第10話「世界のためのアンチテーゼ」
「アシュヴァール団長……! 何のつもりだ、そこをどけ!」
予期せぬ乱入者に、アレクシスが苛立ちを露わにして叫ぶ。
しかし、ゼノンは微動だにしなかった。
彼はアレクシスに一瞥もくれず、背後にいるセレフィアにだけ聞こえるように、静かにささやいた。
「遅くなって、すまない」
その一言に、セレフィアの堪えていた感情が、決壊しそうになった。
『違う……あなたは、来ちゃいけなかった……!』
「聞こえなかったのか、ゼノン! これは王族の決定だぞ! お前が口を挟むことではない!」
アレクシスの怒声に、ゼノンはゆっくりと振り返った。
その瞳は、もはや王子への敬意など欠片も浮かんでいなかった。
「殿下。あなた方は、大きな勘違いをされている」
「何だと?」
「彼女、セレフィア・クライスハルトは、決してあなた方が言うような悪女ではない。むしろ、その逆だ。夜会で彼女がリリアナ嬢に手を伸ばしたのは、突き飛ばすためではない。床に走った原因不明の亀裂から、彼女をかばうためだった。中庭で教科書を奪ったのは、リリアナ嬢の足元に迫っていた危険から、彼女を引き離すため。そして、ティーパーティーで彼女が悪役を演じたのは、リリアナ嬢を狙う他の令嬢たちの悪意から、彼女を守るためだった!」
ゼノンの言葉は、真実だった。
セレフィアだけが知るはずの、真実だった。
『どうして……あなたが、それを……』
セレフィアが驚愕に見開いた目で彼を見つめると、ゼノンは一瞬だけ彼女を振り返り、安心させるように小さくうなずいた。
「俺は、ずっと君を見てきたからな」
その言葉に、セレフィアはもう、何も言えなかった。
アレクシスは、ゼノンの突拍子もない主張に、混乱していた。
「何を……何を言っているのだ、お前は! 証拠でもあるのか!」
「証拠なら、ここにあります。俺のこの目が、ずっと彼女の真実の姿を追い続けてきました。それが、何よりの証拠です」
「ふざけるな! そんなもの、証拠になるものか!」
アレクシスは、もはや聞く耳を持たなかった。
彼は衛兵に命じる。
「者共、アシュヴァール団長を捕らえよ! 王命への反逆罪だ!」
数人の衛兵が、戸惑いながらもゼノンを取り囲もうとする。
だが、ゼノンは動じなかった。
彼は、最後の切り札を切る。
「殿下、それでも彼女を断罪するというのであれば、一つ、申し上げねばならないことがあります。彼女がこれまで行ってきたとされる罪。そのすべては、この俺が、彼女に指示したものです。彼女は、ただ俺の命令に従っただけ。ですから、罰を受けるべきは、彼女ではない。この俺です。彼女の罪は、俺がすべて引き受けよう。どうか、彼女だけは、お許しいただきたい」
その衝撃的な告白に、広間は水を打ったように静まり返った。
セレフィアも、アレクシスも、リリアナも、その場にいた誰もが、信じられないという顔でゼノンを見ていた。
ゼノンは、自分の剣を抜き、柄を逆さにして床に置いた。
それは、騎士が降伏と、裁きを受け入れる意志を示す作法だった。
彼は、その場で膝をつき、深く頭を垂れた。
セレフィアは、目の前の光景が信じられなかった。
彼は、自分の全てを投げ打って、彼女を救おうとしている。
自分の未来も、名誉も、命さえも。
その行為が、どれほど愚かで、どれほど無謀で、そして、どれほど愛おしいものか。
彼女は、もう悪役令嬢の仮面を保つことなどできなかった。
涙が、後から後から溢れてくる。
そして、その時だった。
ミシリ、と、世界が軋む音がした。
ゼノンの自己犠牲的な行動。
それは、『物語詩』に書かれていた結末であるセレフィアの破滅を、根底から覆す、最大のアンチテーゼだった。
筋書きから完全に逸脱した世界は、その存在を維持できなくなったのだ。
天井のシャンデリアが、不気味に揺れ始める。
壁に、床に、空間そのものに、黒い亀裂が走り始めた。
「きゃあああっ!」
悲鳴が上がる。
貴族たちが、パニックに陥り、出口へと殺到する。
「な、何だ! 何が起きているのだ!」
アレクシスが狼狽する中、セレフィアだけが、事の真相を理解していた。
『ダメ……ゼノンのせいで……物語が、壊れていく……!』
彼の優しさが、彼の愛が、皮肉にも、この世界の崩壊の引き金を引いてしまったのだ。
セレフィアは、膝をついたままのゼノンの元へ、ふらつく足で駆け寄った。
「ゼノン……! あなたの、せいですわ……!」
涙ながらのその言葉は、非難ではなかった。
感謝と、そして絶望が入り混じった、悲痛な叫びだった。
世界が奏でる崩壊のセレナーデの中、二人はただ、お互いを見つめ合うことしかできなかった。




