第95話 生活導線ヒロインは、匿名の近さに少しだけ敏感になる
小鳥遊ましろは、自分が少しだけ落ち着いていないことを、ちゃんと自覚していた。
文化祭が終わってからも、先輩たちは前のほうの席へ自然に集まる。
夢咲ことねは明るくて、でも前より少しだけ本音が混ざるようになった。
朝霧凛は相変わらず現実担当なのに、たまに静かにやわらかい。
火乃森朱莉は、昔から近い立場のまま、今の距離も見ている。
雪代しおんは何も押さないのに、必要な時だけ一番近い。
そこまでは、ましろにとってもう見慣れた光景だった。
問題は、そのさらに外側にいる“名前のない人”だ。
甘すぎないもの。
喉に良さそうなもの。
楽しそうでよかったです。
机の中へそっと置かれた差し入れとメモ。
押しつけない近さ。
言葉を少なくして、でもちゃんと届くやり方。
あれを前にした時、ましろは自分の中にほんの少しだけ生まれた感情を、丁寧に見ないふりしていた。
でも、見ないふりをしてもなくならない。
――見ているだけで済む人は、少し強い。
そんな言葉が、自分の中へ浮かんでしまうくらいには。
◇
その日の朝、黒峰恒一はいつも通り少し遅めに教室へ入ってきた。
遅刻ではない。
ただ、始業の五分前くらいに来ることが多い。
席に着く前に机の中を確認して、何もないことを一度確かめる。
最近はそこまで含めて、ましろの中ではもう“朝の先輩”だった。
ましろは自分の席で教科書を出すふりをしながら、それを見ていた。
今日も、机の中を確認している。
今日も、何もなかったらしい。
小さく息を吐くところまで同じだ。
「……やっぱり見るんですね」
思わず、口から出た。
恒一が顔を上げる。
「あ、小鳥遊」
「おはようございます」
「おはよう」
ましろは席を立って、恒一の机の横へ行く。
「今日も何もなかったですか」
「なかった」
「そうですか」
「そうですか、って」
恒一が少しだけ苦笑する。
「お前、その確認ももう日課みたいになってるな」
「見てれば分かるので」
ましろは静かに答えた。
「先輩、机を見る前と見たあとの顔、少し違いますし」
「それ、そんな分かりやすいか?」
「はい」
そこへ、ちょうどことねが入ってきた。
「おはよー……って、朝からもう自然にそこいるんだ」
ことねは鞄を肩から下ろしながら言う。
「ましろちゃん、ほんとに文化祭終わってからも通常運転だね」
「通常運転です」
「そこ否定しないの強い」
ことねは笑って、それから少しだけ目を細めた。
「でも、最近ちょっと思うんだよね」
「何を」
恒一が聞くと、ことねは半分冗談みたいに言った。
「ましろちゃんって、“名前つきで近い人”代表みたいになってきたなあって」
ましろはその言葉に、ほんの少しだけまばたきした。
名前つきで近い人。
言われた瞬間、机の中の匿名のメモたちと、今の自分の立ち位置が、妙に綺麗に対比された気がした。
「夢咲先輩」
「うん?」
「それ、少し変な言い方です」
「え、そう?」
「はい」
でも、変だと言いながら、完全には否定しきれないのが自分でも少し嫌だった。
ことねはましろの顔を見て、少しだけ笑う。
「ごめんごめん。でも、なんかその感じあるじゃん」
「どういう感じですか」
「匿名のやさしさとは別に、ましろちゃんは“私はここにいますけど?”のまま近い感じ」
その言い方が、やけにうまかった。
ましろは小さく息をついた。
「私は隠してないので」
「うん、それそれ」
ことねは頷く。
「それが強いんだよ」
強い。
その単語が、少しだけ胸に残った。
◇
昼休み、前のほうの席にはやっぱりまた人が集まった。
ことねがパン。
