第91話 変人美術少女は、“文化祭後の顔”も逃がさない
文化祭が終わってからの放課後は、静かなくせに、妙に人の顔が見えやすい。
黒峰恒一は、その日も前のほうの席に残っていた。
特に大きな用事があるわけではない。
ことねはスマホで文化祭の写真を見返していて、凛は提出プリントを半分だけまとめている。朱莉は窓際で軽くストレッチをしながら、帰るタイミングをまだ決めていない顔をしていた。しおんはいつものように、そこにいるのが自然みたいな静さで席に座っている。
誰も「残ろう」と言ったわけじゃない。
でも、気づくとこうなっている。
「……ほんと、理由ないのに残るようになったな」
恒一がぽつりと言うと、ことねがスマホから顔を上げた。
「またそれ言う?」
「だって本当だろ」
「本当だけど」
ことねは少し笑う。
「前は“文化祭の準備あるから”で残ってたのに、今は“なんとなく”だもんね」
「それが変」
凛が短く言う。
「何もないのに前に来るの、まだ慣れない」
「朝霧さんも慣れてないんだ」
ことねがすぐに拾う。
「その“慣れてない”はだいぶ本音寄りじゃない?」
「うるさい」
そんなやり取りをしていた時だった。
「いいね」
教室の後ろ扉のほうから、聞き覚えのある声がした。
振り向く。
鳴瀬いろはが立っていた。
今日もスケッチブックを抱えている。
相変わらず、入ってきた瞬間から“何かを見つけた人”の目をしていた。
「……来たな」
恒一が言うと、いろはは少しだけ笑った。
「来たよ」
「何しに」
「顔見に」
「それ前も聞いた」
「でも今日は、前よりいい」
「何が」
「文化祭後の顔」
ことねが机に肘をついて、半分呆れたみたいに言う。
「鳴瀬さんってさあ、ほんとに人の顔をテーマにして生きてるよね」
「うん」
「そこ即答なんだ」
いろはは前のほうへ来て、いつもみたいに順番に顔を見る。
ことね。
凛。
朱莉。
しおん。
最後に恒一。
「文化祭中もよかったけど」
いろはが言う。
「今のほうが描きたいかも」
前方の空気が、少しだけ止まる。
「今のほう?」
朱莉が聞く。
「うん」
いろははスケッチブックを胸の前で持ち直した。
「文化祭中はみんな“やってる顔”だったから」
「やってる顔」
ことねが繰り返す。
「そう。忙しい、回す、崩れない、間に合わせる、みたいな」
「まあ……それはそうかも」
恒一が言う。
「でも今は、終わったあとでしょ」
いろはは少しだけ目を細める。
「成功したのに、少し寂しい顔してる」
ことねが小さく息を呑んだ。
「うわ」
「夢咲先輩は、いちばん分かりやすい」
「そうだろうな!」
ことねが即座に返す。
「自覚あるし!」
「でも、文化祭中の顔とは違うよ」
いろははことねを見て言う。
「文化祭中は“楽しいを作る顔”だったけど、今は“終わったのを惜しんでる顔”」
「……それ、ちょっとやだな」
「なんで」
「だって当たってるから」
ことねは苦笑した。
「最近ほんと、図星の時ほど反応しやすいんだよね……」
「夢咲さんはそこ、隠すの下手だから」
凛が言うと、ことねがすぐに指をさす。
「朝霧さん、今の地味にひどいよ!」
「事実」
「またそれ!」
小さな笑いが起きる。
いろははその笑いが落ち着くのを待ってから、今度は凛を見る。
「朝霧先輩は」
「何」
「終わったのに、まだ半分だけ文化祭の続きにいる顔」
凛が、ほんの少しだけ目を細めた。
「どういう意味」
「片付けは終わってるのに、頭の中だけまだ整理してる感じ」
その一言に、凛は返事をしなかった。
しなかったけれど、否定もしなかった。
「……それ、昨日言ってたやつかも」
