第80話 打ち上げの話が出た瞬間、教室はまた別の意味でざわつく
文化祭が終わった翌日の教室は、元の形に戻っているはずなのに、どこかだけまだ戻りきっていなかった。
机はいつもの列に戻っていた。
入口を柔らかくしていた布も、和紙の札も、灯りももうない。
黒板の前にあった案内板も消えて、床に残っていた細かな紙屑すら綺麗に片付いている。
見た目だけなら、完全にいつもの二年B組だ。
なのに、空気だけが少し違う。
誰かが大きな声を出しているわけじゃない。
でも、文化祭で同じ方向を向いていた数日間の名残みたいなものが、会話の端や視線の動きに薄く残っている。
黒峰恒一は、自分の席に鞄を置きながら、その違和感をなんとなく噛みしめていた。
机の中は、今日は空だった。
それを確認して、少しだけ安心して、少しだけ物足りないと思った自分にまだ慣れないまま、一時間目をやり過ごし、二時間目を終え、昼休みになったところで、教室の前方が妙にざわつき始めた。
「ねえ、せっかくだし打ち上げしない?」
最初にそう言ったのは、クラスの女子の一人だった。
その一言で、教室の空気がぱっと色を変える。
「打ち上げ!」
「いいじゃん」
「やりたいやりたい」
「え、どこで?」
「ファミレスとか?」
「カラオケでもよくない?」
あちこちで声が重なる。
文化祭が終わって一日。
まだ疲れは残っている。
でも、“終わったね”でそのまま解散するには惜しいくらい、みんな多少は浮ついているのだ。
恒一が前のほうを見ると、夢咲ことねがすでにその輪の中へ引っ張り込まれていた。
「夢咲さん、こういうの仕切るの得意そう」
「え、私?」
「得意でしょ絶対」
「まあ……嫌いじゃないけど」
ことねはそう言いながら、少しだけ笑った。
その笑い方は文化祭前より少し落ち着いていて、それでいてやっぱり場を動かす人の顔だった。
「人数次第だけど、ファミレスなら一番無難かなあ。カラオケだとグループ割れやすいし」
「うわ、夢咲さんもうちゃんとしてる」
「いや、だってこういうの最初にざっくり決めとかないと流れるじゃん」
「さすが広報担当」
「文化祭終わったのにまだその役職で呼ばれるんだ」
ことねは苦笑したが、まんざらでもない顔をしていた。
その少し離れた席で、朝霧凛が小さくため息をつく。
「普通に食べて、普通に解散でよくない?」
恒一の耳には、その声はかなりはっきり聞こえた。
「朝霧さん、それ“打ち上げ”のテンション一番下げる言い方じゃない?」
ことねが振り向いて言う。
「でも事実でしょ。変に盛りすぎると、店決まらない、人数まとまらない、で面倒になるし」
「朝霧さんはほんとに最初から現実だなあ」
「夢咲さんが最初から浮いてるから、ちょうどいいんじゃない?」
「その言い方ちょっと腹立つ!」
教室に笑いが起きる。
その笑いの中で、火乃森朱莉は頬杖をついたまま前を見ていた。
表情は穏やかだが、大人数の打ち上げを想像して少しだけ気が重い、というのが幼馴染の恒一には分かった。
「火乃森は?」
恒一が小さく聞くと、朱莉は視線だけ寄越した。
「何が」
「行くのか」
「……行くよ」
短い返事のあと、少しだけ間が空く。
「でも、あんまり大人数で騒ぎ倒す感じだとちょっとしんどい」
「だよな」
「うん。文化祭のあとくらい、静かに食べて帰りたい気持ちもある」
その言い方が、朱莉らしかった。
騒ぐのが嫌いなわけじゃない。
でも、無理に熱に乗り続けるタイプでもない。
文化祭をちゃんと走りきったあとの朱莉には、少し静かな余白も必要なのだろう。
窓際では、しおんがいつも通り静かに座っていた。
誰かが打ち上げの話題を振ると、少しだけ顔を上げる。
「雪代さんは?」
「行くなら行く」
「その返事、いつも静かなのにちゃんと来るよね」
ことねが笑う。
しおんは少しだけ首を傾けた。
