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共学化したばかりの元女子高で、普通の青春を送るはずだった俺が重すぎる彼女たちに囲まれている~男子希少種の俺だけがやたら観察されている件~  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第79話 “楽しそうでよかったです”――名前のない言葉は、最後にいちばんやさしい

黒峰恒一は、しばらく机へ伸ばした手を止めたままだった。


 教室はもう、ほとんどいつもの形へ戻っている。

 文化祭仕様だった机の配置も、布も、灯りも、札も、ほとんど片づけ終わった。

 黒板の前に立てかけられていた案内板もなく、入口の和紙の柔らかい雰囲気も消えている。


 見た目だけなら、もういつもの教室だ。


 なのに、空気だけが少し違う。


 終わったあとの静けさ。

 さっきまで人がいた場所の、妙に広く感じる感じ。

 笑い声や呼び込みの残響が、まだ壁に薄く残っているみたいな感覚。


 恒一は、その真ん中で、自分の机を見ていた。


 文化祭が終わったあと。

 片付けもほとんど終わったあと。

 今ここで机の中を見るのは、もはや癖というより儀式に近かった。


「……あるわけ、ないだろ」


 小さくそう言ってから、机の中へ手を入れる。


 指先が触れるのは、教科書の角。

 ノート。

 筆箱。

 プリントの端。


 それだけのはずだった。


 なのに、奥へ指を滑らせた瞬間、紙の感触があった。


「……っ」


 今度は、声もほとんど出なかった。


 心臓が、一拍だけ変な打ち方をする。


 ゆっくりと引き出す。


 白い紙。

 小さく折られた、あのサイズ。

 前までと同じ、見慣れてしまった形。


 机の上へ置く。

 指先が、少しだけ冷える。


「……また、か」


 そう呟いた自分の声が、やけに小さく聞こえた。


 文化祭は終わった。

 教室は戻った。

 ここで終わるかもしれないと思っていた。

 少なくとも、少しはそう思いたかった。


 でも終わらなかった。


 いや、終わらなかったからこそ、今これがあるのかもしれない。


 恒一は、ゆっくりと紙を開いた。


 短い。

 あまりにも短い一文だった。


『楽しそうでよかったです』


 たったそれだけ。


 たったそれだけなのに、今まででいちばん胸へ入ってきた。


 甘すぎないものを選びました。

 喉に良さそうなのを入れておきました。

 そして、楽しそうでよかったです。


 その順番が、妙に苦しいくらいきれいだった。


 最初は好みを見ていた。

 次は疲れ方を見ていた。

 そして最後は、今日の自分の表情を見ていた。


 楽しかったかどうか。

 ちゃんと笑えていたかどうか。

 文化祭の真ん中で、疲れていても、ちゃんとこの時間を楽しめていたかどうか。


 それを、見ていた。


「……ずるいな」


 思わず、そう漏れた。


 これはもう、ただの好意の押しつけではない。

 返事も求めていない。

 名前も出さない。

 でも、自分が少しでも楽でいられるかどうかだけは、ちゃんと見ている。


 そのやり方は、ずるい。


 やさしい。

 やさしすぎる。

 だから余計に、名前を知りたくなる。


 誰なんだ。

 どんな顔で、このメモを書いたんだ。

 文化祭のどの瞬間を見て、楽しそうでよかったなんて思ったんだ。


 知りたい。


 でも、知ってしまったら、この紙の静けさは消える気もした。


 名前がついた瞬間、全部が変わる。

 今までの距離も、今までの言葉も、今までの見方も。


 しおんが前に言っていた。

 名前を出すと、今までの感じが変わることもある、と。


 その言葉が、今になって変に分かる。


 恒一は、メモを見たまましばらく動けなかった。


     ◇


「……まだいたんだ」


 不意に、教室の入口から声がした。


 びくっとして顔を上げる。


 夢咲ことねだった。


 どうやら先生との話が終わって戻ってきたらしい。

 手には自分の鞄。

 でも、帰るつもりで立ち寄っただけの顔ではなく、なんとなく“黒峰くん、まだいそうだな”と思って戻ってきた人の顔をしている。


「うわ、びっくりした」


「それこっちの台詞なんだけど」


 ことねは少しだけ笑った。


「まだ教室いたんだね」


「片付け終わりで、ちょっと……」


 そこまで言って、言葉が止まる。


 ことねの目が、机の上の白い紙へ落ちた。


 止まる。


「……来たの?」


 声が、少しだけ低くなった。


 恒一は、隠す気になれなかった。


「来た」


 ことねはゆっくり近づいてきて、机の横へ立つ。


「見てもいい?」


「うん」


 メモを差し出す。

 ことねは受け取って、開いたままの紙を見る。


 そして、ほんの数秒だけ黙った。


「……ああ」


 それから、小さく息を吐く。


「そっか」


「どんな“そっか”だよ」


 ことねはメモを見たまま、少し困ったように笑った。


「なんていうか……これ、最後に来るのが一番ずるいやつだなって」


「やっぱそう思うか」


「思うよ」


 ことねは顔を上げた。


「だって、“楽しそうでよかったです”だよ?」


「うん」


「これってさ、“自分を見てほしい”がメインじゃなくて、“黒峰くんがちゃんと楽しめてたなら、それでいい”寄りの言葉じゃん」


