第97話 明るい子は、匿名のやさしさを認めながらも少し悔しい
夢咲ことねは、自分が少しだけ悔しいと思っていることを、ちゃんと自覚していた。
しかも、その悔しさはあまり大きな音を立てない種類のものだった。
文化祭の時みたいに、分かりやすく焦るわけじゃない。
誰かに先を越された、と露骨に思うわけでもない。
ただ、ふとした拍子に胸の奥へ引っかかる。
――“楽しそうでよかったです”。
たったそれだけの一文が、未だに黒峰恒一の中へ残っていることが、少し悔しい。
その言葉が優しいことは分かる。
押しつけていないことも分かる。
むしろ、ちゃんと認めたいとさえ思う。
でも、認めたい気持ちと、悔しい気持ちは、きれいに別々にはならない。
朝のホームルーム前、ことねは自分の席でシャープペンをくるくる回しながら、小さく息を吐いた。
「……やだなあ」
その声は自分に向けたものだったが、案の定すぐ拾われた。
「何が?」
隣の列から、火乃森朱莉が聞いてくる。
「え、聞こえてた?」
「聞こえてた。というか、ことね先輩、考え込んでる時わりと声漏れるよ」
「うわ、それやだ」
ことねは苦笑してから、少しだけ机へ頬杖をついた。
「なんかさ、最近ちょっとだけ、自分でも面倒くさいなって」
「それはいつもでは」
通路側から凛の声が飛んでくる。
「朝霧さん、それ今日いきなり刺してくるじゃん」
「事実だから」
「その返しほんと便利に使うよね!」
小さく笑いが起きる。
でも、ことねの中身はまだ軽くならない。
朱莉がことねの顔を少し見て、声を落とした。
「……匿名の人のこと?」
ことねは一瞬だけ目を丸くして、それから少し困ったように笑った。
「ほんとに最近、みんな分かるね」
「文化祭で鍛えられたんでしょ」
凛が言う。
「便利な言葉だなあ、それ」
「便利だから」
「うわ、また言った」
ことねは一度笑って、それから少しだけ真面目な顔になった。
「うん。匿名の人のこと」
「何が引っかかってるの?」
朱莉が聞く。
ことねは、少しだけ言葉を選ぶ。
「……認めたいんだよね」
「うん」
「やさしいし。ちゃんと見てるし。しかも、押してこないし」
そこで一拍置く。
「だから余計に悔しい」
前の席の空気が、少しだけ静かになった。
「悔しい、か」
凛が繰り返す。
「うん」
ことねは自分でも少し笑ってしまう。
「嫌いなら簡単なんだよ。うわ、なんか勝手に気持ち押しつけてきてる、って思えたら、むしろ腹立つだけで済むし」
「まあ、それはそう」
朱莉が頷く。
「でも、あの人はそうじゃないんだよね」
「そう」
ことねは静かに言った。
「黒峰くんに“ちゃんと楽しかったならよかった”って言ってる感じがするから、責められないし、むしろ……ありがとうって気持ちすら少しある」
「で、その“ありがとう”があるぶん、余計に複雑になる」
凛が淡々と整理した。
「朝霧さん、今日ほんと整理うまいね」
「昨日からずっとそう言ってるけど」
「だってほんとなんだもん」
ことねはペンを持ち直す。
「なんかもう、“正体を知りたい”っていうより、“そのやさしさで黒峰くんの中に残られるのが悔しい”って感じ」
そこまで言って、自分で少しだけ照れる。
「うわ。今のかなりやだ」
「何が」
朱莉が笑う。
「すごく本音っぽい」
「本音だよ!」
ことねは小さく机を叩いた。
「でも本音だから余計やなんだよ」
◇
昼休みになると、また自然に前方の席へ人が集まった。
しおんも、少し遅れてやってくる。
恒一も何となく前に来て、いつものように席へ座る。
最近はもう、この流れ自体に誰も驚かない。
「何の話してたんだ?」
恒一が聞くと、ことねは反射で「別に」と言いかけて、少しだけ止まった。
それを凛が見逃さない。
「夢咲さんが、匿名の人のやさしさを認めたいけど、そのぶん少し悔しいって話」
「ちょっと待って朝霧さん!?」
ことねが本気で振り向く。
「なんでそんな綺麗に要約して本人の前で出すの!」
「いや、今の流れだと変に隠すほうが不自然でしょ」
「不自然でも隠したい時あるの!」
前方に笑いが起きる。
恒一は少しだけ困ったような顔をした。
「……悔しいのか」
「その“悔しいのか”やめて」
ことねは机に額をつけそうな勢いで言った。
「今の、本人に言われるとかなり効くから」
「いや、でも」
「でもじゃない!」
朱莉が笑いをこらえながら言う。
「ことね先輩、さっき自分で“本音だよ”って言ってたじゃん」
「言ったけど!」
「じゃあもう少し落ち着いて受け止めたら?」
「火乃森さんまで冷静なんだよなあ……」
ことねは顔を上げて、改めて恒一を見る。
「うん。悔しい」
今度は、もう少し静かに言った。
「でも、それって匿名の人が嫌いとかじゃなくて」
「うん」
「むしろ、ちゃんと優しいなって思ってるからこそなんだよ」
恒一は、すぐには返事をしなかった。
その代わり、少しだけ真面目な顔で聞いている。
その聞き方が、ことねには少しだけずるかった。
「……なんていうかさ」
ことねはストローを持ったまま、小さく視線を落とした。
「私は、文化祭の時、けっこう頑張ったじゃん」