恒一が言う。
「暇になった、って」
「黒峰、それ今言う?」
凛が少し低い声で言う。
でも、その低さはいつもの刺す感じではなく、少しだけ照れ隠し寄りだった。
「だって今の説明、だいぶそれだったし」
「まあ、そうだけど」
凛は小さく息を吐く。
「鳴瀬さん、そういうの拾うのやめたほうがいいよ」
「なんで」
「本人が、自分で整理し終わる前に言われると少し困るから」
その返しが、妙に凛らしくて、ことねが思わず笑う。
「うわ、今の朝霧さん、かなり本音だった」
「夢咲さんはうるさい」
いろははそこで、今度は朱莉を見る。
「火乃森先輩は」
「うん」
「前より静かに見てる顔」
「それ、いつもじゃない?」
朱莉が聞くと、いろはは首を振った。
「少し違う。文化祭中は“ちゃんと作る顔”だった」
「うん」
「今は、“ちゃんと終わったのを見てる顔”」
その言い方に、朱莉が少しだけ黙る。
「……それも、なんか分かるかも」
「分かるの?」
ことねが聞く。
「うん。文化祭中は、終わるまで先しか見てなかったから」
朱莉は窓の外へ少しだけ視線をやった。
「終わったあとって、やっと“何だったんだろうな”って見返す感じあるし」
「そうそう」
いろはが頷く。
「今の顔のほうが、その人の中身に近い」
それから、しおんへ視線が移る。
「雪代先輩は」
しおんが静かに見返す。
「何」
「まだ音聞いてる顔」
ことねが「出た」と言いたげな顔をする。
しおんは少しだけ瞬いて、それからごく小さく笑った。
「それは、そうかも」
「認めるんだ」
恒一が言うと、しおんは頷いた。
「文化祭のあと、少しだけ残る音あるから」
「雪代さん、それ本人が言うとさらに強いよ……」
ことねが机に突っ伏しそうになる。
「鳴瀬さんも雪代さんも、そういうの静かに言うのずるい」
「ずるい?」
しおんが聞く。
「うん。なんか、“そうだったんだ”って思わされるから」
「でも、本当ならいいと思う」
しおんのその返しに、ことねが少しだけ黙る。
「……うん、まあ、それはそう」
そこでいろはの視線が、最後に恒一へ来た。
「で、黒峰くんは」
「またか」
「また」
いろはは迷いなく言う。
「今のほうが描きたい」
「なんでだよ」
「文化祭中は、ちゃんと中にいる顔だったから」
「中にいる顔」
「うん。忙しいのに投げない顔。人を流す顔。間を埋める顔」
そこまでは、前にも言われたことがある。
「でも今は」
いろはは少しだけ声を落とした。
「終わったのに、まだ少しだけその中にいる顔」
教室が少し静かになる。
「……なんか、それ最近いろんな人に言われるな」
恒一が言うと、ことねが頷いた。
「だってそうなんだもん」
「夢咲先輩も、今それ言うのね」
朱莉が言う。
「言うよ。だって、黒峰くん、まだちょっと文化祭終わってない顔してるし」
「ことね先輩もだけどね」
凛が静かに返す。
「朝霧さんは今、流れで刺したでしょ」
「事実だから」
「はいはい出ました事実」
また少しだけ笑いが起きる。
◇
「じゃあ描くね」
いろはが当然みたいに言った。
「いや、待て」
恒一がすぐ止める。
「何が当然みたいに始まろうとしてるんだ」
「今の顔」
「だからなんで」
「今しかないから」
その理屈は相変わらず謎だ。
「鳴瀬さん、今のってそんなにいいの?」
ことねが聞くと、いろははまっすぐ頷いた。
「うん。文化祭の顔は“その日”の顔だけど、今のは“文化祭が残ってる顔”だから」
「……なんか、それ強いなあ」
ことねが言う。
「終わったあとって、本人もまだ分かってない感じあるもんね」
「そう。だから描きたい」
