第85話 解散したあとに、誰と帰るかでまた少し空気が変わる
打ち上げが終わる頃には、駅前の空気はすっかり夜のものになっていた。
ファミレスの自動ドアが開くたびに、店内の温度と外の少し冷えた空気が入れ替わる。文化祭帰りらしい制服姿の生徒たちもまだちらほら見えるが、昼間の高揚感はもうなくて、どこか「楽しかったもののあと」の静けさが街にも薄く降りていた。
「はー……食べた」
夢咲ことねが店の前で伸びをする。
「なんか、やっとほんとに終わった感じする」
「ファミレス出た瞬間に?」
恒一が言うと、ことねは笑った。
「だって、打ち上げまででセットじゃん。文化祭って」
「それはまあ、わかる」
朱莉が小さく頷く。
「片付け終わっても、まだ少し残ってたし」
「ね」
ことねはそう言って、駅前のロータリーのほうを見た。
帰る方向はそれぞれ少しずつ違う。
電車のやつもいれば、途中まで歩きのやつもいる。
いつもなら、「じゃあまた」で自然にばらけるはずだ。
でも今日は、その“自然にばらける”までに、ほんの少しだけ間があった。
誰が誰とどの方向へ行くのか。
どこまで一緒なのか。
そこに意味を足したいわけじゃない。
でも、少しだけ気になる。
そんな空気が、駅前の街灯の下にぼんやり浮いていた。
「じゃあ、ここで一回解散かな」
凛が言った。
言い方はいつも通りだ。
でも、その“解散かな”のあとにほんの一拍だけ間があったのを、恒一は聞き逃さなかった。
「うん、まあ、そうだね」
ことねが返す。
「みんな帰る方向違うし」
その言葉も正しい。
正しいのに、やけに確認みたいに聞こえる。
「黒峰くん、家こっちだっけ?」
ことねが、できるだけ何でもない顔で聞いてきた。
「駅の向こう側」
「あ、じゃあ一緒じゃないか」
言ったあとで、ことねはほんの少しだけ自分の声の自然さを確認するみたいに瞬いた。
その“自然に聞いたつもり”の感じが、妙にことねらしい。
「途中までは一緒かも」
恒一が答えると、ことねの顔が一瞬だけ明るくなりかける。
だが、その直後。
「私も駅の向こうだよ」
凛が、静かに言った。
ことねの表情が一瞬だけ止まる。
ほんの一瞬だけだ。
でも、止まった。
「……あ、そうなんだ」
「うん。ちょっと遠回りになるけど、そのまま大通り沿いで帰るし」
凛の言い方は、本当にただの事実説明みたいだった。
でも、今このタイミングでその事実が出ること自体が、少しだけ強い。
「私は駅の手前で曲がる」
朱莉が言う。
「途中までなら一緒かな」
「うわ、なんか一気に一緒だな」
ことねが半分笑って半分困った顔をする。
しおんが、その少し後ろで静かに言った。
「私は駅まで」
そこまで聞いて、ことねが小さく吹き出す。
「待って待って。今の流れだと、むしろ一人になる人のほうが少ないじゃん」
「最初からそうなると思ってたけど」
凛が言う。
「朝霧さん、その“思ってた”をもっと早く言ってよ」
「言ったら夢咲さん、変に意識するでしょ」
「今もしてるみたいな言い方やめて!」
「してるんじゃないの?」
その返しが、やたら静かに刺さったらしい。
ことねが一瞬だけ黙り、それから「……うるさい」と小さく返した。
朱莉が、少しだけ笑う。
「ことね先輩、今日ちょっとわかりやすすぎる」
「火乃森さんまでそういうこと言う?」
「でも、さっきから普通にそうだし」
「今日みんなほんと容赦ない!」
それで空気が少しだけやわらいだ。
◇
結局、駅前からしばらくは五人で歩く流れになった。
ことね、凛、朱莉、しおん、恒一。
打ち上げ帰りの制服姿が夜の道へ混ざる。
ファミレスの明るさから離れると、街灯の下の会話は少しだけ落ち着く。みんなさっきまで笑っていたはずなのに、歩きながらの声は自然と小さくなっていた。
「なんか、変な感じだね」
