第6話「見えない傷跡」
『歪み』を喰らう頻度は、日増しに増えていた。
『物語詩』の綻びは、もはや繕いきれないほどに広がっているのかもしれない。
その代償として、セレフィアの体は静かに、しかし確実にむしばまれていた。
時折、胸を突き上げるような激しい咳に襲われる。
視界が白み、立っていられなくなるほどのめまい。
そして、常に全身を覆う、魂がすり減っていくような倦怠感。
彼女は、その苦痛を誰にも見せることなく、完璧な公爵令嬢としての日々を送っていた。
侍女たちの前でも、学園でも、決して弱みは見せない。
そんな彼女の唯一の心の拠り所は、自室で密かに飼っている小さな聖獣の使い魔ノワの存在だった。
ノワは、夜のように黒く、ふわふわの毛玉に大きな瑠璃色の瞳を持つ、手のひらサイズの生き物だ。
聖獣といっても、特別な力はなく、ただセレフィアに懐いているだけのかわいい同居人。
「ノワ……」
部屋に戻り、ベッドに倒れ込むように身を横たえると、隠れていた戸棚からノワがぴょこんと顔を出した。
そして、てちてちとセレフィアの枕元までやってくると、心配そうに鳴いて、彼女の頬にすり寄ってきた。
その温かい感触だけが、セレフィアの心を慰めてくれる。
「大丈夫よ、ノワ。少し、疲れただけ……」
そう言ってノワの体をなでていると、不意に激しい咳が込み上げてきた。
「ごほっ、ごほっ……! はぁ……っ」
息が苦しい。
胸が痛い。
セレフィアが咳き込んでいると、ノワが慌てたように彼女の顔を優しく舐めた。
その小さな優しさに、思わず涙がにじむ。
『こんな体で、最後まで役目を果たせるのかしら……』
弱音が、心の隙間から漏れ出しそうになる。
彼女はそれを押し殺すように、ぎゅっと目を閉じた。
◆ ◆ ◆
翌日、学園から帰宅したセレフィアを、侍女が少し困ったような顔で出迎えた。
「お嬢様、本日、アシュヴァール騎士団長様より、お見舞いの品が届いておりますが……」
「お見舞い?」
セレフィアが不審に思い眉を寄せると、侍女は小さな木箱を差し出した。
中に入っていたのは、数種類の乾燥したハーブがブレンドされた、美しい茶葉だった。
添えられたカードには、ただ一言、安らかな眠りをとだけ書かれていた。
「……受け取れないと、お断りなさい」
「それが……団長様が、『これは騎士団からクライスハルト公爵家への日頃の感謝の品であり、令嬢個人への贈り物ではない。受け取らねば角が立つ』と……」
『あの男……どこまでも抜け目がない』
セレフィアは、ため息をついた。
公爵家への贈り物という形をとられては、むげに断ることもできない。
◆ ◆ ◆
その夜、セレフィアは侍女に淹れさせたハーブティーを、半信半疑で口にした。
カモミールとラベンダーの優しい香りが、ふわりと鼻腔をくすぐる。
一口飲むと、温かい液体が、ささくれだった神経を穏やかに解きほぐしていくような感覚があった。
そして、そのお茶には、ただのリラックス効果だけではない、不思議な力が宿っていることにセレフィアは気づいた。
飲んだ後、あれほど重かった体が、少しだけ軽くなっている。
胸の痛みも、和らいでいる。
『まさか……治癒効果……?』
それも、ただの薬草ではない。
高位の神官か、あるいは王宮薬剤師でなければ調合できないレベルの、極めて希少な聖属性のハーブが使われている。
『どうして、彼がこんなものを……』
彼は、気づいているのだ。
自分が、日に日に弱っていることに。
見えない傷を負い、苦しんでいることに。
そして、それを誰にも言えずにいることも。
セレフィアは、空になったティーカップを、両手でそっと包み込んだ。
カップに残る温もりが、まるで彼の優しさそのものであるかのように感じられて、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
彼は、共犯者になると言った。
それは、言葉だけではなかった。
彼は、セレフィアの戦いを、その苦しみごと、本当に分かち合おうとしてくれている。
その事実に、喜びよりも先に、恐怖が湧き上がってきた。
この優しさを知ってしまったら、もう、一人ではいられなくなる。
この温もりに慣れてしまったら、破滅へと向かう足が、鈍ってしまうかもしれない。
『私は、悪役令嬢でなければならないのに……』
セレフィアは、ティーカップを置くと、窓の外の月を見上げた。
欠けていく月が、まるで自分の運命を暗示しているかのようだった。
彼の優しさは、暗闇を歩く彼女にとって、あまりにもまぶしすぎる光だった。




