第96話 静かな子は、匿名の言葉に“諦め”ではなく“選択”を見る
その日の放課後、黒峰恒一は珍しく一人で前のほうの席に残っていた。
特に用事があるわけではない。
提出物は朝のうちに出した。
今日中にやる課題も急ぎではない。
文化祭の準備みたいな“残る理由”も、もちろんもうない。
それでも、帰るには少し早い気がして、鞄を机に置いたまま窓の外を見ていた。
秋が少しずつ深くなってきたせいか、夕方の光は前よりやわらかい。
校庭の隅では運動部がまだ走っている。
文化祭の頃なら、この時間はもっと教室の中に意識が向いていた。
入口の空気、灯りの色、札の位置、人の流れ。
今は、そこにあるのはただの机と椅子だけだ。
「……ないな」
小さく呟く。
何がないのか、自分でも少し曖昧だった。
文化祭そのものか。
放課後に残る理由か。
それとも、机の中へ入ってこなくなった匿名のメモか。
「何が?」
静かな声がして、振り向く。
雪代しおんが立っていた。
相変わらず、気配の出し方がやわらかい。
急に現れたように見えるのに、不思議と驚ききれない。
「いや、別に」
「別に、じゃない顔」
しおんはそう言って、恒一の一つ前の席へ自然に座った。
「最近、それみんな言うな」
「最近、みんな見てるから」
その返しが、しおんらしく静かだった。
恒一は少しだけ笑って、椅子へ座り直す。
「雪代は帰らないのか」
「もう帰る」
「じゃあなんで残ってる」
「黒峰くんが、少し止まってたから」
またそれだ、と思う。
でも、もう否定する気にもなれなかった。
◇
少しだけ間が空く。
教室の中には、まだ数人のクラスメイトがいる。
でも前方のこのあたりだけ、妙に静かだ。
「……匿名のやつ、まだ考えてた」
先に言ったのは恒一だった。
しおんは、驚いた様子もなく頷いた。
「うん。そうだと思った」
「そんなに分かるか?」
「少し」
「少しかよ」
「でも、本当はかなり」
小さく言ったあとで、しおんは少しだけ目を細めた。
「文化祭のあと、前より考える時間あるから」
「まあ、それはそうだな」
文化祭中は流れの中にあった。
終わってからのほうが、むしろあの三枚のメモは静かに残り続けている。
甘すぎないものを選びました。
喉に良さそうなのを入れておきました。
楽しそうでよかったです。
どれも短い。
でも短いからこそ、そこへ何が削られているのかを考えてしまう。
「……しおん」
「ん」
「前に言ってたよな。名前を出すと、今の距離が変わるから怖いって」
「うん」
「やっぱり、そう思う?」
しおんは少しだけ考えるように視線を落とした。
それから、ゆっくり言う。
「前は、怖いのかなって思ってた」
「前は?」
「うん。でも今は少し違う」
その言い方が、妙に気になった。
「違うって?」
「諦めじゃなくて、選んでる感じ」
教室の空気が、ほんの少しだけ静かになる。
「……選んでる」
「うん」
しおんは机の木目へ指先を軽く置いた。
「名前を出せないんじゃなくて、今は出さないって決めてる感じ」
「それ、同じようで違うな」
「違う」
しおんははっきり頷いた。
「出したいのに出せない人の言葉って、もう少し揺れると思う」
「揺れる?」
「うん。もっと迷いが見える。言いすぎたり、逆に急に引いたり、どこかで自分の気持ちが漏れたり」
その説明は、しおんにしては珍しく少し長かった。
でも長いのに、言葉はやっぱり静かだった。
「この人のメモは、短いけど落ち着いてる」
「……うん」
「たぶん、本当はもっと言いたいことある。でも、それを分かったうえで、今はここまでって決めてる」
その言葉が、三枚のメモの上へぴたりと重なる。
たしかに、あのメモたちには“焦り”が薄い。
近いのに、追いつめてこない。
見ているのに、奪おうとしない。
それは弱いからではなく、むしろちゃんと自分を抑えられる人の感じなのかもしれない。
「……それって、かなり強くないか」
恒一が言うと、しおんは少しだけ目を細めた。
「強いと思う」
「だよな」
「でも、強いだけじゃない」
「何が」
「たぶん、やさしい」
その返しが、やけに胸へ残った。
◇
「やさしい人ほど、名前を出すのが怖い時ある」
しおんは、少しだけ声を落としてそう言った。
前にも聞いた言葉だった。
でも今日は、前よりもっと意味が分かる気がする。
「どうして」
恒一が聞く。
しおんはすぐには答えなかった。
窓の外の音を少しだけ聞くみたいに間を置いてから、ゆっくり口を開く。
「名前を出したら、答えをもらうことになるから」
その一言が、思っていたより重かった。
「答え」
「うん。今まで通りではいられなくなる」
