第11話 ミスターXが好きなのに、エリオットにも惹かれてしまう
●ジェニー視点
放課後。帰る前に、私は1人で女子トイレへ向かった。鏡の前に立ち、水道の蛇口を捻る。流れ出した水で手を洗いながら、ぼんやりと自分の顔を見る。転入してきたばかりの学院。まだ慣れない校舎。知らない生徒たちと受ける授業。そんな環境の中で、今日も1日が終わろうとしている。普通なら、それだけで疲れてしまってもおかしくない。
けれど、私の頭の中を占めているのは、学院生活のことではなかった。
「……エリオット」
名前を口にしただけで、胸が苦しくなる。今日のことを思い出す。昼休み、クラスメイトの不良少年たちに私が絡まれていたとき、エリオットは私を助けるために、あえて自分が狙われるように仕向けた。そして、何度も殴られた。
本当なら、あんなことになるはずじゃなかった。私が自分で対処できていればよかった。エリオットが自らを犠牲にする必要なんてなかった。彼は私のために殴られ続けた。保健室へ運ばれるほどの大怪我を負った。あのときの光景が頭から離れない。何度も拳を受けていた。血まで吐いていた。
私は何もできなかった。ただ見ていることしかできなかった。
「……私のせいで、ごめんなさい」
誰もいないトイレで、小さく呟く。本人には何度も謝った。でもエリオットは「気にするな」と言うだけだった。
「…………」
私は鏡を見つめる。今度は別の感情が込み上げてくる。どうしてこんなに胸が苦しくなるのだろう。
胸元を押さえる。心臓が速い。顔が熱い。
私は、この感情を知っている。知っているはずだった。
ミスターXさん。
あの人に初めて会ったときから、ずっとそうだった。冷たいように見えて、本当は誰かを守っている。誰にも媚びない。自分の信念を曲げない。危険なときでも怯えない。あの人の戦いぶりを見て、一瞬で恋に落ちた。
言葉も。仕草も。その背中も。全部がカッコよかった。そして、その感情が恋なのだと知った。その気持ちは、今も変わっていない。
なのに……。
「……エリオットも、好き」
口にした瞬間、自分で自分の言葉に驚いた。鏡の中の自分が、信じられないものを見るような顔をしている。
違う。
そんなはずはない。私はミスターXさんが好きなのだ。それなのに、どうしてエリオットを見ると胸が苦しくなるの?
ミスターXさんと同じように、守ってもらえたから? こんなにすぐ、別の人を好きなるなんて。そんなのはしたない。
「私、最低だ」
ミスターXさんが好きなのに。エリオットにも惹かれている。2人とも好きだなんて。でも、ミスターXさんへの気持ちが嘘じゃないように、エリオットへの気持ちも嘘にはできない。
だからこそ、自分が嫌になる。ひどく欲張りに思えた。
ミスターXさんだけを好きでいればいい。そうすれば、こんなに悩む必要もない。エリオットへの気持ちは、勘違いだと思えばいい。
エリオットに助けてもらったから。
エリオットが怪我をしてしまったから。
エリオットに対して罪悪感を抱いているから。
きっと、そのせいで一時的に気持ちが揺れているだけ。
そう思おうとする。けれど、心の中では分かっていた。これは、罪悪感だけではない。エリオットのことを考えると止まらなくなる。話しかけられると嬉しい。名前を呼ばれるだけでも、胸が高鳴る。
すぐに会いたいと思う。もっと近くにいたいと思う。
「……どうしよう」
鏡に映る自分へ問いかける。洗面台の前で、しばらく動けなかった。2人への恋心を抱えたまま、私はどうすればいいのか分からなくなった。
●エリオット視点(図書室)
放課後、俺はジェニーと合流する前に図書室へ向かうことにした。学院について調べておきたいことがあるからだ。特に気になっているのは、学院の地下に関する情報だった。この真下には、巨大な魔力を生み出す何かがあるはずだ。事前に情報を掴むのは潜入捜査を行う上で欠かせない。もちろん、俺がミスターXとして活動していることや、地下から魔力を感じ取ったことを誰かに話すつもりはない。
