第77話 にぎやかな日ほど、たった一瞬の視線が深く残る
文化祭というのは、忙しい時ほど時間の流れが雑になる。
黒峰恒一は、午前と午後の境目がどこにあったのか、もうあまり正確には思い出せなかった。
入口で呼び込みをしていた夢咲ことねが「ちょっと今、多くない!?」と笑いながら言ったのがついさっきのことのようでもあるし、ずいぶん前のことのようでもある。朝霧凛に「景品、左の箱から先に出して」と言われて動いたのも、火乃森朱莉に「その札、二センチ上」と静かに指示されたのも、雪代しおんが「今、入口少し明るすぎる」と小さく言ったのも、全部同じ一日の中で起きているのに、どこか重なって見えた。
人が来る。
笑う。
足を止める。
覗く。
説明する。
流す。
景品を渡す。
また次が来る。
その繰り返しの中で、ふとした瞬間だけが、妙に深く残る。
◇
「黒峰くん、こっちこっち!」
最初にその“残る瞬間”をくれたのは、やっぱりことねだった。
入口の横。
和紙の札の前。
ちょうど人の流れが少し落ち着いたタイミングで、ことねが手招きする。
「なに」
「ほら、これ見て」
ことねがスマホの画面を向けてくる。さっき撮ったらしい写真だ。入口札と灯り、その前で少し立ち止まっている来場者の後ろ姿が入っている。
「どう?」
「……いいな」
素直にそう言うと、ことねの顔がぱっと明るくなった。
「でしょ!?」
「うん。ちゃんと“入りたくなる感じ”ある」
「そう、それ!」
ことねは嬉しそうに笑った。
「ただ可愛いだけじゃなくて、ちゃんと空気が映ってる感じ。これ、今日の中でたぶんかなり好きな一枚」
息が少し上がっている。
声も少しかすれている。
でも、その疲れた顔の中にある達成感が、ひどくまっすぐだった。
「ことね」
「ん?」
「これ、お前がずっと言ってたやつだな」
「どれ?」
「入口で、“ちょっと見たい”って思わせる感じ」
ことねは一瞬だけ黙ったあと、少し照れたように笑った。
「……うん」
それから、少しだけ声を落とす。
「黒峰くんが、ちゃんとそこ見て言ってくれるの、やっぱ嬉しい」
「なんで」
「だって、私がずっと気にしてたとこだから」
そう言って、ことねはまた入口へ戻る。
次の来場者へ向けて、すぐにいつもの明るい声になる。
「いらっしゃいませ! 中、よかったら見てってください!」
その背中を見ながら、恒一は思う。
ことねの明るさは、やっぱり場を回すためだけのものじゃない。
自分が好きな空気を、ちゃんと形にするための明るさなのだ。
◇
「黒峰」
次に呼ばれたのは、教卓横だった。
凛がメモを片手に、いかにも“今すぐ来い”という顔をしている。
「景品、残数見て」
「今?」
「今」
「その言い方、ほんと容赦ないな」
「忙しい時に優しい前置きしてる余裕ある?」
「ないけど」
素直にそう答えると、凛は小さく頷いて、箱の中身を指差した。
「鈴チャーム、思ったより減り早い。こっちの札しおりを前に出したい」
「人気あるのそっちか」
「うん。見た目で取られてる」
「じゃあ前替えるか」
「お願い」
二人で景品の並びを変える。
箱を持ち上げ、札の位置をずらし、見えやすい順に入れ替える。
「……これでいいか」
「うん。かなりまし」
凛はそこでようやく小さく息を吐いた。
「助かった」
「お前がそう言うの珍しいな」
「今日は言うよ。忙しいから」
「忙しいと素直になるのか」
「そうかも」
その返しが少し意外で、思わず凛を見る。
前髪が少し乱れている。
制服の袖も、朝より少し雑にまくっている。
疲れているのに、目だけはちゃんと起きている。
「なに」
「いや」
「変な顔」
「それはお前だろ」
「どこが」
「疲れてるのに、ちゃんと全部見てる顔」
凛は一瞬だけ黙った。
「……それ、昨日鳴瀬さんにも似たようなこと言われた」
「じゃあ本当なんだろ」
「黒峰、そういう時だけ変にまっすぐ言うよね」
「嫌か?」
「嫌じゃない」
即答だった。
でも、そのあとで少しだけ視線を逸らす。
「困るけど」
「最近そればっかりだな」
