第92話 匿名のやさしさは、文化祭が終わってからのほうが深く刺さる
文化祭が終わって、打ち上げも終わって、学校の空気がほとんど元に戻った頃になっても、黒峰恒一の中ではまだ一つだけ終わっていないものがあった。
机の中に入っていた、あの小さなメモたちだ。
――甘すぎないものを選びました。
――喉に良さそうなのを入れておきました。
――楽しそうでよかったです。
たったそれだけの短い文なのに、文化祭が終わった今のほうが、前よりずっと深く胸へ残る。
文化祭中は忙しかった。
準備、本番、片付け、打ち上げ。
考えることが多すぎて、匿名のやさしさも、どこか“流れの中の一つ”として受け取っていた気がする。
でも今は違う。
静かだ。
静かだからこそ、その言葉だけが妙に浮いて見える。
◇
その日の朝も、黒峰恒一は教室へ入ってすぐ、机の中を確認した。
何もない。
ないのはいいことのはずなのに、その確認が終わったあと、なぜか少しだけ物足りなさのようなものまで残る。
「……ほんとに重症だな」
小さく呟いて席へ座る。
授業の準備をしながら、鞄の内ポケットへ指を入れた。
そこに、小さく折った紙が三つ入っているのを指先で確かめる。
持ち歩くつもりはなかった。
なかったはずなのに、気づけばそうなっていた。
最初のメモ。
二つ目のメモ。
そして最後の、文化祭の終わりに入っていた一枚。
捨てられない。
しまい込むこともできない。
だから結局、近くへ置いてしまう。
「黒峰くん」
ことねの声が飛んできたのは、ちょうどその時だった。
「ん?」
「今また、ちょっと違う顔してた」
「どんな顔だよ」
「机見たあとじゃなくて、そのあと考え込んでる顔」
夢咲ことねは、自分の席へ鞄を置きながらこっちを見る。
文化祭のあとから、こういう“少し考えたあとの顔”を拾われることが増えた気がする。
「……別に」
「別に、じゃないでしょ」
ことねはいつものように笑ったあと、少しだけ声を落とした。
「まだ、あのメモのこと考えてる?」
その聞き方が、前より少しやわらかかった。
恒一は数秒だけ迷ってから、頷く。
「まあ」
「やっぱり」
ことねは小さく息を吐いた。
「そりゃそうだよね。文化祭終わったあとに、“楽しそうでよかったです”は強いもん」
その一言だけで、胸の奥を正確に押された感じがした。
「やっぱり、そう思うか」
「思うよ」
ことねはきっぱり言う。
「だって、あれって“私を見て”じゃないんだもん。“黒峰くんがちゃんと楽しかったなら、それで少し安心した”のほうが前にある感じするし」
やっぱりことねは、そのへんの温度を言葉にするのがうまい。
「だから、あとから効くんだよね」
ことねは苦笑した。
「文化祭中より、終わってからのほうが」
まさにその通りだった。
◇
昼休み。
結局、前のほうの席にはまたいつもの顔ぶれが集まっていた。
ことね。
凛。
朱莉。
しおん。
そして恒一。
最近はもう、そこに誰も違和感を持たなくなってきている。
それが逆に少し怖いくらいだ。
「で?」
朝霧凛が、ペットボトルの蓋を開けながら言った。
「今日は何の顔だったの」
「何の顔って」
恒一が聞き返すと、凛は淡々としている。
「夢咲さんがさっき、“また違う顔してた”って言ってたから」
「朝霧さん、そこ拾うんだ」
ことねが言う。
「拾うよ。今の流れで無視するほうが不自然でしょ」
その言い方はいかにも凛らしい。
でも、文化祭のあとから、この子の“拾い方”は前より少しだけ人寄りになっている。
「……メモのこと」
恒一が言うと、凛はすぐに頷いた。
「やっぱりね」
「そんなに分かるか?」
「分かるよ」
朱莉が言う。
「文化祭終わって、少し静かになったぶん、あれのこと考える時間増えてるでしょ」
「うん」
しおんも、小さく頷いた。
「忙しい時より、今のほうが残ると思う」
その一言で、昼休みの空気が少しだけ静かになる。
ことねが机に肘をついて言った。
「ねえ、今日さ、ちゃんと見せて」
「何を」
「メモ」
恒一は少しだけ目を細めた。
「今さら?」
「今さらだよ」
ことねは真面目な顔になる。
「文化祭前と文化祭中と文化祭後で、言葉の意味ちょっとずつ変わって見える気がするし」
「それは、わかるかも」
朱莉が言う。
「前は“誰なんだろう”が先だったけど、今は“どういう気持ちで書いてるんだろう”のほうが強い」
凛も、小さく頷く。
「うん。正体当てより、そっちのほうが気になる」
しおんは静かに言った。
「言葉の置き方に、人が出るから」
そこまで言われると、もう出し渋る理由もなかった。
恒一は鞄の内ポケットから、小さく折った紙を三つ取り出した。
机の上へ並べる。
ことねが、少しだけ息を呑んだ。
「……やっぱり並ぶと強いね」
「うん」
朱莉の声も少し低い。
凛は一枚ずつ視線を落とし、しおんは静かに文字を見ていた。
最初のメモ。
甘すぎないものを選びました。
二つ目。
喉に良さそうなのを入れておきました。
最後。
楽しそうでよかったです。
短い。
全部短い。
でも、並ぶとそこに流れが見える。
「……これ」
ことねが最初に口を開いた。
「やっぱり、“押したい人”の言葉じゃないんだよね」
「うん」
凛が続ける。
