第88話 幼馴染は、文化祭が終わったあとほど昔との距離を測ってしまう
文化祭が終わった週の水曜日、放課後の空気は妙に薄かった。
窓の外はもう秋寄りの光で、校庭の端を歩く運動部の影が長い。教室の中にはまだ何人か残っていたが、文化祭前みたいに前方へ自然に人が集まる感じは、今日は少しだけ弱かった。
だからこそ、黒峰恒一は少しだけ拍子抜けしていた。
鞄へノートをしまい、机の中を確認して、何もないことを一応確かめる。そこまではもう半分癖だ。
立ち上がると、窓際で火乃森朱莉がカーテンを軽く整えているのが見えた。
「珍しいな」
声をかけると、朱莉が振り向く。
「何が」
「まだ残ってるの」
「黒峰にだけは言われたくない」
「今日は別に残る理由なかっただろ」
「そっちもでしょ」
それを言われると弱い。
朱莉は小さく笑ってから、窓の鍵を確認して鞄を持った。
「帰る?」
「帰る」
「じゃ、一緒だね」
その言い方は自然だった。
自然すぎて、逆に少しだけ意識した。
昔から、家の方向が同じだから一緒に帰ることはあった。
でも最近は、その“昔から”の中身が少しずつ変わっている。
◇
昇降口を出ると、夕方の風が少し冷たかった。
校門までの道を並んで歩く。
どちらからともなく会話が始まるまでに、少しだけ間があった。
「朝霧と何話してたの?」
先に聞いたのは朱莉だった。
「この前の放課後?」
「うん。教卓のとこで二人で残ってた日」
気づいていたのか、と少し思う。
でも、朱莉なら気づくだろうとも思う。
「文化祭の備品表の整理」
「だけ?」
「だけ、って何だよ」
「いや、別に」
朱莉は前を向いたまま、小さく肩をすくめた。
「朝霧って、そういう“ただの作業”の顔して、たまに中身もう一段ある時あるから」
「お前、その言い方だと人のこと言えないだろ」
「まあ、それはそう」
朱莉はあっさり認めた。
「で、実際は?」
「文化祭終わったあと、急に静かになったのが変だって話」
「……ああ」
その返し方が、妙にしっくりくる。
「火乃森も思うか」
「思うよ」
朱莉は即答した。
「むしろ、文化祭のあとだからこそ思う」
「あとだからこそ?」
「うん」
校門を出て、少し人通りの少ない道へ入る。
歩幅は自然に揃っていた。
「文化祭中ってさ」
朱莉が続ける。
「毎日やることあるじゃん。残る理由も、話す理由も、机動かす理由も、全部ちゃんとある」
「うん」
「でも終わったあとって、急にその理由なくなるでしょ」
「そうだな」
「なくなったのに、前より話すし、前より一緒にいる感じもあるし」
そこで朱莉は少しだけ笑った。
「だから、昔と今の差が目につく」
その言葉は、たぶんかなり本音だった。
◇
駅へ向かう大通りから一本入った道は、住宅街の匂いが濃い。
夕飯の支度の匂い。
犬の散歩をしている人。
遠くで自転車のブレーキが鳴る音。
そういう普通の帰り道の中で、朱莉はぽつりと言った。
「昔のあんたってさ」
「急だな」
「今さらでしょ」
「まあ、そうだけど」
「もっと、こう……人の輪の真ん中にいるタイプじゃなかったじゃん」
「ひどくないか」
「ひどいけど事実でしょ」
朱莉は笑う。
「別に一人が好きってわけでもなかったと思う。でも、“なんか面倒くさいから一歩引く”みたいなとこ、あったし」
「……否定しづらい」
「でしょ」
少しだけ沈黙が落ちる。
朱莉は、その沈黙ごと受け入れるみたいに、前を向いたまま言った。
「文化祭の時の黒峰って、ちゃんと中にいたんだよね」
「中?」
「うん。巻き込まれてるだけじゃなくて」
その言い方は、前に朱莉が言っていた“ちゃんとできる時はちゃんとできる”の延長みたいだった。
「入口で人流したり、備品運んだり、誰かと誰かのあいだ埋めたり。そういうの自然にやってたじゃん」
「やらないと回らなかったし」
「それが前と違うって話」
朱莉は少しだけ視線を落とした。
「昔のあんたなら、たぶん“なんで俺が”って顔で半分外に立ってたと思う」
「今も顔だけならしてた気がする」
「顔だけね」
朱莉が笑う。
「でも、ちゃんと残った」
「……まあ」
「それ見てると、ちょっと不思議なんだよ」
「何が」
「昔から知ってるのに、今のほうが“こういう人なんだ”って分かる感じ」
