第78話 終わったあとに残るのは、売上より“誰と作ったか”だった
文化祭というのは、終わる瞬間だけが妙にあっさりしている。
閉会の校内放送が流れた時、黒峰恒一は景品の残数を数えながら、ほんの一瞬だけ手を止めた。
それまでずっと教室の中を満たしていた声や足音や笑いが、放送のチャイム一つで急に「終わったもの」へ変わる。
さっきまで人がいた場所に、次の瞬間にはもう“片付けなきゃいけない机と札と飾り”しか残っていない。
「……終わったね」
夢咲ことねが、入口の札の横で小さく言った。
大声じゃなかった。
むしろ、今日一日でいちばん静かな声だったかもしれない。
「終わったな」
恒一が返すと、ことねは少しだけ笑った。
「なんか、ほんとに終わると変な感じ」
「さっきまであんなに人いたのにな」
「ね」
ことねはそう言って、入口の布へ指先で触れた。
さっきまで“来てください”の顔をしていた教室が、今はもう“片付け待ちの教室”に戻り始めている。
文化祭特有の魔法が、放送のあとから急に薄くなっていく感じがした。
「はい、しんみりするのはあと」
朝霧凛の声が入る。
見ると、教卓の横でメモを見ながら、すでに後片付けの段取りへ頭を切り替えていた。
「景品残数確認。札は先に外す。灯り系は雪代さんと火乃森さんで箱戻し。机戻す前に床の小物全部拾う」
「朝霧さん、そういうとこほんとに朝霧さんだよね……」
ことねが苦笑する。
「今この瞬間くらい、もうちょい余韻に浸らせてよ」
「余韻に浸るのは机戻してから」
「現実が強い!」
「強くしないと、あとで全員死ぬ」
その返しが、妙にいつも通りで少しだけ救われる。
文化祭が終わっても、凛は凛だ。
きっちりしていて、容赦なくて、でもその厳しさで全体を崩れないようにしている。
「ほら、黒峰」
「ん?」
「残数、口で言って」
「ああ、えっと……鈴チャーム五、しおり七、札タグ四」
「了解。夢咲さん、残ってるやつ写真一枚だけ先に」
「え、今?」
「今。片付け始まると見た目終わるから」
ことねが一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。
「……朝霧さん、それ地味に優しいやつ?」
「必要な記録」
「でも私のためでもあるでしょ」
「半分」
「やっぱり!」
そのやり取りに、少しだけ空気がやわらぐ。
◇
片付けは、始まると容赦がなかった。
入口札を外す。
灯りを消して箱へ戻す。
景品を袋にまとめる。
布を外して折り、和紙を外し、机の位置を元へ戻していく。
数時間前まで人が立ち止まり、写真を撮り、少しだけわくわくした空気で見ていたものが、今は全部「戻すべき物」になる。
「うわー……」
ことねが布を畳みながら、本気で名残惜しそうな声を出した。
「外すと普通に寂しい」
「そうだね」
朱莉が静かに答える。
彼女は灯りのコードを丁寧にまとめながら、いつもより少しだけ動きが遅い。
雑になっているわけじゃない。
むしろ丁寧すぎるくらい丁寧だ。
それが逆に、終わりたくない感じを出していた。
「ここまで作ったのに、戻すのあっという間だな」
恒一が言うと、朱莉は少しだけ目を伏せた。
「こういうの、毎回そうだよね」
「毎回って、火乃森、文化祭こんなに本気でやったことあったのか」
「ここまでちゃんとやったのは初めてかも」
朱莉はそう言って、まとめたコードを箱へ入れる。
「でも、ちゃんとやったから余計に、戻るの早く感じる」
その言葉が、かなりしっくり来た。
適当にやったものなら、終わっても“終わったな”で済むのかもしれない。
でも、ここまでちゃんと作ったからこそ、片付けで元へ戻っていくたびに胸のどこかが少しずつ空いていく。
「雪代さん、そっち大丈夫?」
ことねが聞く。
しおんは灯りの箱を閉じるところだった。
静かな顔のままだが、やっぱり少しだけ目がやわらいでいる。
「うん。大丈夫」
「……ほんと?」
「ほんと」
しおんは小さく頷く。
「でも、少しだけ寂しい」
ことねが一瞬止まる。
「え」
「だって、今日は入口の空気、ちょうどよかったから」
その一言が妙にしみた。
しおんが“ちょうどよかった”と言う時、それはかなり本物だ。
音も、人の流れも、灯りも、視線も、全部含めて“ちょうどいい”だったのだろう。
「……雪代さん、それ今言うの強いなあ」
ことねが笑う。
「なんか急に泣きそうになる」
「泣くのは机戻してからにして」
凛がすぐに言う。
「朝霧さんはそれしかないの!?」
「いや、だって今泣かれたら作業止まるでしょ」
「正論だけど!」
少しだけ笑いが起きる。
その笑いがあるから、まだ完全には寂しくなりきらない。
