。その結果がグール。つまり、魔物化した元人間。長年にわたってグールを研究して、改造して、強化してきた。そう考えれば、あの異常な能力にも説明がつく。
「……」
その一方で、イザベラの中では別の物語が完成していた。ミスターXは、さらに強さを求めているのではないだろうか。愛する妻を失ったことで、自分の弱さを憎んだ。いくら強くなったとはいえ、彼の中でその事実は変わらない。いわばその呪いが、彼自身を追い込み、どれだけ強くなっても満たされない心情になっているのではないか。だから自分自身に人体実験を施すことで、さらに強くなろうとしているのだ。
「いけません!」
イザベラが突然、強い声を出した。ミスターXが腕の中を見下ろす。イザベラは真っ直ぐに彼を見る。ミスターXからしてみれば、意味が分からない。
「人体実験なんて……、絶対にしてはいけません」
「……」
ミスターXは黙る。
「愛する人が、そんなことを望むと思いますか?」
イザベラが妙に真剣なので、ミスターXは流すことができなかった。魔物を人工的に生み出すための実験。現時点では推測にすぎないが、誰かがそんな実験を地下で行っていたとすれば、人道的に許すことはできない。正直なところ、学院の地下にそんな施設があるのなら、いっそのこと乗っ取ってしまおうかとも考えていた。
しかし、よくよく考えてみれば、ミスターX自身は人体実験に興味がない。誰かを実験台にするような趣味もない。それに人体実験をされる側のことを考えれば、あまりに気の毒だ。その人を愛する家族がいるのなら、なおさらである。それは俺の考える闇の支配者ではない。
「確かに、その通りだな」
ミスターXはそう答えると、小さく笑った。
イザベラは、その笑顔を見て少しだけ安心したようだった。けれど、ミスターXはそんな彼女の反応を気にすることなく、学院の奥へと視線を向ける。
なんなら、このまま地下に突入しちゃうか。
ここまで学院がぐちゃぐちゃになったんだから、それもありだ。今回の魔物の発生が事故なのか、それとも意図的なものなのか。それはまだ分からない。だが、その答えはすぐ近くにある。
地下にいるであろう本人に直接聞くのが早い。
ミスターXは、地下へ続く魔力の流れを感じながら、しばらく考えた。
……いや、やっぱりやめておこう。
せっかくここまで計画通りにきているのだ。ここで地下まで乗り込んだら、世間の英雄評価をひっくり返すことにはならない。
そう考えたミスターXは、地下へ向けていた視線を外して踵を返す。
「事故というより、意図的である可能性の方が高い気はするが……」
その言葉を聞いたイザベラの胸に、また衝撃が走った。この人の妻は、事故で亡くなったのではない。つまり、誰かに仕組まれて殺されたのだ。彼は真相を追い続けている。そして、妻を殺した犯人を見つけて復讐しようと考えている。
復讐に取りつかれるべきではない。だけどこの方は、なんて愛情深い人なんだろう。イザベラの胸が痛くなる。目の前の男は、詳しいことは何も語らない。悲しみを口にしない。ただ私を守り、この学院を守ってくれている。もう二度と、善良な誰かが傷つかないために。この人は、たった一人で十字架を背負い、すべてを抱え込んでいるのだ。
「……どうして、そこまでして強くいられるの。信念を貫けるのですか?」
気づけば、そんな言葉がイザベラの口から出ていた。ミスターXが少し考える。どうして、と聞かれても、ミスターX本人には答えが決まっている。自分がなぜここまでハードボイルドを貫けるのか。
「愛してしまったから」
ミスターXは静かに答えた。




