第2話「硝子細工の仮面」
王立魔導学園の中庭は、昼下がりの柔らかな陽光に満ち、生徒たちの穏やかな談笑が響いていた。
噴水の水音が、きらきらと光を反射して心地よい。
そんな平和な光景とは裏腹に、セレフィアの心は静かな緊張に包まれていた。
『次のイベントは、リリアナの教科書が噴水に落ちる、だったかしら』
もちろん、犯人は悪役令嬢である自分、ということになっている。
セレフィアは木陰のベンチに座り、分厚い魔導書を読みながら、物語の進行を待っていた。
彼女が演じるべきは、嫉妬に狂った愚かな令嬢。
しかし、その行動の真意は、いつも通り『歪み』の修正だ。
昨夜の夜会以降、世界の綻びは頻度を増している気がする。
まるで、物語が自らの結末を急ぐかのように。
「まあ、ご覧になって。またあの方、一人でいらっしゃるわ」
遠巻きに聞こえてくる令嬢たちのひそひそ話に、別の令嬢も同調する。
「夜会であんなことをなさったのだもの。当然ですわ」
そんなささやき声は、彼女の心を少しも揺らさなかった。
孤立は、悪役令嬢にとって勲章のようなもの。
むしろ、心地よいとさえ思える。
『けれど……』
セレフィアの脳裏に、昨夜の黒髪の騎士の顔がよぎる。
『あなたの顔色が、少し優れないように見受けられる』
あの言葉。
誰もが見て見ぬふりをする、あるいは気づきもしない、彼女の仮面の下を覗き込もうとするような、あの真っ直ぐな瞳。
ゼノン・アシュヴァール。
平民出身でありながら、異例の速さで騎士団長の地位に就いた実力者。
本来の物語では、クールで誰にも心を開かないキャラクターだったはずだ。
『彼が、私に関心を持つなんて筋書きはなかったはずだけど……』
これもまた、小さな歪みなのだろうか。
考えているうちに、視界の端に目的の人物が入ってきた。
リリアナが、数人の友人と共に噴水のそばを歩いている。
その腕には、数冊の教科書が抱えられていた。
『来たわね』
セレフィアは本を閉じ、静かに立ち上がった。
まるで、獲物を見つけた肉食獣のように、優雅に、しかし確かな目的を持って歩き出す。
リリアナの友人たちが、セレフィアの存在に気づき、おびえたように道を空けた。
リリアナもまた、セレフィアの姿を認め、緊張に体を硬くする。
「ごきげんよう、ミストさん」
セレフィアは、わざと見下すような冷たい声色で言った。
「あなたのような方が、この高貴な学び舎にいること自体、わたくしには理解に苦しむのだけれど」
教科書通りの、悪役令嬢の台詞。
周囲の生徒たちが息を飲むのが分かる。
リリアナは、何かを言い返そうとして、しかし言葉に詰まりうつむいてしまった。
『さあ、筋書き通りに』
セレフィアはリリアナの腕に抱えられた教科書に手を伸ばした。
それを叩き落とし、噴水に落ちたそれをあざ笑う。
それが彼女の役目。
しかし、指が教科書に触れる寸前、セレフィアは感じ取った。
リリアナの足元、その一点に、昨夜よりも濃く、昏い『歪み』が渦巻いているのを。
それは、教科書を落とすどころか、リリアナ自身を引きずり込みかねないほどの力を持っていた。
『まずい……!』
セレフィアはとっさに判断を変えた。
彼女は教科書を叩き落とすのではなく、強くつかみ、自分の方へと引き寄せた。
「きゃっ!」
バランスを崩したリリアナが、その場にへたり込む。
セレフィアの手には、彼女の教科書が残った。
「こんなものに頼っているから、いつまで経っても三流なのですわ」
セレフィアはそう言い放つと、教科書を噴水とは逆の方向、近くの芝生へと放り投げた。
そして、リリアナの中に渦巻いていた『歪み』を、誰にも気づかれぬよう、一瞬で喰らった。
ズキリ、と心臓が痛む。
ガラスの破片を飲み込んだような痛みが、喉の奥から這い上がってくる。