凛がサラダとおにぎり。
朱莉が購買のサンドイッチ。
しおんは小さめの弁当。
恒一は家から持ってきた弁当。
そしてましろは、別クラスのはずなのに、なぜかそこへいても違和感が薄くなり始めている自分が少し怖かった。
「ねえ」
ことねが、ストローをいじりながら言った。
「昨日のひよりちゃんの分析、けっこうすごかったよね」
「すごかった」
朱莉が頷く。
「“食べさせたいより、負担を減らしたい人”ってやつ」
「うん」
ことねは少しだけ真面目な顔になる。
「正直、あれ聞いてから余計に匿名の人のこと気になるようになったし」
「夢咲さん、前より“誰かを当てる”より“どういう人か”に寄ってるよね」
凛が言う。
「うーん、だってそのほうが強いんだもん」
ことねは素直だった。
「誰かはまだ分かんないけど、どういう優しさかはだいぶ見えてきたじゃん」
ましろは、その会話を聞きながら静かにお茶を飲んでいた。
優しさの輪郭。
押しつけない近さ。
言葉を少なくして届かせるやり方。
たしかに、それは強い。
認めざるを得ないくらい強い。
でも、それを認めるほどに、自分の中の少しだけざわつくものもまたはっきりしてくる。
「小鳥遊さん」
凛が、不意にこちらを見た。
「はい」
「今日ちょっと静かだね」
心臓が、ほんの少しだけ嫌な跳ね方をした。
「そうですか?」
「そう」
凛は短く答える。
「いつも静かだけど、今日は少し考えてる静かさ」
この人はたまに、こういうところだけ変に正確だ。
「……朝霧先輩、そういうのよく見えますね」
「最近みんなそうでしょ」
凛は特に気負わずに言う。
「文化祭で鍛えられたし」
「その理屈、ほんと便利だよね」
ことねが笑う。
でも、ことねの目も、少しだけこっちを見ていた。
「ましろちゃん、なんかあった?」
聞き方はやわらかい。
でも、ただの雑談ではない。
ましろは少しだけ迷って、それから静かに答えた。
「……少しだけ」
「うん」
「昨日の話、考えてました」
「匿名の人の?」
ことねが聞く。
「はい」
そう答えると、前方の空気が少しだけ落ち着いた。
逃げなくてよさそうだと分かったからかもしれない。
「何を?」
今度は朱莉が聞く。
ましろは紙パックのお茶を机へ置いた。
「名前を出さないで見ている人って、少し強いなと思って」
その言葉に、ことねが一瞬だけ目を丸くする。
「……うわ」
「うわ、って何ですか」
「いや、なんか」
ことねは少し困ったように笑う。
「今の、かなり本音だなって」
ましろは少しだけ視線を落とした。
「本音です」
否定はできない。
「だって、その人は“見てるだけ”でも先輩の中に残れるので」
昼休みの前方の席が、ひどく静かになる。
ざわざわした教室の中なのに、そこだけ少し音が引いた感じがした。
「……それ、かなり鋭いね」
朱莉が言う。
「うん」
ことねも小さく頷く。
「ましろちゃん、それ、自分が“名前出して近い側”だから余計に思うやつでしょ」
ましろは少しだけ目を瞬く。
そして、ゆっくりと答えた。
「そうかもしれません」
ことねが小さく息を吐く。
「そっかあ……」
凛が、静かな声で言った。
「小鳥遊さんって、見てるだけで済まない人だもんね」
「……はい」
「必要だと思ったら、自分の名前でちゃんと差し出す」
凛の言葉は、責めているわけではなかった。
むしろかなり正確に整理しているだけだった。
「だからこそ、“匿名のまま残る近さ”が少し強く見えるのかも」
しおんが、小さく言った。
「うん」
ましろは頷く。
「私は、必要だと思ったら出してしまうので」
「それも強いけどね」
ことねが言う。
