第90話 生活導線ヒロイン、イベント後も当然みたいに日常へ入ってくる
文化祭が終わって数日経っているのに、黒峰恒一の生活は、まだ完全には“元通り”へ戻っていなかった。
教室は普通に戻った。
文化祭準備で前のほうに積まれていた荷物もない。
放課後に毎日残る理由もない。
打ち上げまで終わって、普通ならここでやっと一区切りのはずだった。
でも、黒峰恒一の周りだけは、どうにも“文化祭後の余韻”が薄く残り続けている。
その日の朝もそうだった。
授業に使うプリントを机の中から探していたはずなのに、目当ての一枚だけ見当たらない。昨夜、たしかに鞄へ入れた記憶があった。いや、入れたつもりだった。
机の中。
鞄の内ポケット。
ファイルの間。
見ても、ない。
「……やば」
小さく呟いた瞬間だった。
「先輩」
斜め後ろから、落ち着いた声がした。
振り向く。
小鳥遊ましろが立っていた。
小柄で、いつも通り表情は穏やかだ。騒がしくもないし、慌ててもいない。ただ、こちらの状況をすでに半分把握しているような目をしている。
「何探してますか」
「英語のプリント」
「提出のやつですか」
「たぶん」
「たぶん、って顔してます」
「そういう顔あるのかよ」
「あります」
ましろは即答した。
そして、黒峰の机の横へすっと入ってくると、まるでそこが自分の定位置みたいな自然さで、鞄の横を指差した。
「それ、昨日のノートと一緒に別のクリアファイルへ入れてませんか」
「……え」
「青いやつです」
言われて、恒一は鞄の底に沈んでいた青いクリアファイルを引っ張り出す。
開く。
ある。
「……あった」
「はい」
ましろは小さく頷いた。
「昨日、先輩、帰る前ちょっと急いでたので」
「そこまで見てたのか」
「見えてました」
それだけ言って、ましろはそれ以上誇ることもしない。
ちょうどそこへ、夢咲ことねが教室へ入ってきた。
「おはよー……って、なにその“もう解決しました”みたいな空気」
「黒峰くんがプリント見失って、小鳥遊さんが一瞬で見つけた」
凛が通路側の席から淡々と言う。
「うわ」
ことねが本気で目を丸くした。
「ましろちゃん、朝からもう生活導線やってるじゃん」
「生活導線?」
ましろが首を傾げる。
「そう、生活導線」
ことねはうんうん頷いた。
「黒峰くんが止まりそうなところへ、自然に必要なもの置いてくやつ」
「必要そうだったので」
「それがもうそうなんだって!」
ことねは笑うが、その笑いの中に少しだけ感心が混ざっている。
凛が小さく息を吐いた。
「小鳥遊さんって、文化祭終わっても変わらないね」
「何がですか」
「“困る前に来る”ところ」
ましろは一瞬だけ考えるように沈黙して、それから静かに言った。
「文化祭が終わっても、先輩は止まるので」
「言い方」
恒一が言うと、ことねが吹き出す。
「いやでも、そこは本当なんだよなあ……」
朝の教室に、小さな笑いが広がる。
文化祭が終わったあとの朝。
特別なイベントはもうないはずなのに、ましろだけは何ひとつ変わっていない。
いや、変わっていないようでいて、むしろ“特別な日じゃなくなったあと”のほうが、その近さは目立つのかもしれなかった。
◇
その日の昼休み、前方の席にはまた自然にいつもの顔ぶれが集まっていた。
ことね。
凛。
朱莉。
しおん。
そして恒一。
文化祭前なら、こうして集まるのにもいちいち理由が必要だった気がする。
でも今は、もうそこに明確な用事がなくても、気づけば前にいる。
「ねえ、今日の朝さ」
ことねがパンをちぎりながら言った。
「小鳥遊さん、ほんとに一瞬だったよね」
「何が」
恒一が聞く。
「プリント救出」
「救出って」