 それは、恒一がさっき感じていたことそのままだった。


「……うん」


「ずるいよ、これ」


 ことねは率直に言った。


「だって、こういうの言われると、責められないもん。むしろ、ありがとうって思っちゃうやつだし」


「思った」


「でしょ」


 ことねは、少しだけ視線を落とした。


「前の、“甘すぎないもの”も、喉飴も、かなり近いなって思ったけど……今日のこれは、なんか一番やわらかい」


「やわらかい?」


「うん」


 ことねは頷く。


「“好きです”とか“見てます”じゃなくて、“楽しそうでよかった”って、相手の気持ちをそのまま肯定してる感じするから」


 その説明が、妙にしっくり来た。


 押していない。

 迫っていない。

 でも、ちゃんと見ていたことだけは伝わる。


 そして、その伝え方がすごく静かだ。


「……誰なんだろうね」


 ことねがぽつりと言う。


「わかんない」


「うん」


「でも、たぶん」


 恒一が言いかけると、ことねが続けた。


「かなり近くで見てる人」


 二人の声が、半分くらい重なった。


 少しだけ笑う。


 でも、その笑いも長くは続かない。


「黒峰くん」


「ん?」


「知りたい?」


 その質問は、思っていたよりまっすぐだった。


 恒一は、すぐには答えられなかった。


 知りたい。

 たぶん、かなり知りたい。


 でも、知ってしまったあとが想像できない。

 今のこの静かなやり取りが、名前を持った瞬間に別の何かへ変わる気がする。


「……知りたい」


 ようやくそう言う。


 ことねは黙って聞いている。


「でも、今すぐじゃなくてもいい気もしてる」


「うん」


「なんか……このままのほうが、まだ壊れないものもある気がする」


 そう言うと、ことねは少しだけ目を細めた。


「それ、分かる」


「分かるのか」


「うん」


 ことねは、小さく笑った。


「悔しいけど、分かる。名前が出た瞬間に、もう今までの“匿名のやさしさ”ではいられなくなるもんね」


「そう」


「で、今のままだと、まだちょっとだけ夢が残る」


「夢、か」


「うん」


 ことねはメモをそっと机へ戻した。


「文化祭終わった日に、“楽しそうでよかったです”って来るの、すごく現実的なのに、ちょっと夢みたいでもあるし」


 その言い方が、ことねらしかった。


 現実を見ている。

 でも、その中にある少しだけ綺麗なものを、ちゃんと拾える。


     ◇


 しばらく、二人で静かに教室の中を見た。


 元に戻った机。

 元に戻った椅子。

 もう文化祭の飾りはない。

 でも、ここで笑っていた人たちの気配だけは、まだ少し残っている気がする。


「ねえ」


 ことねが言う。


「ん?」


「これ、たぶんさ」


「うん」


「相手、黒峰くんに“選んでほしい”っていうより、“少しでも楽でいてほしい”のほうが強い気がする」


 その言葉は、やっぱり重かった。


 選ばれたい。

 特別になりたい。

 そういう気持ちがまったくないとは言わない。

 でも、それより先に“楽でいてほしい”が出る。


 それは、かなりやさしい。

 そして、かなり深い。


「……そうかもな」


 恒一が答えると、ことねは小さく頷いた。


「だから、余計に強いんだと思う」


 そのあと、ことねは少しだけ困ったように笑った。


「悔しいけど」


「悔しいのかよ」


「そりゃ少しはね」


 ことねは正直だ。


「でも、こういうやさしさがあるのも、ちゃんと認めたい」


「お前って、そういうとこあるよな」


「なにそれ」


「いや、悔しいのに、ちゃんと認めるとこ」


 ことねは一瞬だけ黙って、それから笑った。


「黒峰くんも、最近そういうのちゃんと見るよね」


「そうか?」


「そうだよ」


 その言葉が、少しだけうれしかった。


     ◇


 帰ろうとした時、ことねが思い出したように言った。


「そういえば」


「ん?」


「クラスで、打ち上げの話出てた」


「打ち上げ?」


「うん。文化祭お疲れさま会みたいなの。まだ本決まりじゃないけど、みんなでどっか寄れたらいいねって」


 その一言で、文化祭の終わりが本当に終わりではないことを知る。


 ここまで準備して、本番をやって、片付けて、それで終わりではない。

 終わったあとに、まだ少しだけ続きがある。


「行く?」


 ことねが聞く。


「……行くんじゃないか、たぶん」


「たぶん、ね」


 ことねが笑う。


「でも、そういう“たぶん行く”って返事、最近ちょっと好きかも」


「なんで」


「ちゃんとここに残る感じがするから」


 その言い方に、恒一は少しだけ困ったように笑うしかなかった。


 文化祭は終わった。

 でも、全部が片づいたわけじゃない。


 名前のないやさしさも。

 少しずつ近づいてしまった距離も。

 そして、今日までの時間の余韻も。


 “楽しそうでよかったです”。


 その最後のメモを、恒一はそっとポケットへしまった。


 まだ選ばない。

 まだ答えは出ない。

 でも、誰かが自分をやさしく見ていたことだけは、もう疑いようがなかった。

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