「だって、行かない理由ないし」
「そういうの、なんか強いんだよなあ」
ことねはそう言ってから、前方の輪へ向き直る。
「じゃあ、ファミレス第一候補でいい? 人数多くても入りやすいし」
「賛成ー」
「無難でいいと思う」
「駅前のとこ?」
「そこかな」
話が少しずつまとまり始める。
その流れの中で、誰かがふと、恒一のほうを見た。
「黒峰くんも来るよね?」
教室の空気が、ほんの少しだけ止まる。
大げさじゃない。
でも、確かに一拍ぶんだけ静かになった。
ことねが自然にこっちを見る。
凛も、ペンを持つ手を止める。
朱莉は頬杖をやめる。
しおんも、ゆっくり視線を上げる。
その反応の速さに、恒一は自分で少しだけ気づいてしまった。
近い。
みんな、たぶん思っていたよりずっとこっちを見ている。
「……行く」
短くそう答えると、前方で「よし」とか「じゃあ決まりだね」という声が上がる。
それに混ざる前に、ことねがほんの少しだけ肩の力を抜いたのが見えた。
凛も、目立たない程度に息を吐いた。
朱莉の表情も、少しだけやわらぐ。
しおんだけは大きく変わらないが、目の温度がほんの少し落ち着いた気がした。
「……今の、みんな反応早くなかった?」
恒一がぼそっと言うと、ことねがすぐに返した。
「え?」
「いや、別に」
「今の“別に”は別にじゃないでしょ」
ことねは笑う。
でも、その笑いの下に少しだけ照れが混ざっている。
凛が横から口を挟んだ。
「黒峰が来ないと、文化祭の打ち上げなのに中心抜けた感じになるからじゃない?」
「朝霧さん、それはフォロー?」
「事実」
「でも今の、ちょっとやさしい言い方だったよね」
「夢咲さん、そこ拾わなくていい」
「いや、拾うでしょ」
朱莉がそこで小さく笑った。
「でも、たしかに黒峰が来ないと変な感じはする」
「火乃森まで」
「だって、文化祭の間ずっと真ん中のほういたじゃん」
さらっと言うな、と恒一は思う。
でも、否定しにくいのも事実だった。
文化祭の数日間、自分はたしかに巻き込まれていただけではなかった。
入口の流れを見て、備品を運んで、列を流して、みんなの間をつないでいた。
その延長で、打ち上げにも行く。
それは自然だ。
自然なのに、今のやり取りのせいで少しだけ別の意味を持ってしまう。
「じゃあ、だいたいの人数取るねー」
ことねが明るく言って、教室の前方で名前を拾い始める。
「行ける人、手上げてー」
ぱらぱらと手が上がる。
その中で、ことねは器用に人数を数え、凛は横から「多いなら予約できるか先に見たほうがいい」と現実を差し込み、朱莉は「駅前ならそこまで歩かないし助かる」と静かに言い、しおんは「何時からなら入れるか聞いたほうがいい」と短く必要なことを足す。
文化祭は終わったのに、役割の名残はまだきれいに残っていた。
「なんか、文化祭終わっても結局この感じなんだな」
恒一が言うと、ことねが手を止めずに笑った。
「そりゃそうでしょ。終わったからって、急にみんな別人にはならないし」
「別人にはならないけど、ちょっとは戻るかと思ってた」
「戻るところもあるよ。でも、戻らないところもある」
ことねはそう言って、ふっと視線を寄越す。
「たぶん、もう前と同じ距離感ではないんだと思う」
その言い方は、冗談っぽくも聞こえる。
でも、半分以上は本音だった。
昼休みの教室はまた少しざわつき始める。
誰が何時に来られるか。
どこの席に分かれるか。
先生にばれない程度にどう解散するか。
そんなありふれた打ち上げの相談のはずなのに、黒峰恒一の中にはさっきの一瞬が妙に残っていた。
自分が「行く」と言った瞬間、反応が少しだけ速かったこと。
それを、気づいてしまったこと。
文化祭は終わった。
でも、そのあとに始まるものもある。
打ち上げの話が出た瞬間、教室はまた別の意味でざわついていた。




