第93話 筆跡より、言葉の置き方にその人は出る
昼休みの教室は、相変わらず少しだけ文化祭の余韻を引きずっていた。
もう前みたいに毎日何かを作るわけじゃない。
机を動かすことも、灯りの位置を見直すことも、備品表とにらめっこすることもない。
なのに、黒峰恒一の前の席には、今日も自然と人が集まっている。
夢咲ことねはパンの袋を開けながら椅子を引き、朝霧凛はペットボトルを置いて当然みたいに座り、火乃森朱莉は少し遅れて窓際からこちらへ来た。雪代しおんは最初からそこにいるみたいな静さで席につく。
そして、机の上には三枚の小さなメモ。
――甘すぎないものを選びました。
――喉に良さそうなのを入れておきました。
――楽しそうでよかったです。
短い。
どれも短い。
でも、文化祭が終わった今のほうが、その短さが妙に深く感じる。
「やっぱりさ」
ことねが最初に口を開いた。
「これ、筆跡より言葉の置き方のほうがその人出てる気がする」
その一言で、前方の空気が少しだけ引き締まる。
「言葉の置き方?」
恒一が聞き返すと、ことねはうんと頷いた。
「うん。字って、頑張れば多少ごまかせるじゃん。でも、どういう順番で、どこまで言って、どこで止めるかって、たぶんごまかしにくい」
「それは、少しわかるかも」
朱莉が言う。
「筆跡って意識すると整える人いるしね」
「そうそう」
ことねは嬉しそうに身を乗り出した。
「でも、“甘すぎないものを選びました”って言い方とか、“楽しそうでよかったです”で止める感じとか、あれはその人の考え方が出るでしょ」
凛がメモを見ながら、静かに言った。
「“好きそうだったので入れておきました”じゃないんだよね」
「うん」
しおんが小さく頷く。
「“選びました”って、自分の行動は言うけど、自分の気持ちは言ってない」
恒一は少しだけ息を止めた。
たしかにそうだ。
選んだ。入れた。見ていた。
行動はある。
でも、“どうしてそれをしたか”の感情の中心はぼかしてある。
「……それ、かなり大きいかもな」
恒一が言うと、ことねがすぐに食いついた。
「でしょ!?」
「いや、そんなに勢いよく来るなよ」
「だって今のはかなりそうだもん」
ことねは指先で一枚目のメモを軽く叩いた。
「この人、言葉の主語をあんまり自分にしたくないんだよ。たぶん」
「主語を自分にしたくない、か」
朱莉が繰り返す。
「うん。たとえば、“あなたが好きだからこれ選びました”とか、“あなたが心配でした”とか、そういうふうには書かない」
「でも、見てるのは見てる」
凛が言う。
「むしろかなり見てる」
「そうなんだよねえ……」
ことねが小さく唸る。
「で、見てるくせに、押してこないんだよなあ」
「それ、ずるいんだっけ」
恒一が言うと、ことねがじろっとこちらを見る。
「そう。かなりずるい」
「まだ言うのか」
「言うよ。だって本当にそうなんだもん」
ことねは少しだけ真面目な顔になった。
「たとえば、“喉に良さそうなのを入れておきました”ってさ、普通なら“文化祭でいっぱい喋ってて心配だったので”とか、もう一言足したくなるじゃん」
「夢咲さんは足しそう」
凛が言う。
「朝霧さん、その分析ちょっとだけ刺さる」
「図星でしょ」
「図星だけど!」
小さな笑いが起きる。
でも、その笑いのあとで、ことねは自分でも納得したみたいに続けた。
「私はたぶん、少し説明しちゃう。だって、そうしないと伝わらない気がするから」
「うん」
「でもこの人は説明しない。説明しないのに、ちゃんと意味が残る」
その言い方は、ことね自身が匿名の差し入れ主の言葉の強さをちゃんと認めている証拠だった。
◇
「朝霧さんはどう思う?」
ことねが聞くと、凛は一瞬だけ目を細めた。
「急に振るね」
「だって、言葉の整理いちばん得意そうじゃん」
「得意そう、ね」
凛はペットボトルを持ち直しながらメモを順番に見た。