でも、笑いながらもみんな手を止めないところが、今日の終わりらしかった。
◇
机を戻す作業は、文化祭準備の始まりの日を思い出させた。
運ぶ。
位置を合わせる。
列を戻す。
椅子を下ろす。
違うのは、今はみんなかなり疲れていることと、その疲れの下に達成感みたいなものがあることだった。
「黒峰、そっち持てる?」
朱莉がいつも通りに言う。
「持てる」
「じゃあ、せーの」
机を持ち上げる。
数日前にも同じことをした。
でも今日は、ただ重いだけじゃない。
「……なんか、不思議だな」
恒一が机を運びながら言うと、朱莉が聞く。
「何が」
「最初に机どかした時と、同じことやってるのに全然違う感じする」
朱莉は少しだけ笑った。
「分かる」
「なんでだろうな」
「たぶん、途中を知ってるからでしょ」
「途中?」
「うん。ここに何置いて、どこで誰が立って、どう見えてたか」
机を置いて、朱莉は一歩下がる。
「その途中を知ってると、“ただ机戻してるだけ”じゃなくなる」
その言葉は、妙にきれいだった。
「……火乃森、たまにそういうの静かに言うよな」
「なにそれ」
「いや、なんか深い」
「別に深くないよ」
「深いって」
ことねがすぐ近くから入ってくる。
「今の朱莉ちゃんの“途中を知ってると、ただじゃなくなる”はかなりよかった」
「夢咲先輩、そういうとこ拾うの早い」
「今日はもう全部拾うよ。終わりの日だし」
ことねはそう言ったあと、少しだけ笑顔を薄くした。
「……こういうの、終わると寂しいね」
その声は、前日準備の時よりずっと素直だった。
◇
片付けの途中で、ましろが顔を出した。
「先輩たち、まだやってましたか」
「やってるよー」
ことねが答える。
「見れば分かるでしょ、この疲れ方」
ましろは前方の空いた机へ、小さな袋を置いた。
「差し入れです」
「また来た!」
ことねが言う。
「今日は何?」
「お茶と、小さい甘いものです。終わったあとなので」
その“終わったあと”という言い方が、妙にやさしい。
「ましろちゃん、今日も完璧だね……」
ことねがしみじみ言うと、ましろは少しだけ首を傾げた。
「今日は先輩たち、疲れ方が違うので」
「違う?」
恒一が聞く。
「はい。今日の疲れ方は、終わったあとです」
変な日本語みたいで、でもすごく分かる。
ただ疲れているんじゃない。
終わったあとの疲れ方。
達成感と、少しの喪失感が混ざっているやつだ。
「……小鳥遊さん、そういう時だけ急に言葉きれいだよね」
凛が言う。
「そうですか?」
「そうだよ」
朱莉が笑う。
「今のはかなりそう」
ましろは、そこでふと恒一を見た。
「先輩」
「ん?」
「今日は、ちゃんと終わりましたね」
短い一言。
でも、それだけで少し報われる気がするのが不思議だった。
◇
人が少しずつ帰っていく。
ましろは「先輩たち、ちゃんと休んでください」と言って先に戻った。
しおんと朱莉は、灯りと装飾の箱を職員室前の保管場所へ持っていくために一緒に出る。
凛は備品表の最終確認をしながら、「返却忘れないで」と言い残した。
ことねは入口札の写真を最後に撮って、「この一枚、たぶんあとでかなり見ると思う」と笑ったあと、先生に呼ばれて先に教室を出た。
気づけば、また教室は静かになっていた。
元の机。
元の黒板。
元の通路。
文化祭の空気はほとんど消えている。
でも、完全に元通りかと言われると、そうでもない気がした。
恒一は、自分の席の近くへ立って教室を見渡す。
売上がどうだったか。
何人来たか。
どの景品が一番出たか。
そういう数字や結果ももちろん大事なのだろう。
でも、今胸に残っているのは、そういうものじゃなかった。
ことねが入口で呼び込みながら見せた嬉しそうな顔。
凛の、短くて正確な指示の中に混ざる本音。
朱莉の、“ちゃんとできる”ところを見る静かな安心。
しおんの、“ちょうどいい”と空気を言葉にする視線。
ましろの、終わったあとの疲れ方を見抜く近さ。
ひよりやいろはまで含めて、この教室を一緒に通ってきた時間。
「……売上より、そっちなんだな」
誰もいない教室で、小さく呟く。
文化祭が終わって残るのは、売上や数字だけじゃない。
誰と作ったか。
誰とこの場所を変えたか。
誰がどうやって近くにいたか。
そういうもののほうが、案外ずっと長く残るのかもしれない。
黒峰恒一は、自分の机へ視線を落とした。
いつもなら、ここで机の中を確認する。
もう半分、癖みたいになっている。
だが今日は、なぜか少しだけためらった。
文化祭が終わった。
教室は戻った。
それでも、何かが完全には戻っていない気がする。
その感覚の正体を、まだうまく言葉にできないまま、恒一はゆっくり机へ手を伸ばした。




