第4話「彼の言葉、私の亀裂」
数日が過ぎても、ゼノンがセレフィアに接触してくることはなかった。
彼は何も見なかったかのように、普段通り騎士団長の職務をこなし、学園の警備巡回を行っている。
その沈黙が、セレフィアにとってはむしろ不気味だった。
嵐の前の静けさのように、彼女の心をじわじわと締め付けていく。
その日、セレフィアは学園の広大な図書館の、最も奥まった書架の陰で本を読んでいた。
古い歴史書が並ぶ、滅多に人の寄り付かない場所。
ここだけが、彼女が束の間、悪役令嬢の仮面を外して息をつける場所だった。
『この世界の成り立ち……物語詩の起源……何か手がかりは……』
彼女は、自らの宿命に関する情報を求めて、文献を漁っていた。
何故、自分だけが『物語喰い』の力を持つのか。
この世界は、いつまで『物語詩』に縛られ続けなければならないのか。
答えは見つからない。
不意に、すぐ近くで足音がした。
セレフィアははっとして顔を上げ、完璧な令嬢の表情を取り繕う。
そこに立っていたのは、やはりというべきか、ゼノン・アシュヴァールだった。
「こんな場所にいたのか。少し、話がしたい」
彼は、周囲をうかがうように声を潜めて言った。
セレフィアは本を閉じ、冷ややかに彼を見上げる。
「騎士団長様が、わたくしのような者に一体何のご用ですの? ここがどこかお分かり? ここは、わたくしのお気に入りの場所。あなたの様な方が踏み込んでいい場所ではございませんわ」
棘のある言葉。
しかし、ゼノンは少しもひるまなかった。
彼はセレフィアの隣の書架に背を預けると、真っ直ぐに彼女の目を見て言った。
「先日の森での一件。あれからずっと考えていた。君が一体、何と戦っているのかを。俺にはそうは見えない。君は常に何かを警戒し、何かからこの世界を守ろうとしているように見える。夜会の時も、中庭の時も、そして、この前の森でも。君はいつも、リリアナ嬢が危険に陥るのを、まるで未来を予知しているかのように防いでいる。そしてその度に、君自身が傷ついている。君のその行動は、悪役令嬢を演じている、というにはあまりに合理的で、自己犠牲的すぎる」
彼の言葉の一つ一つが、セレフィアの心の壁を叩く。
『やめて……』
ゼノンは一歩、セレフィアに近づいた。
逃げ場のない書架の隅で、セレフィアは思わず後ずさる。
「教えてくれ、セレフィア嬢。君は一体、何と戦っているんだ」
その声は、詰問ではなく、懇願に近かった。
君の苦しみを、理解したいのだと。
その瞳が、雄弁に語っていた。
セレフィアの喉が、カラカラに乾く。
完璧だったはずの仮面に、ピシリ、と大きな亀裂が入る音がした。
『この人にだけは、知られてはいけない』
彼は、物語の登場人物。
彼が私に関わることは、筋書きからの最大の逸脱だ。
それは、世界に新たな『歪み』を生むことにつながる。
それだけは、絶対に避けなければ。
「……あなたには、関係のないことですわ」
絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
「わたくしは、わたくしの望むままに行動しているだけ。そこに、あなたの入り込む余地などない」
「関係ないことなどない。君が傷ついているのを、黙って見ていることなど俺にはできない。理由が分からないのなら、分かるまで君を見守り続ける。君が何者で、何をしようとしているのか、この目で見届けるまで」
ゼノンは、セレフィアの言葉を即座に否定した。
それは、宣言だった。
セレフィアの孤独な戦いに、無理矢理にでも介入するという、彼の揺るぎない決意の表明。
セレフィアは、返す言葉を失った。
突き放しても、罵っても、この男は引かないだろう。
彼の瞳がそれを物語っていた。
初めて現れた、理解者。
それは、彼女が心のどこかでずっと求め続けていた存在かもしれない。
しかし、その存在は、彼女の使命にとって最大の障害だった。
「お好きになさいませ」
セレフィアは、それだけを言い捨てると、ゼノンの横をすり抜けてその場を走り去った。
残されたゼノンは、彼女が去っていった方向をじっと見つめていた。
彼の表情は硬く、しかしその奥には、確かな決意の光が宿っていた。
図書館の廊下を走りながら、セレフィアは必死に涙をこらえていた。
鉄のように固めたはずの心が、彼の言葉一つで、いともたやすく揺さぶられてしまう。
『どうして、あなたなの……』
硝子細工の仮面に入った亀裂は、もう決して元には戻らない。
そこから漏れ出す本当の感情を、彼女はもはや、押し殺すことができなくなりつつあった。




