第86話 イベントのあと、急に静かになると人は変に意識する
打ち上げの翌週に入ると、星ヶ峰学園は驚くほどあっさり元の速度へ戻った。
文化祭前には廊下の壁を埋めていた色とりどりの掲示物も、週明けの朝にはほとんど外されている。教室の前を通る生徒の足取りも、もう「今日は何を見に行こう」ではなく「次の授業に間に合うかな」の速さだ。
体育館の前に残っていた立て看板も片づけられていて、校内全体が、まるで数日前の熱なんて最初からなかったみたいな顔をしている。
でも、その“なかったみたいな顔”が、黒峰恒一にはむしろ不自然に見えた。
「……早いな」
一時間目の前、誰に言うでもなくそう漏らす。
「何が?」
すぐ横から返ってきたのは、夢咲ことねの声だった。
振り向く。ことねはいつもの制服姿で、今日も前髪の流れだけ少し丁寧に整っている。文化祭の時みたいな気合いの入った感じではない。でも、何もなかった頃の“いつものことね”よりは、ほんの少しだけ目元が柔らかい気がした。
「文化祭の空気、消えるの」
「あー」
ことねは少しだけ笑って、自分の席へ鞄を置いた。
「それ、私も朝思った」
「やっぱりか」
「だってさ、昨日まで打ち上げの余韻でまだ続いてる感じあったのに、今日来たら校内が普通すぎるんだもん」
ことねは窓の外を見た。
「なんか、置いてかれたみたいじゃない?」
「置いてかれた、か」
「うん。こっちはまだ少し引きずってるのに、学校側はもう“次です”って顔してる感じ」
その表現が妙にしっくり来て、恒一は小さく頷いた。
「それは分かる」
「でしょ?」
ことねは少しうれしそうに目を細めた。
「黒峰くん、こういう時の“分かる”けっこうちゃんと効くんだよね」
「知らないところで勝手に効かせるな」
「効くものは効くの」
その会話のすぐ後ろで、凛が席に座りながら言った。
「朝からしんみりしすぎ」
「朝霧さんは何も思わないの?」
ことねが聞くと、凛は一瞬だけペンを止めてから答えた。
「思わないわけじゃない」
「ほら」
「でも、文化祭終わった翌週なんだから当たり前でしょ」
「その“当たり前”で流す感じがさあ」
「夢咲さんが大げさなんだよ」
そう言いながらも、凛が今日はいつもより少しだけ朝の会話に付き合っているのを、恒一は見逃さなかった。
◇
その日の授業は、やたらと長く感じた。
文化祭のあとだからといって、先生たちは容赦しない。
数学は小テストの返却から始まり、現国は範囲が普通に進み、英語は単語テストで半分以上のクラスメイトが静かに死んでいた。
その間、恒一は何度か無意識に前方の席を見た。
ことねは普通にノートを取っている。
凛はいつも通りきっちり板書を写している。
朱莉は静かに授業を聞いているし、しおんはたぶんちゃんと聞いているのに表情があまり変わらない。
全部いつも通りに見える。
でも、自分のほうが勝手に“文化祭のあと”というフィルターを通して見てしまっている感じがあった。
昼休みになって、自然と前のほうへ足が向く。
行こうと思ったわけでもないのに、気づけばそうなっている。
「……ほんとに前来るんだね」
ことねが、弁当箱を置きながら笑った。
「お前もだろ」
「私もだけど」
ことねは椅子を引いて座る。
「なんかこう、文化祭終わったのにまだ“前方集合”の癖が抜けない感じある」
「癖って言い方」
凛が聞いて、少しだけ呆れた顔をする。
「でも実際そうでしょ」
「まあ、そうだけど」
朱莉が小さく言った。
「打ち上げのあとで一回切れるかと思ったけど、切れないね」
「切れないねえ」
ことねはストローを弄びながら言う。
「これ、よく考えるとちょっと変だよ。文化祭準備っていう“会う理由”はもうないのに、普通に前来て話してるし」
その言葉に、恒一はほんの少しだけ引っかかった。
理由。
文化祭準備の間は、毎日会う理由があった。
やることがある。確認することがある。残る理由がある。
でも今は、それがない。
ないのに話している。
しおんが静かに言う。
「でも、昨日打ち上げで話したばかりだから、今日急に離れるほうが変かも」
「雪代さん、そういう返し上手いよね」
ことねが笑う。
「変にしんみりさせないまま本質言う感じ」
「本質?」
「うん。“急に離れるほうが変”って、かなり本質」
ことねは少しだけ真面目な顔になる。
「だって、たしかにそうなんだよね。文化祭前の私たちなら、別に昼休みにここで毎日しゃべってなくても普通だったし」
「今は少し違う」
しおんが言う。
「うん」
ことねは頷いた。
「今はちょっと、違う」
その“違う”の中身を、誰もきちんと言葉にしない。
でも、みんな分かっている感じがあった。
◇
放課後。
その日は委員会もなく、文化祭の残作業もなく、本当に何もない放課後だった。
だからこそ、逆に落ち着かなかった。
帰ろうと思えばすぐ帰れる。
でも、すぐ立ち上がるのがなぜか少し不自然に感じる。
恒一は机の中をざっと整理して、特に必要のないプリントを鞄へ押し込んだ。