周囲の生徒たちには、セレフィアがリリアナから教科書を奪い、地面に投げ捨てたようにしか見えなかっただろう。
これもまた、立派な嫌がらせだ。
「なんてことを……!」
周囲の生徒たちから非難の声が飛ぶ。
さらに別の声が重なる。
「ひどいわ、セレフィア様!」
リリアナは、涙目で投げ捨てられた自分の教科書を見つめていた。
『これでいい。これで、筋書きは守られた』
セレフィアは背を向け、その場を去ろうとした。
その時だった。
「見事な身のこなしでしたな、クライスハルト令嬢。今の一連の動き。教科書を奪い、投げる。そのすべての動作に一切の無駄がなかった。まるで、何かからあのヒロイン……リリアナ嬢をかばうかのような、素早い動きにさえ見えた。あなたはなぜ、教科書を噴水に落とさなかったのですか? そちらの方が、より悪意のある行為に見えたでしょうに」
声の主は、いつからそこにいたのか、中庭の木に寄りかかって腕を組んでいたゼノン・アシュヴァールだった。
彼は、今日の警備巡回中だったらしい。
彼の言葉は、非難でも擁護でもなく、ただ淡々とした事実の指摘のようだった。
ゼノンの黒い瞳が、セレフィアを射抜く。
セレフィアは足を止め、ゆっくりと振り返った。
硝子細工の仮面が、完璧な笑みを形作る。
「何を馬鹿なことをおっしゃるの、騎士団長。わたくしはただ、気に入らないものを投げ捨てただけ。どこに投げるかなんて、その時の気分次第ですわ」
「気分、ですか」
ゼノンは木から背を離し、ゆっくりとセレフィアに近づいてくる。
一歩、また一歩と縮まる距離に、彼女の心臓が警鐘を鳴らした。
この男は危険だ。
私の仮面を、いともたやすく剥がそうとしてくる。
「俺にはそうは見えなかった。あなたは、まるでリリアナ嬢の足元にある何かを避けるように、彼女ごと自分の方へ引き寄せた。そして、教科書を安全な場所に投げた。違うか?」
『……気づいている。この男、私の行動の意図に、ほとんど気づいている』
セレフィアは、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
しかし、ここで認めるわけにはいかない。
「憶測でものを言うのはおやめなさい。不敬ですわよ」
「では、もう一つ。先程あなたが教科書を投げ捨てた後、一瞬、顔をしかめましたね。まるで、ひどい痛みに耐えるように。昨夜の夜会でもそうだった。あなたは、何かをするたびに、見えない傷を負っているのではないか?」
その言葉は、セレフィアの胸の奥深くに突き刺さった。
見えない傷。
まさにその通りだった。
『歪み』を喰らうたびに、彼女の魂は少しずつ削られていく。
誰にも言えない、誰にも気づかれないはずの痛みを、この男は正確に言い当ててみせた。
セレフィアは、初めて言葉に詰まった。
どんな反論も、彼の前ではむなしく響くだろう。
彼女が黙り込んだのを見て、ゼノンはふっと息をついた。
その表情は、先程までの追及の色とは違い、どこか憂いを帯びていた。
「……すまない。詮索が過ぎたようだ」
彼はそれだけ言うと、セレフィアの横を通り過ぎ、芝生に落ちた教科書を拾い上げた。
そして、それをリリアナの元へと届け、彼女を慰める言葉をかけている。
その光景は、まさに物語のワンシーンのようだった。
ヒロインを助ける、格好いい騎士様。
セレフィアは、逃げるようにその場を後にした。
背中に突き刺さるゼノンの視線を感じながら。
◆ ◆ ◆
自室に戻ったセレフィアは、ベッドに倒れ込んだ。
硝子細工のように完璧だったはずの仮面に、知らぬ間に走っていた亀裂。
そこから、今まで閉じ込めていたはずの孤独という感情が、冷たい風のように吹き込んでくる気がした。




