第83話 ファミレスの一卓に、文化祭の余韻がそのまま座っている
土曜の夕方、駅前のファミレスは、休日らしいざわめきで満ちていた。
ガラス越しに見える店内には、家族連れ、制服姿の高校生、買い物帰りらしい大人たちがそれぞれの時間を過ごしている。
文化祭の打ち上げ、という言葉だけ聞けばもっと特別な場所でもよさそうだったが、黒峰恒一は逆にこのくらいの“普通の店”でよかったのかもしれないと思った。
文化祭そのものが、もう十分に特別だったからだ。
「黒峰くん、こっち!」
店の奥寄りの長いテーブルから、夢咲ことねが大きく手を振った。
行ってみると、すでにかなりの人数が集まっていた。
クラスの打ち上げらしく、笑い声は大きいし、ドリンクバーの話だけで盛り上がっている組もある。だが、その中でもやはり自分が座る場所は自然と決まっていく。
ことね。
凛。
朱莉。
しおん。
そして自分。
文化祭準備の数日間で、いちばん同じ空気を吸っていた顔ぶれだ。
「思ったよりちゃんと集まったね」
恒一が席へ座りながら言うと、ことねがうれしそうに笑った。
「でしょ? なんだかんだみんな来るんだよね、こういうの」
「夢咲さんがまとめたからでしょ」
凛がメニューを開きながら言う。
「そこで変に謙遜しないでよ。朝霧さんだって、店の候補とか時間とか、かなり現実的に詰めてくれたじゃん」
「私は面倒を減らしたかっただけ」
「その面倒を減らす作業が一番助かるんだって」
ことねは即答した。
「文化祭の時もそうだったけど、朝霧さんって“ちゃんと終わる形”にする力あるよね」
凛は一瞬だけ言葉を止めてから、少しだけ視線を逸らした。
「……今日、やたら素直だね」
「文化祭終わったからかな」
ことねは少し肩をすくめる。
「終わったあとくらい、ちゃんと助かったこと言ってもいいかなって」
その言い方は、文化祭の余韻をまだしっかり引きずっている人の声だった。
朱莉がメニューを閉じながら言う。
「でも、それは分かる。今日くらいは、誰がどこで助かったとか普通に言ってもいい気はする」
「火乃森さんまで」
ことねが笑う。
「なんか今日の打ち上げ、思ったより平和に始まってない?」
「まだ料理来てないからじゃない?」
凛が言う。
「食べ始めると人はだいたい丸くなるし」
「朝霧さんのその分析、いちいち現実だなあ」
「でも当たってるでしょ」
しおんが静かにメニューを見ていた。
相変わらず声は小さい。
でも、その静けさが今日は店のざわめきと妙に馴染んでいた。
「雪代さん、何頼むの?」
ことねが聞くと、しおんは少しだけ顔を上げた。
「まだ迷ってる」
「珍しい。雪代さんってわりとすぐ決めるイメージある」
「今日はちょっと、普通の気分」
その一言で、ことねが吹き出す。
「なにその言い方。普通の気分って」
「文化祭終わったからかも」
しおんは穏やかに言った。
「なんか今日は、普通のもの食べたい」
「分かるかも」
朱莉が頷く。
「私も今日は変に冒険したくない」
「みんな文化祭で気力使い切ってるんだよ」
凛がドリンクバーの札を持ちながら言う。
「脳が保守的になってる」
「朝霧さん、今日はほんと全部言語化するね」
「いつもしてる」
「今日のはちょっと面白い」
そのやり取りのあいだに、注文が少しずつ決まっていく。
ハンバーグ。
ドリア。
パスタ。
チキン。
文化祭後の打ち上げにしては拍子抜けするくらい普通だ。
でも、その普通さが、今日にはむしろちょうどよかった。
◇
料理が来るまでのあいだ、話題は自然と文化祭の裏話になった。
「ねえ、正直言っていい?」