「むしろ、自分の存在を前に出さないようにしてる」
「前より、そう感じる」
朱莉が言う。
「最初の時は、まだ“自分が選んだ”感じが少しあったけど」
「甘すぎないものを選びました、はそうだね」
ことねが頷く。
「“あなたのこと、これくらい見てます”っていう近さがある」
「でも次の喉飴は」
凛が二つ目のメモを見る。
「文化祭中の状態に合わせてる。“好きそうなもの”より、“今必要そうなもの”に寄ってる」
「それなんだよなあ……」
ことねが呟く。
「で、最後の“楽しそうでよかったです”は、さらにもう一段違う」
「うん」
しおんが静かに言った。
「これは、相手の表情を見た言葉」
みんながしおんを見る。
「“喉に良さそう”は、状態を見てる」
「“楽しそうでよかった”は、気持ちを見てる」
その整理が、しおんらしく静かで、でもあまりにも正確だった。
「……それだ」
ことねが小さく言う。
「だから最後のやつが一番やわらかいんだ」
「やわらかい?」
恒一が聞き返すと、ことねは少しだけ目を細めた。
「うん。好きとか、会いたいとか、そういう自分の気持ちの言葉じゃないじゃん」
「そうだな」
「“あなたがちゃんと楽しめてたならよかった”って、相手の気持ちを先に置いてる」
その説明は、文化祭のあとからずっとことねが感じていたものそのままだった。
「……やっぱり、ずるいよね」
ことねがぽつりと言う。
「それ言うの好きだな」
恒一が言うと、ことねは少しだけ困ったように笑った。
「だってずるいんだもん。責められないし、嫌いにもなれないし、むしろありがとうって思っちゃうやつだし」
「それは、そう」
朱莉が頷く。
「文化祭終わったあとに読むと、なおさらね」
凛がメモから目を離さずに言った。
「相手、かなり近くで見てる」
「うん」
ことねが頷く。
「で、近くにいるのに、名前を出してこない」
「名前を出すと壊れるから」
しおんが静かに言った。
その一言が、また空気を少しだけ変えた。
「……雪代さん、それ前も言ってたよね」
ことねが聞く。
「うん」
「やっぱり、そう思う?」
「思う」
しおんは、迷わず続けた。
「臆病だから隠してるんじゃなくて、今の距離を壊したくないから、あえて名前を出してない感じ」
「それ、ちょっとわかる」
朱莉が言う。
「だってこれ、もっと近づきたいなら、普通はどこかで名乗りたくなるはずだし」
「うん」
凛も頷く。
「でも、それをしないってことは、“名乗ったあとに何が変わるか”まで見えてるってこと」
「……やさしい人ほど、名前を出すの怖い時あるのかも」
ことねがぽつりと言う。
その言葉を、誰もすぐには否定しなかった。
◇
昼休みの終わりが近づくころには、メモの話は“誰が書いたか”から“どういう人が書くか”へずいぶん寄っていた。
「私さ」
ことねがメモを見ながら言う。
「この人、たぶん言葉の温度が高すぎないんだと思う」
「高すぎない?」
恒一が聞く。
「うん。やさしいけど、重くない。見てるけど、押してない。近いけど、息苦しくない」
ことねは指先で最後のメモの端をなぞった。
「だから、読むほうが勝手に深く感じるんだよね」
「それ、すごくわかる」
朱莉が言う。
「言葉が少ないぶん、こっちが間を埋めちゃう感じある」
「余白があるからか」
恒一が言うと、凛が少しだけ目を上げた。
「うん。余白の作り方がうまい」
「朝霧さん、その評価かなり高くない?」
「高いよ」
凛は淡々と答える。
「実際、こういう短い言葉でここまで残るのって、下手な人には無理」
そこまで言われると、もはや匿名の差し入れ主の存在感は“ただの謎”では済まなくなっていた。
やさしい。
見ている。
押しつけない。
壊したくない。
そして、言葉が少ないぶんだけ深く残る。
それは、かなり強い。
「……これ、文化祭終わってからのほうが深く刺さるね」
恒一がぽつりと言うと、ことねがすぐに頷いた。
「うん。ほんとに」
「忙しい時は、まだ流せたけど」
「終わったあとの静かな時に読むと、余計にだよね」
「そう」
しおんが小さく言った。
「今は、音が少ないから」
その表現が、またしおんらしかった。
文化祭中のざわめきの中では、あのメモは流れの一部だった。
でも今は違う。
静かな日常の中で、あの短い言葉だけがくっきり浮く。
◇
昼休みが終わっても、その日の放課後まで、恒一の頭には三枚のメモが残り続けていた。
甘すぎないものを選びました。
喉に良さそうなのを入れておきました。
楽しそうでよかったです。
最初は好み。
次は状態。
最後は気持ち。
並べると、確かに少しずつ深くなっている。
それでいて、最後まで相手の名前も、自分の気持ちも押しつけてこない。
放課後、教室に少しだけ一人になった時、恒一はもう一度その三枚を机の上へ並べた。
誰なんだろう、という問いはまだ消えない。
でも今日、その問いの前にもう一つ増えた。
どうして、ここまでやさしく書けるんだろう。
その人の顔はまだ見えない。
でも、言葉の置き方だけは、少しずつ輪郭を持ち始めている。
匿名のやさしさは、文化祭が終わってからのほうが深く刺さる。
そして黒峰恒一は、その刺さり方の意味を、前より少し真面目に考え始めていた。