「いや、だって“あれどこだっけ”から“ありました”までが短すぎたもん」
ことねはましろ本人がいないのをいいことに、やや大げさに身振りをつけた。
「しかも、黒峰くんが完全に“終わった……”って顔になる前に来るのがすごい」
「それはわかる」
朱莉が頷く。
「文化祭中もそうだったけど、“困る前に来る”から余計に強いんだよね」
「困ってから助けるより、先に止めるほうが印象残るし」
凛が言う。
「結果的に“助けられた”感じより、“いつの間にか止まらなかった”感じになるから」
「朝霧さん、それ今かなり言語化うまいよ」
ことねが感心した顔をする。
「珍しく」
「最後の一言いらない」
凛はじろっと見るが、本気ではない。
しおんが、静かに味噌汁のカップを置いた。
「小鳥遊さん、生活に近い」
ことねがすぐに反応する。
「それだ」
「何が」
「今の“生活に近い”だよ。文化祭の時は準備とか本番の中に自然に入ってきてたけど、今はもう普通の学校生活のほうへ入ってきてる感じ」
「うん」
しおんは小さく頷く。
「プリント。飲み物。提出。喉。そういうの見てる」
「……あらためて並べると、だいぶ近いな」
恒一が言うと、ことねがニヤッとした。
「でしょ?」
「なんでお前が得意げなんだよ」
「いや、なんかもう、“ましろちゃんはそういうルートなんだな”って納得してきたから」
「ルートって言い方」
朱莉が笑う。
「でも、ことね先輩のその感覚、少し分かる」
「でしょ?」
ことねは嬉しそうだ。
「小鳥遊さんって、前に出るわけでも、ぐいぐい来るわけでもないのに、気づくと一番“生活の近く”にいる感じある」
「文化祭の余韻とは別の強さだよね」
凛が言う。
「むしろ、文化祭終わったあとのほうが目立つ」
その一言は、かなり正しかった。
文化祭中は、全員が特別なモードに入っていた。
だから、ましろの先回りも“文化祭中だから”の中に紛れていた。
でも今は違う。
普通の日常だ。
普通の日常で、当たり前みたいに先回りしてくる。
それが、かなり強い。
◇
五時間目のあと、恒一は職員室へ提出物を持っていく当番になった。
量はたいしたことがない。
ただ、帰ってくる時に廊下の向こうで小鳥遊ましろと鉢合わせた。
「先輩」
「おう」
「提出、間に合いましたか」
「間に合った」
「よかったです」
それで終わるかと思いきや、ましろは少しだけ恒一の顔を見た。
「喉、少しまだ変ですね」
「……そこも分かるのか」
「分かります」
「なんで」
「文化祭のあとから、少しだけ掠れる時あります」
その指摘が、やけに正確だった。
実際、文化祭当日と打ち上げでだいぶ声を使ったせいか、まだ完全には戻っていない感じがある。自分でもたまに違和感はあった。
「そこまで見てるの、すごいな」
「見えてるだけです」
文化祭中にも何度か聞いた答え。
でも、今この何もない廊下で聞くと、前より近い。
ましろは自分の手に持っていた小さな紙袋を差し出した。
「これ」
「何」
「喉飴です」
恒一は一瞬、言葉を失った。
「……また?」
「またです」
「文化祭もう終わったぞ」
「終わっても、喉は終わってないです」
その返しがあまりにも真顔で、思わず笑ってしまう。
「いや、そうだけど」
「あと、今回はちゃんと名前つきです」
ましろはそう言って、小さく紙袋の口を開く。
中には市販の小袋タイプの喉飴。
机に入っていた匿名のものとは違って、これは完全に“ましろが持ってきたもの”として渡されている。
「匿名じゃないのか」
「私は隠してないので」
静かな声。
でも、その一言が妙に強い。
私は隠してない。
名前を出している。
必要だと思ったから渡す。
そこに照れも演出もないのが、逆にましろらしい。
「……ありがと」