「私は、この人、言い切り方が静かだと思う」
「言い切り方?」
恒一が聞く。
「うん」
凛は一枚目を指で示す。
「“甘すぎないものを選びました”。これって、主観は入ってるけど、断定しすぎてないでしょ」
「どういうこと?」
ことねが首を傾げる。
「“あなたは甘いものが苦手ですよね”じゃない」
「あー……」
「相手を決めつけてない。でも、ちゃんと見たうえで自分なりに判断してる。そこが静か」
その整理は、いかにも凛らしかった。
「二枚目も同じ。“喉に良さそうなのを入れておきました”って、必要以上に心配を押しつけてない」
「たしかに」
朱莉が頷く。
「“大丈夫ですか”じゃないんだよね」
「そう」
凛は続ける。
「大丈夫かどうかを相手に答えさせない。返事も求めない。でも、見てたことだけは残す」
その言葉に、前方の空気がまた少しだけ静かになる。
それはもう、たぶん差し入れ主の人物像にかなり近い説明だった。
「……朝霧さん、今のかなり怖いくらい合ってる」
ことねが言う。
「怖いって何」
「いや、なんか、すごくその人っぽい説明だから」
「その人っぽいというか、こういう書き方する人の特徴でしょ」
そう言いながらも、凛自身も少しだけ考え込んでいる顔だった。
「最後の“楽しそうでよかったです”が一番特徴出てると思う」
凛は最後のメモを見る。
「これは、自分の願望を書いてない」
「願望?」
「“また見たいです”とか、“もっと話したいです”とか、“その顔を自分に向けてほしいです”とか、そういう方向に行かない」
凛はごく自然に、でも妙に鋭く言う。
「“よかったです”で終わるのは、そこで止まれる人ってこと」
その言葉が、机の上の紙よりも少し重く残った。
そこで止まれる人。
もっと言いたくても、そこまでにしておく。
近づきたくても、壊さない位置で止まる。
そういう人だということかもしれない。
「……それ、かなり大人じゃない?」
ことねがぽつりと言う。
「年齢じゃなくて、言葉の置き方の話」
凛は淡々と返した。
「でも、まあ……少しそうかも」
そこだけは、少しだけ柔らかかった。
◇
「私はね」
今度は朱莉が、メモを見たまま静かに言った。
「この人、たぶん“自分が何をしたか”より、“相手がどうなったか”を先に見てる」
「それも近い気がする」
恒一が言うと、朱莉は小さく頷いた。
「“選びました”も“入れておきました”も、自分の行動は書いてる。でも、最後が“楽しそうでよかったです”になると、結局一番大事なのはそこなんだなって分かる」
「相手が楽しそうだったこと?」
ことねが聞く。
「うん」
朱莉は、少しだけ視線を落とした。
「文化祭の中で、自分が見つけてもらえるかとか、自分の差し入れに気づいてもらえるかより、まず“ちゃんと楽しかったんだな”ってところに落ち着いてる」
「……それ、かなりやさしいね」
ことねが言う。
「やさしいし、たぶん覚悟ある」
「覚悟?」
恒一が聞く。
「うん。だって、普通は見返りほしくなるじゃん」
朱莉は苦笑した。
「自分のしたことに気づいてほしいとか、少しくらい特別に思われたいとか。そういうのゼロにはならないと思う」
「それはそうだな」
「でも、この言葉の置き方って、そのへんを前に出さないでしょ」
朱莉は最後のメモを指先で軽く押さえた。
「“楽しそうでよかった”って、自分の寂しさとか欲しさをかなり後ろに下げないと書けない気がする」
その言葉が、やけに胸へ入った。
自分の気持ちがないとは思わない。
でも、それを前へ出すより先に、こっちの表情を見ている。
それは確かに、かなり覚悟のいる優しさかもしれない。
「……火乃森さん、それ言うとまた重くなる」
ことねが小さく言った。
「重い?」
「うん。だって今の、“たぶんすごく好きなのに、それを出さないで相手の楽しさを先にしてる”って話でしょ」
朱莉が少しだけ黙る。
否定しない。