いろはは椅子を引いて座ると、スケッチブックを開いた。
教室には、紙を走る音だけが小さく残る。
ことねは頬杖をついて見ている。
凛は呆れた顔をしつつも、もう止める気はないらしい。
朱莉は窓際から少しだけ視線を寄せて、しおんは静かに座ったままだ。
「ねえ」
ことねが小声で言う。
「今のってさ」
「何」
恒一が聞く。
「文化祭後の顔ってことは、たぶんしばらくしたらまた変わるってことだよね」
「まあ、そうだろ」
「じゃあ今しかないんだ」
「だからさっきからそう言ってる」
「うわ、今の黒峰くん、ちょっと鳴瀬さんの理屈に寄ってる」
「嫌な言い方するな」
ことねは小さく笑う。
「でも、ちょっと分かる気もする。今って、楽しかったのも、終わったのも、少し寂しいのも、全部まだ混ざってるし」
「うん」
「だから、“今の顔”ってたしかに今しかないんだろうなって」
その言葉に、朱莉が少しだけ頷いた。
「文化祭の余韻って、ずっと続くわけじゃないしね」
「朝霧さんは?」
ことねが聞く。
「今の自分の顔、描かれたい?」
「別に」
即答。
だが、そのあとで少しだけ付け足す。
「でも、文化祭中より今のほうが“その人”っぽいっていうのは分かる」
「ほら」
ことねが言う。
「やっぱり鳴瀬さん、変だけど時々めちゃくちゃ合ってるんだよ」
「変だけど、を前に置かないで」
いろはがペンを動かしたまま言う。
「でも、本当だし」
「うわ、鳴瀬さんまでそれ言うようになった」
「便利だから」
今度は凛が少しだけ笑った。
「それ、完全にこっちの伝染だね」
◇
数分後、いろはがスケッチブックを少しだけ傾けた。
「はい」
「見せるのか」
恒一が言うと、いろはは当然という顔で答える。
「描いたから」
覗き込む。
そこにいたのは、机に手をついて少しだけ前を見ている自分だった。
文化祭中みたいな張り詰め方ではない。
でも完全に気が抜けてもいない。
どこかでまだ、終わったものの中に立っている感じがある。
「……なんか、嫌にちゃんとして見えるな」
思わずそう言うと、ことねがすぐに隣から覗き込む。
「うわ、ほんとだ」
「なんだよその反応」
「いや、なんか……」
ことねは言葉を探す。
「“文化祭、ちゃんとやった人”の顔って感じ」
その表現が、妙にしっくり来る。
凛も少しだけ見て、小さく頷いた。
「うん。今の黒峰ってたしかにこういう感じ」
「そこ、朝霧まで納得するのか」
「するよ。終わったあともまだ少し残ってる顔」
朱莉も、静かに見て言う。
「文化祭の写真より、今のほうが残りそうだね」
「火乃森まで言う?」
「だって、本番って一瞬だったし」
しおんは最後に覗き込んで、少しだけ目を細めた。
「今の音、そのまま」
その一言が、いちばんしおんらしかった。
いろははそこで満足そうにスケッチブックを閉じた。
「やっぱり、今のほうが描きたい」
「なんでそこまで今なんだよ」
恒一が聞くと、いろはは少しだけ首を傾げた。
「終わったのに終わってない顔って、次にはなくなるから」
その言葉は、変にきれいだった。
「次は何描く気なの」
ことねが聞く。
いろはは少しだけ考えてから、いつもより静かに言った。
「次、何もない時間の顔も見たい」
教室が、ほんの少しだけ静かになる。
文化祭の顔。
打ち上げの顔。
そして次は、何もない時間の顔。
それはたぶん、この先の日常の中で、誰がどんなふうに近くにいるのかを見る、ということでもあるのだろう。
変人美術少女は、文化祭後の顔も逃がさない。
そして、そのあとに来る“何もない日常”の顔まで、もう見にきているのだった。




