第87話 現実担当は、イベント後に一番先に喪失感へ気づく
文化祭が終わって三日目の放課後。
黒峰恒一は、教室の後ろ扉を閉めたあと、妙に静かな空気に少しだけ足を止めた。
部活へ向かう生徒たちはもうほとんど出ていっていて、廊下の向こうから聞こえる声もだいぶ遠い。夕方の光は斜めに差し込み、窓際の机の脚が長く影を引いている。
文化祭前なら、この時間の教室には何かしら理由があった。
札の位置を見る。
布を仮で垂らす。
買い出しのメモを詰める。
景品を選ぶ。
誰かが何かを持ってきて、誰かが何かを直して、気づけば前のほうに人が集まっていた。
でも今日は、本当に何もない。
何もないはずなのに、教卓の横に一人残って、書類を広げている人がいた。
「……まだやってたのか」
恒一が声をかけると、朝霧凛は手元の紙から顔を上げた。
「あ、黒峰」
「何してる」
「文化祭関係の最終整理」
凛はそう言って、プリントの束を軽く持ち上げた。
「備品表と、使った分の収支の確認。あと先生に出す簡単なまとめ」
「まだあったのかよ」
「あるよ。むしろ本番終わったあとに出る事務のほうが地味に多い」
その言い方は、ひどく朝霧凛らしかった。
文化祭が終わったあとでも、一番最初に“終わりの形”を見にいくのはたぶんこの子なのだろう。
「手伝う?」
恒一が言うと、凛は一瞬だけ目を細めた。
「いいの?」
「お前、たぶん断る時はすぐ断るだろ」
「まあ、それはそう」
凛は少しだけ考えてから、教卓の前の席を顎で示した。
「じゃあ、その残った備品数とこのメモ合ってるか見て」
「了解」
席を引いて座る。
紙には、文化祭で使ったものの名前と数量が整った字で並んでいた。テープ、画鋲、紐、和紙、景品札、飾り用の小物、予備のインク、返却済み、未返却。凛の字はいつも通り読みやすくて、余計な癖がない。
「……こういうのちゃんとやるなあ」
恒一が言うと、凛はペンを走らせながら答える。
「やらないと最後に気持ち悪いし」
「それで残ってたのか」
「うん」
少し間が空く。
「文化祭終わったのに、こういうのだけ残ってると、逆に終わった感じしなくない?」
恒一が聞くと、凛のペン先が一瞬だけ止まった。
「……そうかも」
その返答が、思ったより遅かった。
恒一は顔を上げる。
凛は、紙を見ている。
でも、その視線は少しだけ紙を通り過ぎていた。
「朝霧?」
「なに」
「今の、ちょっと本音っぽかったな」
「今日そういうの多いね、黒峰」
「見えるから仕方ないだろ」
凛は小さく息を吐いて、ペンを置いた。
「……片付け終わったら、急に暇になった」
その言葉は、ひどく静かだった。
「文化祭中は、やること多すぎて、余計なこと考える余裕なかったのに」
「うん」
「終わったら、“あ、今日もう確認することないんだ”ってなるじゃん」
「なるな」
「それが、ちょっと変」
凛はそこで少しだけ笑った。
苦笑いに近い。
でも、誤魔化しきれていないやつだ。
「私、文化祭の準備って、正直面倒なことのほうが多いと思ってたんだよね」
「最初からそう言ってたしな」
「うん。実際、面倒だったし」
凛は指先で紙の端を揃える。
「でも、面倒なのに毎日あって、そのたびに前のほうで誰かがいて、何かしら決めなきゃいけなくて」
「……うん」
「それが急になくなると、思ってたより静か」
教室の中に、短い沈黙が落ちる。
外ではまだ部活の声がしている。
でも、その音が逆にこの教室の静かさを強調していた。
「朝霧ってさ」
恒一が言う。
「ん?」
「そういうの、意外と引きずるんだな」
凛は一瞬だけむっとした顔をした。
「意外と、って何」
「いや、もっとこう……」
「もっとこう、何」
「切り替え早いと思ってた」
「早いよ」
即答だった。
でも、その即答のあとに自分で少しだけ苦笑する。
「早いけど、ゼロではないってだけ」
「なるほど」
「そういうところだけ、妙に納得した顔するよね」
「分かりやすかったから」
「うるさい」
でも、その“うるさい”にはあまり棘がなかった。