その言葉は、やわらかいのに少し重かった。
幼馴染だから、昔から知っている。
でも、知っていることと、分かっていることは違う。
それを今の朱莉は、ちゃんと自覚しているのだろう。
◇
「火乃森さ」
「ん?」
「それ、寂しいのか」
聞いてから、少しだけ踏み込みすぎたかと思った。
でも朱莉は怒らなかった。
少しだけ考えるみたいにして、それから答える。
「半分は」
「半分」
「昔から知ってるって、便利なんだよ」
朱莉は静かに言う。
「説明少なくても通じるし、変なところ見られても今さらだし、距離が近くても“幼馴染だから”で済むし」
「うん」
「でも、それだけだと足りない時もある」
風が少しだけ強く吹いて、朱莉の髪が揺れた。
彼女はそれを耳へかけながら、少しだけ苦笑した。
「文化祭やってるとさ、“昔から近い”だけじゃない距離がいっぱい見えるでしょ」
「……ことねとか、凛とか、しおんとか?」
朱莉はすぐには答えなかった。
でも、それが答えみたいなものだった。
「みんな、それぞれ違う近さあるし」
「うん」
「で、私は幼馴染っていう分かりやすい立場があるから、逆にそれだけに乗るのも違うかなって思ったりする」
やっぱり、この前の“幼馴染特権は使うの違う”の話と繋がっている。
「でも、昔からの距離があるのも本当だし」
「うん」
「だから面倒」
朱莉はそう言って、小さく笑った。
「かなり面倒」
「それは知ってる」
「知ってる顔しないでよ」
「してるだろ」
「してるけど」
そこで二人とも少しだけ笑った。
◇
信号待ちで足を止める。
赤信号の向こうを、小学生の集団が走っていく。
近くのコンビニから出てきた高校生が、文化祭のことをまだ話していた。
「……でも」
信号を見たまま、朱莉が言った。
「ちょっと安心したのも本当なんだよね」
「何が」
「黒峰が、ちゃんと中にいたこと」
その言い方は、前よりさらに静かだった。
「文化祭みたいな“やること多くて、人も多くて、空気も動く場所”って、放っとくと流されるか、外に立つかになりそうじゃん」
「まあ」
「でも、今回はそうじゃなかった」
信号が青に変わる。
歩き出しながら、朱莉は続けた。
「ちゃんとそこにいて、ちゃんと役に立ってた」
「役に立ってた、って何か変な感じだな」
「変でも本当」
朱莉はまっすぐ言う。
「昔から知ってると、どうしても“こいつ本当に大丈夫かな”って印象がどっか残るの」
「お前、俺のこと何だと思ってるんだよ」
「幼馴染」
「雑だな」
「でも、そういう“昔からの心配”みたいなのが、少し減った」
その一言が、やけに深かった。
安心した、というより、昔から持っていた不安が少し薄くなった。
たぶんそれが、今の朱莉のいちばん正確な気持ちなのだろう。
「……それ、ありがたいって言えばいいのか?」
恒一が聞くと、朱莉は少しだけ目を細めた。
「そういうとこ」
「何だよ」
「今の、けっこういい返し」
「褒めてるのか」
「半分」
「またそれか」
「便利だから」
それを言う時の朱莉の顔が、少しだけやわらかい。
◇
分かれ道が近づいてくる。
昔から、ここで別れることは何度もあった。
でも、今日のこの数分は、昔と同じようでいて少し違った。
「……なんか不思議だね」
朱莉が言う。
「何が」
「昔から同じ道歩いてるのに、前より今のほうがちゃんと話してる感じする」
その言葉に、恒一は少しだけ息を止めた。
まさに、さっきまで朱莉が言っていたことの答えみたいだった。
「昔から知ってるのに、今のほうが分かることあるんだね」
朱莉はそう言って、小さく笑った。
寂しさもある。
でも、それだけじゃない。
昔から近いことは、今の近さを邪魔するだけじゃなくて、今の変化をいちばんはっきり感じさせるものでもあるのだろう。
「……火乃森」
「ん?」
「それ、俺も少し分かるかも」
そう言うと、朱莉は一瞬だけ目を丸くした。
それから、少しだけ照れたように笑う。
「そっか」
「うん」
「じゃあ、今日はちょっといい日かも」
「文化祭終わったあとで?」
「終わったあとだから、でしょ」
その言い方が、ひどく朱莉らしかった。
幼馴染は、文化祭が終わったあとほど昔との距離を測ってしまう。
でも、その測り直しの中で、今のほうがちゃんと近いところも見つかるのだ。