アストリオン魔法皇国学院の図書室はかなり広かった。高い天井まで届く本棚が何列も並び、その中には比較的新しい本だけではなく、表紙が擦り切れた古い本や、紙そのものが変色した古文書まで収められている。魔法学、歴史、錬金術、医学、魔物、古代文明、地理、皇国史など、学生向けの教本だけではなく、研究者向けと思われる専門書まで揃っていた。学院そのものが古いのだから、これだけの資料が残されているのも不思議ではない。
俺は学院の歴史や、この土地に関係する本が並んでいる棚を探しながら、図書室の奥へ進んだ。その途中だった。
「ガタッ」
音がした。
少し離れた本棚の前で、白い髪の少女が1人、高い脚立の上に立っていた。学院の制服を着ている。少女は本棚のかなり高い位置にある本へ手を伸ばしていた。指先が背表紙に触れている。あと少しで届きそうだった。その瞬間、脚立の片方の脚が床の上で滑って、まさに倒れようとしている。
「……あ」
少女の身体が傾く。脚立が横へ倒れていく。そのまま少女も床へ落ちてくる。俺は考えるより先に走っていた。床を蹴り、落下してきた少女の身体を両腕で受け止める。ふわりと白い髪が舞った。細い身体が腕の中へ収まる。
少女は何も言わなかった。ただ、俺の顔をじっと見ている。
「怪我は?」
「……ない」
「そうか。ならいい」
俺は少女を床へ下ろそうとした。その瞬間だった。少女の両腕が、俺の首へ回った。
「……?」
ぎゅっ、と抱きつかれる。
「……何をしている?」
「エリオット」
なぜ俺の名前を……。
その瞬間、俺の中で古い記憶が蘇った。白い髪。淡々とした喋り方。人の話を聞いているようで、半分くらいしか聞いていないような目。
「……アガサ?」
「うん」
アガサ・ベアトリーヌ。
幼い頃の俺がよく一緒に遊んでいた少女だ。家が近く、親同士も付き合いがあった。子供の頃は何度も顔を合わせていた。近所の空き地で本を読んでいるアガサに、俺が話しかけたのが最初の出会いだった。
まさか、こんな場所で再会するとは思わなかった。
「久しぶりだな」
「久しぶり」
「元気そうで何よりだ」
「エリオットも」
再会した幼馴染との感動的な場面。普通ならもっと喜んでもいいのだろう。だが、ハードボイルドな男は感情を大げさに表へ出さない。
「またハードボイルド?」
「またとはなんだ」
「エリオット、成長してない……」
失礼な奴だ。俺は生涯ハードボイルド一筋だ。というか、こいつはいつまで俺の体にくっついていやがる。
「そろそろ離れたらどうだ?」
「嫌」
即答だった。まあ、久しぶりの再会だ。少しくらいなら仕方がない。そう思っていたら、アガサが俺の顔をじっと見つめる。
「……?」
そして、そのまま顔を近づけてくる。
ちゅっ。
頬に柔らかな感触が触れた。俺は固まった。アガサは何事もなかったような顔で俺を見ている。
「……何をした?」
「キス。久しぶりだから」
俺がどう反応すべきか考えていると「ドサッ」という音がした。
振り向く。ジェニーが尻もちをついていた。ジェニーは座ったまま、俺とアガサを交互に見ている。視線の動きが忙しい。
「あ、あはは……。ごめん。ちょっと足が滑っただけだから」
「そうか。怪我は?」
「大丈夫……」
立ち上がったジェニーは服についた埃を払い、それから俺を見る。
俺もアガサを下ろす。
「その人は……、誰?」
声は普通だった。だが、どこか硬い。
「アガサ・ベアトリーヌ。俺の幼馴染だ」
「幼馴染……。幼馴染ってことは、小さい頃からの知り合いなんだ」
「ああ。10歳くらいでアガサが引っ越すまではよく遊んでたな」
「へえ……。そうなんだ、へえ」
ジェニーは顔を引きつらせて笑った。目が笑っていない。何かを確認したいらしい。だが、俺にはその目的が分からない。
ジェニーがアガサを見る。アガサもジェニーを見ている。2人の視線がぶつかった。
とりあえず、ジェニーのことも紹介しておくか。
「アガサ、こちらジェニー・ロス。俺と一緒に編入してきた友人だ」
「そう。一緒に……」
アガサはそれ以上何も言わなかった。
「…………」
「…………」
「…………」
何だ、この沈黙は。
ひとまず俺は、座って話そうと提案した。