「うん」
「入口で呼び込みしたし、写真も撮ったし、空気も作ろうとしたし」
「かなり頑張ってたと思う」
恒一がそう言うと、ことねは一瞬だけ息を止めた。
「……そういうの、今のタイミングで素直に言うの反則だよね」
「なんでだよ」
「いや、なんか、今ちょっと嬉しくなっちゃうから」
ことねは苦笑する。
「でも、その上でさ、匿名の人の“楽しそうでよかったです”が黒峰くんの中にちゃんと残ってるの、少しだけ悔しいんだよ」
今度は、前方の空気がちゃんと静かになった。
茶化さないほうがいい本音だと、みんな分かったのだろう。
「……なるほどね」
朱莉が小さく言う。
「“私はちゃんと目の前で頑張った”のと、“匿名のやさしさが静かに残る”のが、別ベクトルで両方強いからか」
「そう!」
ことねがすぐ頷く。
「しかも匿名の人、押してこないから余計に残るんだよ。変に前へ出てこられたら、“あ、そういう感じね”って整理できるのに」
「整理できないやつほど残る」
凛が言った。
「そうなんだよね……」
ことねは小さく息を吐いた。
「やさしいのって、ずるいよね」
その言葉は、前にも口にしていた。
でも今日は、前より少しだけ切実だった。
◇
そのあと、しおんが静かに口を開いた。
「夢咲先輩」
「ん?」
「悔しいの、少し分かる」
ことねがしおんを見る。
「雪代さんも?」
「うん」
「え、なんで?」
「匿名の人の言葉、黒峰くんの中に長く残るから」
しおんは穏やかに答えた。
「しかも、悪い残り方じゃない」
「そう、それ!」
ことねが思わず身を乗り出す。
「嫌な感じじゃないのに残るのが、ほんとに強いの」
凛が、ことねのテンションを少しだけ抑えるように言った。
「でも、夢咲さんの頑張りもちゃんと残ってるでしょ」
「え」
「文化祭の入口って言ったら、最初に夢咲さん思い出すし」
凛はそう言いながら、飲み物を一口飲む。
「黒峰の中に何がどう残るかって、一個じゃないんだから」
「……朝霧さん、そういうフォローできるならもっと早く言ってよ」
「今言ったでしょ」
「今ちょっと救われたけど!」
ことねは両手で紙パックを持ちながら、少しだけ笑う。
その横で、朱莉も静かに続けた。
「ことね先輩のやり方って、ちゃんと表で残るからね」
「表?」
「うん。見える形で残る。入口の空気とか、写真とか、呼び込みの声とか」
朱莉は穏やかに言う。
「匿名の人は、見えない形で残るだけで」
「……それ、ちょっといい言い方だね」
ことねが言う。
「見える形と、見えない形か」
「どっちが強いかじゃなくて、残り方が違うだけだと思う」
その言葉で、ことねの中の絡まった感情が少しだけほどける。
悔しい。
でも、全部負けた感じがするわけじゃない。
自分には自分の残り方がある。
それが少し分かっただけで、胸の奥のざらつきがほんの少しだけやわらいだ。
◇
昼休みが終わり、放課後になっても、ことねの中にはまだその会話が残っていた。
教室の窓から差し込む夕方の光。
机を戻す音。
誰かが鞄を持ち上げる気配。
文化祭のあとから、こういう“何もない時間”に少しだけ近くなった気がする。
理由がなくても前に集まる。
用事がなくても少し話す。
そういう関係は、たぶん悪くない。
「ことね先輩」
帰ろうとしたところで、朱莉に呼ばれた。
「ん?」
「さっきの、よかったと思うよ」
「さっきの?」
「悔しい、ってちゃんと言ったやつ」
ことねは一瞬だけ目を丸くした。
「え、なんで」
「いや」
朱莉は少しだけ笑う。
「ちゃんと認めた上で悔しいって、たぶんすごく本音だし」
「……まあ、本音だったけど」
「そういうの、ことね先輩らしいなって」
ことねは少しだけ照れくさくなって、視線をそらした。
「らしい、かあ」
「うん。明るいままで、でもちゃんと悔しがるとこ」
「それ、褒めてる?」
「半分」
「またそれ!」
二人で少し笑う。
教室を出ようとしたところで、ことねはふと足を止めた。
黒峰恒一が、鞄を持って一人で後ろ扉へ向かうところだった。
「黒峰くん」
「ん?」
振り向く。
「……今日さ」
「うん」
「ちょっと言いすぎたかなって思ったけど」
「何が」
「匿名の人のこと、悔しいってやつ」
恒一は少しだけ考えて、それから首を振った。
「いや」
「ほんと?」
「うん。むしろ、ことねがそういうふうに思ってるの分かってよかった」
その答えが、あまりにもまっすぐだった。
「……それ、また反則」
「なんでだよ」
「嬉しくなるからに決まってるでしょ」
ことねは苦笑した。
でも、今の苦笑いはさっきまでよりずっと軽い。
匿名のやさしさは、たしかに強い。
認めるしかない。
それで黒峰くんの中に残られるのは、やっぱり少し悔しい。
でも、その悔しさをちゃんと認めた上で、まだ自分の残り方もあると思えるなら、それでいいのかもしれない。
「じゃ、また明日」
ことねが言うと、恒一も小さく手を上げた。
「おう」
やさしいのって、ずるいよね。
教室を出たあと、ことねは心の中で、もう一度だけそう思った。
でも今度の“ずるい”は、少しだけ柔らかかった。