しおんは続ける。
「今の距離のまま、見てるだけでいられるなら、まだ相手の邪魔をしないで済む。でも、名前を出すと、自分の気持ちのぶんだけ相手を動かしちゃう」
恒一は、すぐには返事ができなかった。
たしかにそうだ。
匿名のままなら、やさしさだけが残る。
でも名前がつけば、その瞬間に相手へ“どう受け取るか”を求めることになる。
「だから、やさしい人ほど怖いのかも」
しおんは静かに言う。
「自分が傷つくのが怖いだけじゃなくて、相手の空気を変えるのが怖い」
「……それ、すごく分かる気がする」
「うん」
「でも、それって少し苦しくないか」
「苦しいと思う」
しおんは頷いた。
「でも、その苦しさごと選んでる感じがする」
諦めではなく、選択。
その言い方が、匿名の差し入れ主の印象を少しだけ変えた。
これまでは、どこかで“言えない人”なのかもしれないと思っていた。
でも、しおんの言葉を通すと、そうではない。
言えるかもしれない。
言いたいかもしれない。
それでも、今は言わないことを選んでいる。
そのほうが、やさしいから。
「……しおんって、そういうの何で分かるんだ」
恒一が聞くと、しおんは少しだけ困ったように笑った。
「分かる、というより」
「うん」
「そういうふうに考えるから」
「考える?」
「名前を出すと変わること、あるから」
その言葉は、しおん自身の話も少しだけ含んでいる気がした。
でも、そこを掘るのは違う気がして、恒一は何も言わなかった。
◇
教室の後ろのほうで、誰かの椅子を引く音がした。
残っていたクラスメイトが、やっと帰る準備を始めたらしい。
前方の静かな時間も、もうそろそろ終わる。
「じゃあさ」
恒一が、少しだけ前のめりになって言う。
「もし、その人が本当に“今は出さないって決めてる”なら」
「うん」
「俺は、待つべきなんだろうか」
しおんは少しだけ目を上げた。
その質問は、自分でも意外だった。
正体を知りたい気持ちはある。
でも、その人が選んで隠しているなら、そこへ踏み込むことは正しいのか。
「待つ、というか」
しおんは言葉を選んだ。
「今は、無理に壊さなくていいんじゃないかな」
「壊す、か」
「うん。知ることが悪いわけじゃない。でも、急いで知ると、なくなる温度もある」
その表現が、あまりにも静かで、でも鋭かった。
「なくなる温度」
「今の“やさしいだけが残る感じ”」
しおんは最後のメモを思い出すみたいに、少しだけ視線を細める。
「“楽しそうでよかったです”って、名前がないから余計に、黒峰くんの楽しさだけが前に残るでしょ」
「……たしかに」
「名前がつくと、その後ろにその人の顔も、その人の気持ちも、もっといっぱい見えるようになる」
「それは、悪いことじゃないよな」
「悪くはない」
しおんは頷く。
「でも、今しかない見え方もある」
その一言で、いろはがこの前言っていた“今しかない顔”まで思い出した。
文化祭後の顔。
終わったのに終わってない顔。
今しかない温度。
匿名のやさしさにも、たぶん同じことが言えるのかもしれない。
◇
「黒峰くん」
「ん?」
「今、少しだけ楽になった?」
不意にそう聞かれて、恒一は少し驚く。
「なんで」
「さっきより、止まってないから」
しおんは穏やかに言った。
「考えてたけど、少し整理された顔してる」
「……お前、ほんとそういうの見るな」
「見るというか、見える」
「それも前に聞いた」
「うん」
しおんはほんの少しだけ笑った。
「でも、本当にそう」
それから、立ち上がる。
「帰る?」
「帰る」
二人で鞄を持つ。
教室を出る直前、しおんが一度だけ振り返って、誰もいなくなった前方の席を見た。
文化祭前から文化祭後まで、何度も人が集まった場所。
今は何もない。
「……どうした?」
恒一が聞くと、しおんは静かに答えた。
「何もないのに、まだ少し残ってるなって」
「文化祭の感じ?」
「うん。それと、今の話も」
しおんはゆっくり前を向いた。
「やさしい人ほど、名前を出すのが怖い時ある」
もう一度、今度は少しだけ確かめるように言う。
「でも、それは弱いからじゃない」
「選んでるから、か」
「そう」
しおんは小さく頷いた。
「だから、今はそれでいいと思う」
その言葉で、胸の中のもやついたものが少しだけ静まる。
答えはまだない。
誰なのかも分からない。
でも、“なぜ匿名なのか”についてだけは、前よりずっとやわらかく受け止められる気がした。
静かな子は、匿名の言葉に“諦め”ではなく“選択”を見る。
そしてその見方は、黒峰恒一の中で、匿名のやさしさそのものを少しだけ違う形へ変え始めていた。