ことねがドリンクバーのメロンソーダをストローでかき混ぜながら言う。
「うん」
「最初、あそこまで人来ると思ってなかった」
「それは私も」
朱莉が言う。
「午前のうちに景品の出方が想定より早くて、ちょっと焦ったし」
「朝霧さんがめっちゃ顔変えてたもんね」
ことねが笑う。
「“予定より減り早い”って顔してた」
「してた?」
凛が聞く。
「してたよ。しかも、焦ってるのに声はいつも通りなのが余計に怖かった」
「それ、褒めてるのか分からない」
「褒めてるよ。ちゃんと裏で回してる感じあったし」
ことねはそう言ってから、恒一のほうを見る。
「黒峰くんも、かなり助かったよね」
「俺?」
「うん」
ことねは、今度は少し真面目な顔になる。
「入口で人が詰まりそうな時とか、説明が足りない時とか、私一人じゃ回しきれないところ、けっこう拾ってくれてたじゃん」
「それはまあ、近くにいたし」
「近くにいただけじゃできないよ」
ことねは首を振った。
「ちゃんと空気見てたからだよ」
その言い方が、妙にまっすぐだった。
恒一が言葉を返す前に、凛も小さく頷いた。
「うん。黒峰が間に入ってくれると、表と裏が繋がる感じはあった」
「朝霧さんまで?」
「事実だから」
凛はそう言いながら水を一口飲む。
「夢咲さんは入口の顔。私は裏の流れ。火乃森さんは見える完成度。雪代さんは空気。で、黒峰はそのあいだを実際に動かしてた」
「なにその、ちょっとかっこいい整理」
ことねが目を丸くする。
「文化祭終わると急に朝霧さんってそういうまとめ方するよね」
「終わったから言えるだけ」
朱莉もそこで静かに言った。
「黒峰がいたから、雑に見えなかったところ多いよ」
「火乃森までそれ言うのか」
「言うよ」
朱莉は少しだけ笑った。
「だって本当だし。札が傾いた時も、机戻す時も、人が多くてちょっと危ない時も、なんだかんだ先に動いてたの黒峰じゃん」
「……そんなにか」
「そんなに」
しおんも、小さく頷いた。
「今日はちょうどいい、が何回かあったけど、そのうち何回かは黒峰くんが動いたあとだった」
その“ちょうどいい”は、しおんの中ではかなり大きな評価だ。
だからこそ、言われると変に照れる。
「お前ら、今日ほんとに素直だな」
恒一が言うと、ことねが笑う。
「文化祭終わったあとって、ちょっとそうなるんだよ」
「そういうもんか」
「そういうもん」
ことねはストローをくるくる回しながら言った。
「だって、準備中とか本番中って、みんな余裕ないじゃん。終わってからじゃないと、“あの時あれ助かった”とかちゃんと言えないし」
その言葉に、凛が少しだけやわらいだ声で足した。
「忙しい時って、感謝も後回しになるから」
たしかにそうだった。
文化祭中は、目の前の人の流れや作業や備品ばかり見ていた。
終わって座ってみると、ようやくその隙間へ人の顔や声が戻ってくる。
◇
料理が運ばれてくると、卓の空気は少しだけ丸くなった。
熱いドリアの湯気。
ハンバーグの音。
ポテトを分ける音。
グラスの氷が触れる小さな音。
ファミレスの一卓に、文化祭の余韻がそのまま座っている感じがした。
「うわ、お腹すいてたんだなって今わかった」
ことねが最初の一口のあとで言う。
「さっきまでテンションでごまかしてた」
「夢咲さん、そういうの多いよね」
凛が言う。
「自覚ありますー」
「文化祭の時もそうだった」
「朝霧さん、それはやめて。今ちょっと自分でも思い当たるから」
ことねが笑う。
その笑い方が、前より少しだけやわらかい。
文化祭のあと、ことねは前より本音を隠しきらなくなっている気がした。