ことねが言う。
「何が」
恒一が聞く。
「文化祭終わって、打ち上げも終わって、もうほんとに解散していいはずなのに、まだちょっと終わってない感じ」
「それはわかる」
朱莉が頷いた。
「店の中より、こうやって帰る途中のほうが終わりっぽい」
「たしかに」
凛も短く同意する。
「打ち上げって、出たあとに少し静かになる時間まで含めてかも」
「朝霧さん、それ今日ちょっと詩的だよ」
ことねが笑う。
「別に」
「いや、今のはかなりそうだったって」
しおんが、少しだけ夜空を見上げる。
「今日は、みんな声が落ちてる」
「そりゃね」
ことねが言う。
「もう店の中みたいに騒ぐ感じじゃないし」
「ううん、そうじゃなくて」
しおんは静かに続ける。
「疲れてるのと、終わるのが少し寂しいのが混ざってる」
その表現があまりにも正確で、誰もすぐには返せなかった。
しばらく歩く。
信号待ち。
車の音。
夜の風。
文化祭の時は、何かしらやることがあった。
打ち上げの席でも、誰かが喋っていた。
今はただ、同じ方向へ少しずつ歩いているだけだ。
その“ただ歩いているだけ”が、前より少し近い。
◇
最初に分かれるのは、朱莉だった。
「じゃ、私はここ」
小さな交差点のところで、朱莉が足を止める。
「あ、もう?」
ことねが言う。
「うん。うちこっちだから」
「そっか」
ことねは少しだけ残念そうに笑った。
朱莉はその顔を見て、少しだけ肩をすくめる。
「そんな顔しなくても、月曜また会うでしょ」
「それはそうなんだけどさ」
「でも、今日の“ここで別れる感じ”がちょっと寂しいんでしょ?」
凛が言う。
「朝霧さん、ほんとに今それ言う?」
「だって本当だし」
「ほんとに最近それ多いな……」
小さく笑いが起きる。
朱莉は、その空気が少しだけ好きだった。
「じゃあまたね」
そう言って歩き出しかけて、ふと振り返る。
視線の先には、恒一がいた。
「黒峰」
「ん?」
「今日は来てよかったよ」
短い一言。
でも、それだけで十分だった。
「……おう」
恒一が答えると、朱莉は少しだけ笑った。
「じゃ、また」
そう言って今度こそ曲がっていく。
その背中を見送りながら、ことねが小さく言った。
「火乃森さん、最後だけちょっと強いよね」
「最後だけじゃない」
凛が言う。
「前から強いでしょ」
「でも、最後に残す言い方がうまいっていうか」
「それはわかる」
恒一も、少しだけそう思った。
◇
次に別れたのは、しおんだった。
駅前の広い歩道に出て、改札へ向かう流れの少し手前で、しおんが立ち止まる。
「私はここ」
「駅までじゃなかった?」
ことねが聞くと、しおんは頷いた。
「うん。でも、こっちの入口だから」
「ああ、そっか」
しおんは少しだけみんなを見て、それから恒一へ視線を向けた。
「今日は、ちゃんと終わった感じする」
「打ち上げまで含めてか?」
「うん」
「そっか」
「でも、まだ少しだけ続いてる感じもある」
その言葉は、文化祭のあとをずっと言葉にしてきたしおんらしかった。
「何が」
ことねが聞く。
「距離」
しおんは静かに答えた。
「前より、話すの自然だから」
ことねが一瞬だけ黙る。
凛も、小さく目を伏せる。
その沈黙ごと、しおんはもう見抜いている感じがした。
「じゃあ、また月曜」
しおんはそう言って、ほんの少しだけ笑った。
「おやすみ」
その言い方が、やたら静かでやさしかった。
◇
残ったのは、ことねと凛と恒一。
三人で歩く。
駅前を越えて、少し人通りの少ない道へ入る。
「なんか」
ことねが言う。
「ここまで残ると、逆に微妙だね」
「何が」
凛が聞く。
「誰がどこまで一緒なんだろう、って感じ」
「それ、さっきからずっと自分で空気増やしてるだけでは」
「朝霧さんさあ!」
ことねが抗議する。