◇
二人でしばらく文化祭の残りの事務を進めた。
備品数を確認して、使わなかったものに丸をつけ、返却済みの欄を埋める。
やっていることは地味だ。
でも、その地味な作業だからこそ、会話も少しずつ本音寄りになる。
「これ、文化祭前の私が見たら嫌がりそう」
凛がぽつりと言う。
「何が」
「終わったあとに、まだ残って整理してるこの状況」
「嫌なのか?」
「前なら、“なんでそこまでやるの”って思ってたかも」
「今は?」
凛は、少しだけ視線を落とした。
「今は、これやってるとまだ少しだけ続いてる感じするから、嫌じゃない」
その言い方は、驚くほど素直だった。
「……朝霧」
「なに」
「今日ほんとに本音多いな」
「多いかも」
凛は否定しなかった。
「文化祭終わって、打ち上げも終わって、やっと静かになったからじゃない?」
「静かになると、そうなるのか」
「なるんじゃない」
凛は少しだけ肩をすくめる。
「忙しい時は、“今これやる”で埋まるから。静かになると、何が残ってるか見えるし」
その“何が残ってるか”の中には、文化祭の余韻だけじゃないものも含まれている気がした。
ことねの明るさ。
朱莉の静かな近さ。
しおんの空気の読み方。
そして、自分が自然と前のほうへ残るようになったこと。
でも今は、そこへ踏み込みすぎないほうがよさそうだった。
「じゃあ」
恒一は紙を一枚持ち上げる。
「今これやる、でいこう」
「そうだね」
凛が頷く。
「そのほうが楽」
「結局そこか」
「そこだよ」
それから少しだけ笑った。
「でも、黒峰が来てくれて助かったのは本当」
「また急に言うな」
「今日そういう日だから」
「便利だなその言い方」
「便利でしょ」
凛は、今度は少しだけ目元をやわらげた。
◇
整理は思ったより早く終わった。
最後の欄へ日付を書き込み、凛がプリントを重ねる。
文化祭関連の紙の束は、それでようやく一まとまりになった。
「終わった」
凛が言う。
「お疲れ」
「お疲れ」
そのやり取りも、前より自然だった。
教卓の前の席から立ち上がる。
窓の外はもうだいぶ暗い。
教室の中の蛍光灯だけが、白く静かに机を照らしている。
「なあ」
凛が、プリントを抱え直しながら言った。
「ん?」
「次、何か理由ないとこんなに話さないんだろうね」
その言い方は、軽くなかった。
でも、重くしすぎてもいなかった。
ただ、静かに本当のことを置いた感じだ。
恒一は少しだけ考える。
文化祭という大きな理由はもうない。
でも、ここ数日の感じを思い返すと、“理由がないと話さない”とまでは言い切れない気もする。
「……そうでもないかも」
そう答えると、凛がゆっくり顔を上げた。
「え」
「いや、文化祭前ならそうだったかもだけど」
「うん」
「今は、なくても前に行くだろ。昼とか、放課後とか」
凛はしばらく黙っていた。
その沈黙は気まずいものではなくて、ただ言葉が届いたあとに少しだけ考えるためのものだった。
「……そうだね」
やがて、そう言う。
「今は、たしかにそうかも」
それから、少しだけ笑った。
「黒峰って、たまにそういうところだけちゃんと見るよね」
「褒めてるのか?」
「半分」
「またそれか」
「便利だから」
二人で少しだけ笑う。
文化祭が終わって、打ち上げも終わって、ようやく静かになった放課後。
現実担当は、その静けさの中で一番先に喪失感へ気づく。
でも同時に、その静けさの中に“前と少し違う日常”もちゃんと見つけてしまうのだろう。
「じゃ、先生に出してくる」
凛が言う。
「おう」
「黒峰も帰る?」
「たぶん」
「たぶん、ね」
凛は少しだけ笑った。
「その“たぶん”前より好きかも」
「なんで」
「少し残る感じがするから」
そう言って、凛はプリントを抱えたまま教室を出ていった。
その背中を見送りながら、恒一は小さく息を吐く。
文化祭のあと、急に暇になると、人は思っていたより正直になる。
それを、黒峰恒一は今日、朝霧凛の静かな本音で知った。