朱莉はフォークを置きながら、小さく言った。
「でも、文化祭で一番意外だったのは、しおんかも」
「私?」
しおんが顔を上げる。
「うん。もっと静かに端で見てるだけかと思ってた」
「そんなふうに見えてた?」
「前はちょっと」
朱莉は正直だ。
「でも、実際は一番“空気が崩れる前”に動いてたじゃん」
ことねがすぐに頷く。
「それ! 私も思ってた」
「夢咲さんの調子が少し落ちた時とかね」
凛がさらっと足すと、ことねが「そこ今言う!?」とむくれた顔をする。
「いや、でも本当でしょ」
「本当だけど!」
しおんは少しだけ目を伏せて、それから静かに言った。
「文化祭は、人が多いから。少し崩れると戻りにくいし」
「それ見て動けるのがすごいんだって」
ことねは身を乗り出す。
「私、あの時かなり助かったもん」
しおんは少しだけ困ったように笑った。
「ならよかった」
それだけ。
それだけなのに、しおんの言葉はやっぱり変に残る。
◇
卓が少し落ち着いたところで、遅れて鳴瀬いろはがやってきた。
「ごめん、遅れた」
そう言いながら空いた席へすっと座る。
そして第一声がこれだった。
「今日も、顔いいね」
「……お前、挨拶それしかないのか」
恒一が言うと、いろはは本気で不思議そうに首を傾げた。
「だって本当だし」
「鳴瀬さん、それもう普通の会話として処理され始めてるの怖いんだけど」
ことねが笑う。
「文化祭後の打ち上げって、みんなちょっといい顔するから」
いろははそう言って、卓を見回した。
「夢咲先輩は、終わってほっとしたけど少し寂しい顔。朝霧先輩は、やっと座れたのにまだ半分回してる顔。火乃森先輩は、静かに満足してる顔。雪代先輩は、音の余韻まだ聞いてる顔」
「最後だけよく分かんない」
ことねが言うと、しおんが小さく言った。
「でも、少し分かる」
「雪代さんがそれ言うと、逆に分かるんだよなあ」
いろはの視線が、最後に恒一へ来る。
「黒峰くんは」
「言うなよ」
「文化祭、終わったのにまだ少しその中にいる顔」
「それ、文化祭ロスってやつじゃない?」
ことねが笑う。
「そうかも」
恒一が答えると、ことねは少しだけ目を細めた。
「私も、ちょっとそれ」
その一言が、やけに素直だった。
◇
話題はまた、文化祭そのものへ戻った。
誰が一番疲れていたか。
どの瞬間が危なかったか。
誰の一言が助かったか。
そういう話をしているうちに、店の外は少しずつ暗くなっていく。
「……文化祭、楽しかったけど」
ことねが、不意に言った。
みんなが自然にそちらを見る。
「たぶん、準備のほうが長く残りそう」
その言葉は、静かだった。
店のざわめきはある。
食器の音もする。
でも、その一言だけが少しだけはっきり聞こえた。
「わかる」
朱莉がすぐに言う。
「本番ももちろん楽しかったけど、毎日ちょっとずつ作ってた時間のほうが濃かった」
「うん」
凛も短く頷く。
「当日って、始まるとあっという間だったし」
「入口の音とか、準備のときから少しずつ作ってたから」
しおんが言う。
「たぶん、そこも残る」
恒一は、目の前のグラスに落ちる氷の音を聞きながら、少しだけ息を吐いた。
準備のほうが長く残る。
それはたぶん、本当だった。
文化祭当日の華やかさよりも、机をどかして、灯りを選んで、ポスターで少し揉めて、備品庫で妙な沈黙があって、匿名のメモが気になって、理由もなく少し残るようになった放課後のほうが、ずっと深く自分たちの中へ入っている。
「……たしかにな」
そう答えると、ことねは少しだけ笑った。
「でしょ」
その笑い方は、文化祭前より少しだけ大人びて見えた。