そのあと、何となく前を見る。
ことねは、窓際の席でスマホを見ていた。
凛は教卓の近くで配られたプリントを折っている。
朱莉は鞄のチャックを閉めたところで、まだ立っていない。
しおんは窓の外を見ている。
誰も、はっきりと残る理由を言わない。
「……ねえ」
ことねが、スマホから顔を上げた。
「ん?」
恒一が返す。
「最近さ」
「うん」
「会う理由がないと、ちょっと困るね」
その言い方は冗談っぽかった。
でも、冗談だけでもなかった。
前に文化祭が終わった日の教室で、似たようなことを言っていたのを思い出す。
あの時より、今日は少しだけ声が小さい。
「何だよ、それ」
恒一が言うと、ことねは少しだけ肩をすくめた。
「だって、文化祭前からずっと、何かしら理由あったじゃん。今日は買い出し、明日は札、明後日は灯り、みたいな」
「まあ、あったな」
「打ち上げまでは“その続き”って感じしたし」
「うん」
「でも、今日からはほんとにないんだよね」
ことねは机に肘をついて、少しだけ視線を落とした。
「ないのに、なんか……」
「なんか?」
「話したい時、ちょっと困る」
その言い方が、妙にまっすぐだった。
凛が、教卓の近くからちらっとこっちを見る。
朱莉も少しだけ動きを止める。
しおんは窓の外から視線を戻した。
「……夢咲さん、今日だいぶ素直だね」
凛が言う。
「そうかな」
「そう」
凛は短く答えた。
「でも、分からなくはない」
「朝霧さんも?」
「うん」
そこで、凛は少しだけ間を置いた。
「文化祭の間は、会う理由が勝手にあったから」
「うん」
「それがなくなると、逆に“じゃあ何もない日は話さないの?”って感じになる」
ことねが目を丸くする。
「……朝霧さん、それけっこう本音じゃん」
「今日はそういう日なんでしょ」
「便利だなあ、その逃げ方」
でも、ことねは少しだけうれしそうだった。
朱莉が小さく笑う。
「私もわかるよ」
「火乃森さんまで」
「うん。毎日残りたいとかじゃないけど」
朱莉は、鞄の持ち手を指先でいじりながら続けた。
「“はい、文化祭終わったから解散”って感じで元の距離に戻るほうが、今は少し変」
その言葉に、しおんが静かに頷く。
「今のほうが、少し自然」
「雪代さんのその“少し自然”って、なんかすごいな」
ことねが言う。
「私はもうちょっと大げさに困ってる感じなんだけど」
「夢咲先輩は、困ってるのが見えやすい」
しおんの返しは穏やかだ。
でも、ちゃんと刺さる。
「うう……」
ことねが机に額をつきそうになる。
「最近ほんと、みんな観察力高いよね」
「文化祭で鍛えられたんじゃない?」
朱莉が言う。
「誰がどこで止まるとか、誰が何で困るとか、ずっと見てたし」
「それは、あるかも」
恒一も思わず言った。
文化祭前なら、こんなに誰かの細かい変化を拾えていたかは怪しい。
でも今は、ことねの声のトーンひとつ、凛の間の置き方ひとつ、朱莉が笑う時の温度、しおんが視線を向けるタイミングまで、前よりずっと見えてしまう。
「じゃあさ」
ことねが、少しだけ顔を上げた。
「何もなくても、少し話してから帰る?」
「それ、この前も言ってたな」
恒一が言う。
「だって、このまますぐ帰るのもなんか変じゃん」
「夢咲さん、それほぼ“用事はないけどまだいたい”って言ってるのと同じ」
凛が言う。
「うるさいなあ……」
ことねは小さく笑った。
「でも、まあ、そういうことかも」
そこまで素直に認められると、逆に笑うしかない。
恒一は前の席へ座り直した。
「じゃあ、少しだけな」
ことねが、その言葉だけで少し顔を明るくする。
「うん」
短い返事。
でも、その一音で十分だった。
◇
結局、その日も前方の席で少しだけ話してから帰ることになった。
文化祭の写真の話。
打ち上げで誰が何を食べたか。
いろはの“今日も顔がいい”がもはや挨拶として定着し始めている件。
ひよりが「文化祭のあとだからこそ、普通のものの良さも分かるようになりました」と相変わらずよく分からない真顔で言っていた話。
全部、なくても困らない会話だ。
でも、今はそれがちょうどよかった。
「なんか、こういうのもありかも」
ことねが帰り支度をしながら言った。
「こういうのって?」
恒一が聞く。
「何もない日の放課後」
ことねは少しだけ笑う。
「前は“何もないなら帰るだけ”だったけど、今は“何もないけどちょっと話す”が自然になってきた感じするし」
「それ、前より近いってことでは」
凛が言う。
「うわ、朝霧さん、またさらっとそういうこと言う」
「本当でしょ」
「本当だけど!」
ことねは笑って、それから少しだけ声を落とした。
「でも、嫌じゃない」
その一言が、放課後の教室にやわらかく残った。
イベントのあと、急に静かになると人は変に意識する。
でも、その静けさの中で“何もなくても話していたい”と思うなら、たぶんそれはもう、前と同じ距離ではないのだろう。




