第84話 笑っている打ち上げの最中ほど、たった一瞬の沈黙が気になる
ファミレスの店内は、少しずつ夜の色へ移っていた。
窓の外の空はもう暗く、ガラスに映る店内の光のほうが強い。クラスの打ち上げの卓は相変わらず賑やかで、あちこちで文化祭の裏話や写真の見せ合いが起きている。笑い声も大きい。ドリンクバーへ立つたびに椅子が引かれ、料理の皿が空になっていく。
なのに、そういうにぎやかな時間の中に限って、黒峰恒一は妙に静かな瞬間ばかりを拾ってしまっていた。
◇
「黒峰くん、ちょっとそれ取って」
最初の“残る瞬間”は、ことねだった。
テーブルの真ん中に置かれたポテトの皿の向こう。
ことねがケチャップを指差している。
「これ?」
「そうそう」
恒一が手を伸ばして渡すと、ことねは「ありがと」と笑ったあと、急に少しだけ声を落とした。
「……今日さ」
「ん?」
「ちゃんと来てくれてよかった」
その言い方が、思ったより静かだった。
周りではまだ誰かが大きな声で笑っている。
でも、その卓の端だけ、ほんの一瞬だけ別の空気になった。
「そんなの、行くって言っただろ」
「言ったけどさ」
ことねはケチャップを開けながら、小さく肩をすくめた。
「打ち上げって、なんか微妙に別腹じゃん」
「別腹?」
「文化祭そのものとは別の意味で」
ことねは少しだけ笑う。
「当日来るのと、終わったあとに来るのって、ちょっと違う感じするし」
その感覚は、たぶん分かる。
文化祭の当日は役割がある。
でも打ち上げは、役割がほどけたあとの時間だ。
「だから、来てくれてよかった」
ことねはそう言って、それ以上は深くしないようにポテトへケチャップをつけた。
その“深くしない”感じが、逆にことねらしかった。
◇
少しして、ドリンクバーへ立つ流れになった。
「黒峰、行くなら今一緒に行く?」
凛が、グラスを手にしたまま聞いてきた。
「おう」
ファミレスのドリンクバー前には、打ち上げ帰りらしい別の制服の集団までいて、思った以上に混んでいた。並んで待つ。氷の音。炭酸の音。機械の低い動作音。
「……疲れた?」
不意に、凛が聞いた。
「少しは」
「だよね」
凛はグラスを持ち直す。
「文化祭のあと、そのまま打ち上げだし」
「お前は?」
「疲れたよ。普通に」
即答だった。
でも、そこで終わらずに小さく続ける。
「でも、こういう疲れ方は嫌いじゃないかも」
恒一がそちらを見ると、凛は少しだけ視線を逸らした。
「何」
「いや、珍しいなって」
「何が」
「そういうこと言うの」
凛は少しだけ苦笑する。
「今日は言う日なんじゃない?」
「またそれか」
「便利だから」
その返しに、思わず少し笑う。
ドリンクが注がれる音の合間に、凛がもう一度だけ小さく言った。
「文化祭、終わってよかったし、ちゃんと回ってよかったし」
「うん」
「そのあとでこうやって座ってるのも、たぶん悪くない」
その声は静かだった。
でも、混んだドリンクバーの前だからこそ、逆にはっきり聞こえた。
「……お前、それ本音だろ」
「本音だけど?」
凛は少しだけ首を傾ける。
「何かおかしい?」
「いや、別に」
「ならいい」
そう言って、凛はドリンクの入ったグラスを持ち上げた。
その横顔が、文化祭の時より少しだけ力が抜けて見えた。
◇
席へ戻る途中、朱莉と目が合った。
朱莉は自分の前の皿を少し横へ寄せて、空いたスペースへスマホを置いていた。どうやら文化祭の写真を見ていたらしい。
「何見てんの」
恒一が聞くと、朱莉はスマホの画面を少しだけ見せてきた。
映っていたのは、文化祭当日の教室の入口だった。
灯り。
札。
少し立ち止まっている来場者。
そして、その少し奥に立っている恒一の後ろ姿。
「誰が撮ったんだこれ」
「ことね先輩」
「勝手にいろいろ撮ってるな」
「広報担当だからね」
朱莉はそう言ってから、ほんの少しだけ目を細めた。
「昔はさ」
「うん」
「こういうの、一緒にやるとか想像してなかった」
その一言が、妙に胸へ入ってくる。
「文化祭?」
「うん。文化祭もそうだし、そのあとにこうやって打ち上げで写真見てるのも」
朱莉は笑った。
でも、その笑いはいつもの軽いものじゃない。
「だって、昔の黒峰ってもっと……なんていうか」
「なんだよ」
「こういうのから半歩ずれてるイメージあったし」