「そういう正論、夜道で言うとちょっと刺さるんだって」
「でも本当でしょ」
「本当だけど!」
その“本当だけど”が、ことねの正直さだった。
少しして、ことねの家へ向かう分かれ道が見えてくる。
「あ、私ここだ」
足を止める。
「うん」
「じゃあ、また月曜」
そう言いながらも、ことねはすぐには動かない。
少しだけ、視線が恒一のほうへ寄る。
そのあと凛を見る。
また恒一を見る。
「……なんかさ」
「ん?」
恒一が聞く。
「今日、打ち上げ行ってよかった」
「またそれか」
「またそれ」
ことねは少し笑った。
「でも、本当にそう。文化祭終わったあとって、なんかそのまま解散すると寂しさだけ残りそうだったし」
「それはわかる」
「でしょ?」
ことねは少しだけうれしそうに目を細める。
「だから、今日はちゃんと“終わったあと”まで一緒に過ごせてよかった」
その言い方は、やっぱりことねらしかった。
まっすぐで、少しだけ照れが混ざっていて、でもちゃんと本音だと分かる。
「……じゃあね」
最後にそう言って、ことねはようやく自分の道へ入っていった。
少しだけ、名残惜しそうな足取りだった。
◇
残ったのは、凛と恒一だった。
数歩分、夜の道を並んで歩く。
「……結局こうなるんだ」
恒一が言うと、凛が小さく笑った。
「何が」
「最初に“別にみんなで行けば”って言ってたやつ」
「だって結果的にはそうなったでしょ」
「最後は違ったけど」
そう言うと、凛は少しだけ視線を逸らした。
「……まあ、それは」
「それは?」
「帰る方向まではどうしようもないし」
その言い方が、少しだけ凛らしくなかった。
言葉を切って、必要以上を言わないようにしている感じ。
「お前、最初から途中まで一緒だって分かってたろ」
「分かってたよ」
「じゃあなんで、あんなに駅前集合にこだわったんだ」
凛は少しだけ黙って、それからため息みたいに息を吐いた。
「……そこで変な意味増やしたくなかったから」
その答えは、妙に素直だった。
「今だって十分増えてるけど」
「それは、もう仕方ない」
凛は少しだけ苦笑する。
「でも、最初から“誰と行くか”を作りにいく感じになるのは嫌だった」
「なるほどな」
「夢咲さんも、火乃森さんも、たぶん少しは同じこと思ってたでしょ」
「それはそうかも」
「だから、駅前までは公平でいたかった」
その“公平”という言葉が、いかにも凛だった。
誰か一人が得する流れを、無意識に作りたくなかったのだろう。
それはたしかに凛らしい。
「……朝霧って、そういうとこ真面目すぎるな」
恒一が言うと、凛は少しだけ笑った。
「今さら?」
「今さらか」
「今さらだよ」
それから、少しだけ間が空く。
「でも」
凛が、小さく続けた。
「公平にしたかったのは本当だけど、最後まで一緒なのが嫌だったわけじゃない」
夜道の中で、その一言は妙に静かだった。
恒一は、すぐには返せなかった。
「……そういうの、たまに不意打ちだよな」
ようやくそう言うと、凛はほんの少しだけ目を細めた。
「黒峰にだけは言われたくない」
「なんで」
「自覚ないとこでそういう返しするから」
そのやり取りが、やけに自然だった。
◇
家へ帰ってから、恒一は鞄を下ろして少しだけ天井を見た。
打ち上げは終わった。
文化祭も終わった。
でも、たぶん本当に変わったのは、そのあとだ。
誰と帰るか。
どこまで一緒か。
たかがそんなことのはずなのに、今日は妙に一つ一つが残った。
ことねの、途中まででも一緒だったことへのうれしそうな顔。
凛の、“公平にしたかった”という真面目さ。
朱莉の、最後にきちんと残していく言葉。
しおんの、まだ少し続いていると言った静かな声。
解散したあとに、誰と帰るかでまた少し空気が変わる。
文化祭が終わっても、距離の変化だけはまだちゃんと続いていた。




