第3話「最初の綻びと観測者」
王立魔導学園には、座学だけでなく実践的な訓練もカリキュラムに含まれている。
その日は、学園の裏に広がる広大な演習林での魔物討伐実習だった。
生徒たちは数人の班に分かれ、教官の指導のもと、比較的安全な領域に生息するゴブリンやワイルドボアといった魔物を討伐していく。
もちろん、セレフィアは孤立していた。
貴族の令嬢たちは彼女を遠巻きにし、誰も班に誘おうとはしない。
結局、教官の采配で、余り者同士で組まされた地味な男子生徒二人と、三人一組の班になった。
『好都合だわ。一人のほうが動きやすい』
セレフィアは、誰にも気づかれぬよう、常に周囲の『歪み』に意識を巡らせていた。
実習が始まってからというもの、森のあちこちで小さな綻びが生まれては消えていくのを感じる。
それはまるで、古くなった布地が、限界を迎えてあちこちから裂けていくような感覚だった。
「ク、クライスハルト様、あちらにゴブリンの群れが……」
班の男子生徒が、震える声で指さす。
セレフィアはそちらを一瞥し、ため息交じりに言った。
「あなたたちはここで待っていなさい。わたくしが片付けてまいりますわ」
「え、しかし……!」
戸惑う男子生徒を、冷たく言い放って切り捨てる。
「足手まといです」
孤立を深めるように言い捨て、セレフィアは一人で森の奥へと進んでいく。
もちろん、これも悪役令嬢としての振る舞いだ。
協調性がなく、傲慢。
そう思われることが、物語を正しく進める。
彼女の本当の目的は、ゴブリンの群れではなかった。
そのさらに奥、森の中心部から感じる、これまでとは比較にならないほど強大な『歪み』の気配。
本来の物語では、この実習は何事もなく終わるはずだった。
明らかに、何かがおかしい。
森の奥深く、開けた場所にたどり着いたセレフィアは、その光景に息を飲んだ。
そこにいたのは、一体の巨大なオークだった。
通常のオークの倍はあろうかという巨体に、血走った目が不気味に輝いている。
そして、その全身からは、黒いもやのような『歪み』が立ち上っていた。
物語の筋書きから逸脱し、異常進化した個体だ。
「グルオオオオォォッ!」
オークがセレフィアの存在に気づき、咆哮を上げながら突進してくる。
その凄まじい突風に、周囲の木々がざわめいた。
『喰らうしかない……!』
セレフィアはドレスの裾を翻し、迫りくるオークから身をかわす。
そして、そのすれ違いざまに、オークの体から立ち上る『歪み』に意識を集中させた。
『喰らいなさい!』
影がうごめき、黒いもやを凄まじい勢いで吸い込んでいく。
しかし、今回の『歪み』はあまりにも大きい。
すべてを喰らいきる前に、オークが再び体勢を立て直し、巨大な棍棒を振り下ろしてきた。
地面がえぐれるほどの衝撃。
セレフィアは紙一重でそれを避けるが、衝撃波で体がよろめく。
『くっ……まだ、足りない……!』
『歪み』を喰らう行為は、彼女の魔力と生命力を著しく消耗させる。
すでに、視界がかすみ始めていた。
それでも、彼女は足を止めない。
このオークを野放しにすれば、他の生徒たちが危険にさらされる。
何度も、何度も、攻撃をかいくぐりながら、少しずつ『歪み』を喰らい続ける。
オークの動きが徐々に鈍り、その巨体から黒いもやが消え始めた頃、セレフィアの体も限界に達していた。
「ガ……ア……?」
正気を取り戻したオークは、目の前の小さな少女におびえたように後ずさり、やがて森の奥へと逃げていった。
静寂が戻る。
セレフィアは、その場に膝から崩れ落ちた。
「はぁ……っ、はぁ……」
全身から力が抜け、指一本動かせない。
魔力の枯渇と、魂を削るような疲労感。
意識が、ゆっくりと闇に沈んでいく。
『ああ……少し、休みましょう……』
薄れゆく意識の中、誰かが自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。
力強い、腕に抱きかかえられる感触。
それが、彼女の最後の記憶だった。
◆ ◆ ◆
「……令嬢! しっかりしろ!」
肩を揺さぶられ、セレフィアはゆっくりとまぶたを開いた。
最初に目に飛び込んできたのは、見慣れない木の天井と、心配そうに自分を覗き込む黒い瞳だった。
「……ゼノン……様……?」
「気がついたか。ここは森の管理官の詰め所だ」
体を起こそうとすると、ゼノンがそっとその肩を支えた。
「無茶をするな。ひどい魔力欠乏だ。一体、何があった」
セレフィアは、ぼんやりとした頭で状況を整理しようとした。
どうやら、倒れた自分をゼノンが見つけ、ここまで運んでくれたらしい。
「……何のことか、分かりませんわ。少し、めまいがしただけです」
しらばっくれようとする彼女に、ゼノンは静かに首を振った。
「嘘をつけ。俺は見たんだ。君が、あの巨大なオークとたった一人で対峙しているところを。君が何かをするたびに、オークを包んでいた不気味なオーラが消えていくのを」
彼の言葉に、セレフィアの心臓が凍りつく。
「君は魔法を使ったわけじゃない。剣を振るったわけでもない。だというのに、あの凶暴な魔物はおとなしくなり、逃げていった。……クライスハルト令嬢。君はいったい、何者なんだ?」
その問いは、刃のように鋭く、セレフィアの隠していた秘密の核心を突いていた。
もう、誤魔化しはきかない。
この男は、彼女の力の片鱗を、はっきりと目撃してしまったのだから。
セレフィアは、ゼノンの真っ直ぐな視線から逃れるように顔を伏せた。
仮面の下で、唇が小さく震える。
初めてだった。
自分の戦いを、誰かに目撃されたのは。
そして、その正体を問われたのは。
彼女の沈黙を、ゼノンは肯定と受け取ったようだった。
彼はそれ以上何も言わず、ただ静かに、セレフィアの隣に座り続けた。
その沈黙が、どんな言葉よりも雄弁に、彼女の心をかき乱していくのだった。