「ひどいな」
「ひどいけど、ほんとでしょ」
否定しにくいのが困る。
朱莉はスマホを伏せて、少しだけ視線を落とした。
「でも、今はこういうとこ普通にいるんだなって思って」
「それ、悪い意味か?」
「ううん」
朱莉はすぐに首を振る。
「むしろ、いい意味」
それから、小さく息を吐く。
「なんか、ちょっと不思議なだけ」
その“不思議”の中に、懐かしさと今の距離感が両方混ざっているのが分かった。
◇
しおんは、卓のいちばん端で静かに食後の飲み物を飲んでいた。
周りの会話は続いている。
ことねがクラスの女子たちと文化祭の失敗談で笑っていて、凛は誰かに「それ、完全に計算ミスでしょ」と返している。いろはが途中参加してきて、「今日の“終わったあとにまだ少し熱が残ってる顔”かなりいい」といつもの調子で場をかき回したあと、なぜか普通にパフェを食べ始めていた。
そのにぎやかさの中で、しおんだけは少しだけ時間の流れが違うみたいだった。
「雪代」
恒一が声をかけると、しおんはゆっくりこちらを見た。
「ん」
「静かだな」
「聞いてる」
「何を」
「今の音」
その答えが、しおんらしい。
「どんな音だよ」
「終わったあとに、まだ少し文化祭の続きみたいな音」
しおんはグラスに落ちた氷を、視線だけで追いながら言う。
「笑ってるけど、少し疲れてる。楽しかったって言いながら、ちょっと寂しい」
「……全部聞こえるのか」
「たぶん」
しおんは少しだけ目を細めた。
「黒峰くんも、今日はそういう音してる」
「音、か」
「うん」
「どんな」
「ちゃんと楽しかったけど、まだ終わりきってない感じ」
その言い方が、文化祭そのものにも、匿名のメモにも、今の自分の気持ちにも少しずつ重なって聞こえる。
「雪代って、そういうのほんとよく拾うな」
「文化祭のときも、いっぱい聞いてたから」
しおんはそう言って、小さく笑った。
「今日は、その続き」
その笑い方と、短い言葉だけが、なぜか妙に頭へ残った。
◇
途中で、ことねが大きな声を上げた。
「ねえ、これ見て!」
みんなが自然にそちらを見る。
ことねのスマホの画面には、打ち上げの最初に撮ったらしい写真が映っていた。卓の上の料理とグラス、その向こうで笑っているみんなの顔。
「うわ、これいいね」
朱莉が言う。
「なんか、今日の感じ出てる」
「でしょ? 打ち上げっていうより、ちょっと文化祭の続きっぽい空気あるじゃん」
「それはわかる」
凛も頷いた。
「完全に切れてない感じ」
「うん」
ことねは、画面を見ながら少しだけ声を落とした。
「文化祭、楽しかったけどさ」
「うん」
「たぶん、準備のほうが長く残りそう」
昨日の延長みたいなその言葉に、卓の空気が少しだけやわらかくなる。
「わかる」
朱莉がすぐに言った。
「本番ってほんと一瞬だったし」
「うん」
凛も続ける。
「当日は回ってるだけで終わった感じある。準備のほうが、細かいこといっぱいあったから」
「灯り、布、札、景品、机、ポスター……」
ことねが指折り数えるみたいに言う。
「思い返すと、準備のほうが密度やばい」
「毎日残ってたし」
朱莉が言う。
「なんなら、文化祭当日より話してたかも」
それを聞いて、ことねが少しだけ目を伏せた。
「……そうなんだよね」
「何」
恒一が聞くと、ことねは少しだけ照れたように笑った。
「いや、準備の時間のほうが、たぶんずっと長く残るんだろうなって」
その笑い方は明るい。
でも、明るいだけではない。
文化祭が終わったことの寂しさ。
それでも、その時間をちゃんと持てたことのうれしさ。
全部が少しずつ混ざっている。
◇
打ち上げの席では、笑いが途切れない。
でも、にぎやかな場の中ほど、一人ひとりとの短い沈黙や、小さな視線の交差が妙に残る。
ことねの、「来てくれてよかった」。
凛の、「悪くない」。
朱莉の、「想像してなかった」。
しおんの、「今日はその続き」。
どれも大きな言葉じゃない。
でも、大きな言葉じゃないからこそ、変に深く残る。
ファミレスの一卓に、文化祭の余韻がそのまま座っている。
そして、その余韻の中で、黒峰恒一はあらためて思っていた。
文化祭は終わった。
でも、たぶん、ここから先のほうが前より少し面倒で、前より少しやわらかい。