「むしろ、そっちのほうが日常に入ってくる感じあるし」
「でも」
ましろは続けた。
「見ているだけで、やさしさだけ残していける人は……少しだけ、ずるいです」
その“ずるい”は、ことねが使う時よりずっと小さかった。
でも、小さいぶんだけ本音だった。
◇
その日の放課後。
ましろは自分の教室へ戻る前に、廊下の窓際で少しだけ足を止めた。
見ているだけで済む人は、少し強い。
その考えは、まだ胸の中に残っている。
ましろは、自分がそうできないことを知っていた。
必要だと思ったら、名前を出してしまう。
プリントの場所も。
喉飴も。
飲み物も。
体調も。
止まりそうなところも。
見て見ぬふりができない。
見つけたら、手を出してしまう。
それは自分のやり方だ。
嫌いではない。
でも、そのぶん“匿名のまま残るやさしさ”の強さも分かってしまう。
「……先輩」
小さく口にしてから、少しだけ首を振る。
羨ましいのか。
悔しいのか。
その両方か。
たぶん、どれも少しずつ本当だ。
ちょうどその時、廊下の向こうから恒一が一人で歩いてくるのが見えた。
職員室帰りらしい。
手にはプリントの束。
こっちに気づく。
「小鳥遊」
「先輩」
「まだいたのか」
「今から戻るところです」
いつも通りの会話。
でも今日は、その“いつも通り”の下に少しだけ別のものがある。
「……どうした?」
恒一が聞く。
「何がですか」
「ちょっと考えてる顔」
思わず、ましろは目を瞬いた。
見られていた。
文化祭が終わってから、先輩も少しだけ人の顔を見るようになった。
それが分かる。
「……少しだけ」
「何を」
ましろは迷った。
でも、隠しきるほど器用でもない。
「匿名の人のことです」
恒一の表情が、ほんの少しだけやわらぐ。
驚きより、納得に近い顔。
「やっぱり、みんなそこ考えるんだな」
「考えます」
「小鳥遊も?」
「はい」
ましろは小さく息をついた。
「見ているだけで済む人は、少し強いなと思ってました」
恒一が、一瞬だけ黙る。
「……それ、昨日の流れで出たやつか」
「はい」
「たしかに、そうかもな」
否定されない。
否定されないどころか、少しだけ分かっている顔をされる。
それが妙に胸へ残った。
「でも」
恒一が続ける。
「見てるだけで済まないのも、別に弱くはないだろ」
ましろは、すぐには返せなかった。
廊下の空気が少しだけ静かになる。
遠くで誰かが笑っているのに、そこだけ音が薄くなる。
「……それ、先輩が言うんですね」
ようやくそう言うと、恒一は少しだけ困ったように笑った。
「何だよ」
「いえ」
ましろは首を振る。
「でも、少しだけ安心しました」
「何に」
「私のほうが、ちゃんと近いところもあるんだなって」
その言葉は、かなり本音だった。
見ているだけで残るやさしさ。
名前を出して生活に入っていく近さ。
どちらが強いかではなく、たぶん違うだけなのだ。
「……小鳥遊って、たまに急に本音置くよな」
恒一が言う。
「先輩の前では、たまに置きます」
そう答えると、恒一は少しだけ言葉に詰まった顔をした。
その反応が、少しだけうれしい。
◇
別れたあと、ましろは自分の教室へ戻りながら思っていた。
匿名の人は、たしかに強い。
でも、自分は自分の近さでしかいられない。
必要だと思ったら、名前を出す。
見えたら、手を出す。
生活の中へ、当然みたいに入っていく。
それは匿名のやさしさとは違う。
でも、違うからこそ持てる強さもある。
生活導線ヒロインは、匿名の近さに少しだけ敏感になる。
そしてその敏感さの中で、自分のやり方もまたちゃんと残るのだと、小鳥遊ましろは静かに知り始めていた。