「……まあ、近いかも」
その認め方が、かなり本音だった。
◇
しおんはしばらく黙ってメモを見ていた。
ことねがそっと聞く。
「雪代さんは?」
しおんは少しだけ考えてから、静かに言った。
「この人、言葉を少なくするのが上手」
「うん」
「少なくしても伝わるって、知ってる」
また、しおんらしい角度だった。
「“甘すぎないもの”も、“喉に良さそう”も、“楽しそうでよかった”も、どれも長くない」
「そうだね」
「でも、たぶん本当はもっと言える」
その一言で、ことねが小さく息を呑む。
凛も、朱莉も、すぐには何も言わない。
もっと言える。
でも言わない。
言葉を削って、必要なところだけ残している。
「……それ、なんでそう思う?」
恒一が聞くと、しおんは少しだけこちらを見た。
「削り方が慣れてるから」
「慣れてる?」
「うん。最初から少ない言葉しか持ってない人じゃなくて、本当はもっとあるのに、そこから減らしてる感じ」
その説明があまりにも静かで、あまりにも怖いほど正確だった。
たしかに、ただ不器用で短い人の文章とは少し違う。
このメモには、“ここまでで止める”という意志がある。
「……やっぱり、壊したくないんだね」
ことねが小さく言う。
「うん」
しおんは頷く。
「言いすぎると、今の距離が変わるから」
「でも、少なすぎても伝わらない」
凛が言う。
「だから、ぎりぎり伝わるところまで置いてる」
「……そのバランスがうまいんだよなあ」
ことねが、ちょっと悔しそうに笑った。
「私ならもっと書いちゃうし、もっと分かってほしくなるし」
「夢咲さんはそうだろうね」
凛が言う。
「うるさいなあ。でもそうなんだもん」
ことねは素直だった。
「だから余計に、この人の言葉の温度ってすごいなって思う」
◇
「これさ」
ことねが、少しだけ声を落として言う。
「もしかして、みんな少しずつ“自分にもこういうところあるかも”って思ってない?」
その問いに、前方の空気がぴたりと止まった。
「……何それ」
凛が先に言う。
「いや、だって」
ことねは慌てて言葉を足す。
「自分が犯人って意味じゃなくて! こういう言い方しそうなところ、ちょっと分かるなっていうか」
「夢咲先輩、今それかなり危ない聞き方」
朱莉が言う。
「ごめん、でもなんか、そうじゃない?」
ことねは少しだけ俯いた。
「私は、“楽しそうでよかった”って気持ちは、ちょっと分かるし」
その言い方が、ひどく素直だった。
凛は少しだけ目を伏せる。
「私は……言葉を削る感覚は、分からなくはない」
「朝霧さん、それかなり本音じゃん」
「夢咲さんは黙って」
「いや今のは拾うでしょ!」
朱莉が少しだけ笑う。
「私は、“気づいてほしいけど押したくない”のは少し分かる」
しおんは静かに言った。
「私は、“名前を出すと変わるから怖い”のは分かる」
そこで、四人とも一瞬だけ黙る。
結局それなのだ。
誰か一人だけがこのメモの言葉を理解できるんじゃない。
少しずつ、それぞれが“分かってしまう”ところを持っている。
だから余計に、この匿名の差し入れ主はただの謎ではなくなる。
「……なんかもう、余計わかんなくなってきた」
恒一が言うと、ことねが苦笑した。
「でしょ?」
「誰かを絞るっていうより、みんなちょっとずつ分かる方向に行ってる」
「でも、それがたぶん正しいのかも」
凛が言う。
「誰が書いたかより、どういう気持ちで書くかのほうが、今は大事」
しおんが小さく頷く。
「うん。言葉の温度が高すぎないのに近い」
その表現に、ことねが「それそれ」とすぐに反応した。
「それなんだよ。高すぎないのに近い。だから残る」
文化祭が終わってからのほうが、匿名のやさしさは深く刺さる。
そしてその言葉は、誰か一人の特別なものというより、“みんなが少しずつ分かってしまうやさしさ”として、前方の席の上に静かに置かれていた。