受け取ると、ましろは少しだけ目をやわらげた。
「はい」
「でも、お前ほんとに、特別な日じゃなくても見てるな」
「見てます」
今度は迷わず言った。
そのあとで、少しだけ視線を下ろす。
「先輩は、特別な日じゃなくても見てないとだめなので」
廊下の空気が、ほんの一瞬だけ静かになった気がした。
遠くで扉の閉まる音。
誰かの笑い声。
階段を降りる足音。
全部あるのに、そこだけ少しだけ音が遠くなる。
「……それ、地味に強いこと言ってるぞ」
恒一が言うと、ましろは少しだけ首を傾げた。
「本当のことです」
「本当のことでもな」
「でも、文化祭の時も、文化祭のあとも、先輩は少し放っておくと止まるので」
「言い方」
「言い方じゃなくて事実です」
その返しに、恒一はもう笑うしかなかった。
たしかに文化祭中、自分は何度も立ち止まりかけた。
プリントでも、備品でも、喉でも、気持ちの整理でも。
そして、そのたびに誰かが近くにいた。
でも、“文化祭が終わっても当然みたいにそれを続ける”という意味では、ましろがいちばんぶれていないのかもしれない。
◇
放課後、教室へ戻ると、ことねが真っ先に気づいた。
「なにそれ」
「何が」
「その袋」
「喉飴」
「また!?」
ことねの声が半音上がる。
凛も、机に突っ伏しかけていた姿勢から少しだけ顔を上げた。
朱莉は窓際からこちらを見る。
しおんも静かに目を向ける。
「小鳥遊さん?」
凛が聞く。
「そう」
「……やっぱりね」
ことねが額に手を当てる。
「ましろちゃん、文化祭終わっても通常運転すぎる」
「“終わっても通常運転”はかなり強い」
朱莉が小さく笑う。
「だって、今もう完全に日常の廊下でしょ?」
「そう」
「そこへ自然に喉飴出してくるの、かなり生活寄りだよね」
「うん」
しおんが頷く。
「近い」
「それなんだよ!」
ことねが食いつく。
「文化祭中はまだ“準備だから”“本番だから”っていう理由あったじゃん。でも今はもう、ただの学校生活の中でそれやるんだもん」
恒一は、袋を机へ置いた。
「しかも、“私は隠してないので”って言ってた」
その一言で、前方の空気がまた少し変わる。
匿名の差し入れ主がいる。
その存在はずっと教室のどこかに残っている。
でもましろは違う。
名前を隠していない。
必要だと思ったから、見えているから、持ってきた。
「……それはまた強いなあ」
ことねが小さく言う。
「匿名のやさしさも強いけど、名前つきで生活に入ってくるのも別ベクトルで強い」
「うん」
凛が淡々と頷く。
「匿名は匿名で壊さない近さがあるけど、小鳥遊さんは“壊れてもいいから近い”じゃなくて、“最初から自分の位置を隠してない”感じ」
「朝霧さん、今の整理だいぶうまい」
「事実だから」
「最近ほんとその返し便利に使うよね」
「便利でしょ」
しおんが、静かに言った。
「小鳥遊さん、見てるだけで済まない人」
ことねが少しだけ黙ってから頷く。
「……それも強いんだよね」
文化祭が終わったあと。
特別な日が終わっても、近さが消えない。
むしろ、特別な理由がなくなってからのほうが、本当にその人がどんなふうに近いのかが見えてしまう。
◇
その日の帰り、恒一は鞄の中の喉飴の袋を少しだけ触った。
匿名のメモ。
名前のないやさしさ。
文化祭の余韻。
それらはまだ消えていない。
でも、その一方で、名前を出したまま当然のように日常へ入ってくる近さもある。
特別な日じゃなくても見てないとだめ。
小鳥遊ましろは、それを少しも気負わずに言ってしまう。
生活導線ヒロインは、イベント後も当然みたいに日常へ入ってくる。
そしてその近さは、文化祭の熱が冷めたあとほど、静かに効いてくるのだった。