「だって、そうなんだから仕方ないでしょ」
そう言ったあと、凛は少しだけ口元を緩めた。
「でも、今の“助かった”は本音」
その一言が、忙しい文化祭の真ん中で妙に深く残った。
◇
「黒峰、ちょっとこっち」
教室の奥で、朱莉が手招きする。
そちらへ向かうと、体験コーナーの小さな札が少しだけ傾いていた。
来場者が机へ肘を当てた拍子に、支えがずれたらしい。
「ここ押さえて」
「おう」
「そのまま」
恒一が札の下を押さえるあいだに、朱莉は紐を結び直す。
やっぱりこういう作業になると、二人の動きは妙に噛み合う。
「よし」
結び終えた朱莉が、一歩下がって全体を見る。
「うん、戻った」
「また傾きそうか?」
「大丈夫だと思う。でも、今日終わるまであと一回は見る」
「火乃森、ほんと最後までそこ気にするな」
「当たり前でしょ」
朱莉は少しだけ笑う。
「ここまで作ったんだから、最後で雑に見えるの嫌だし」
「そういうとこ強いよな」
すると、朱莉はほんの少しだけ目を細めた。
「黒峰がちゃんと支えるからできるんだけどね」
さらっと言われて、一瞬返事に困る。
「……最近、お前そういうこと普通に言うな」
「思った時は言うようにしてる」
「なんで急に」
「急じゃないよ」
朱莉は、小さく息を吐いた。
「文化祭始まってから、余計に分かっただけ」
「何が」
「ちゃんとできる時は、ちゃんとできるってこと」
その言葉には、前に言われた“安心した”の続きみたいな温度があった。
「昔から知ってるとさ、どうしても“放っとくと変な方向行く人”の印象も残るんだよね」
「まだ言うのかよ」
「でも今日は、ちゃんとここにいるじゃん」
朱莉はそう言って、視線を少しだけやわらげた。
「それ見ると、やっぱりちょっと安心する」
その“安心する”が、やっぱり幼馴染らしくて、ひどく朱莉らしかった。
◇
「黒峰くん」
しおんの声は、いつも通り静かだった。
なのに、文化祭のざわめきの中でも不思議と聞き逃さない。
「ん?」
入口から少し引いた位置。
灯りのすぐ近くで、しおんがこちらを見ている。
「今、少しだけ入口詰まりそう」
「どこで」
「夢咲先輩の立ち位置、半歩だけ左がいいかも」
「そんな細かいとこまで分かるのか」
「分かる」
しおんは短く答える。
「人が止まる位置、さっきから少しずつ同じだから」
恒一は、しおんの視線を追って入口を見る。
たしかに、ことねが立つ位置と札の角度の関係で、人がほんの少しだけ右へ寄りすぎていた。
「……ほんとだ」
「うん」
「雪代、お前やっぱすごいな」
しおんは少しだけ瞬き、それから小さく笑った。
「今日は、たぶん見えやすい」
「なんで」
「黒峰くんが、ちゃんと流してるから」
「俺?」
「うん。人が奥へ入るから、入口の詰まりが分かる」
その返しが静かなのに妙に効く。
「……それ、褒めてる?」
「褒めてる」
しおんは迷わずそう言った。
「今日は、ちょうどいいと思う」
その“ちょうどいい”は、しおんの中ではかなり特別な言葉だ。
空気。
人の流れ。
声の大きさ。
灯りの温度。
全部を見て、その上で“ちょうどいい”と言う。
だからこそ、今日その言葉をもらえるのは妙に嬉しかった。
「……そっか」
恒一がそう返すと、しおんはほんの少しだけ目を細めた。
にぎやかな一日の中で、しおんの視線だけが妙に頭に残る。
それは派手な出来事じゃない。
でも、たった一瞬の静かな肯定のほうが、あとで深く残ることもあるのだ。
◇
小鳥遊ましろは、文化祭当日も相変わらずだった。
「先輩」
昼過ぎ。
少し人の流れが落ち着いたタイミングで、教室の入口に現れる。
「……来たな」
恒一が言うと、ましろは少しだけ首を傾げた。
「来ます」
「疑問形じゃないんだな」
「今日は特に来ます」
その言い方がもう小鳥遊ましろだ。
彼女は小さな紙袋を差し出した。
「スポーツドリンク、冷えてるほうです。あと、のど飴と小さいチョコ」
「なんでチョコまで」
「先輩、甘いもの全般が苦手なわけではないので。疲れた時は少しあったほうがいいです」
その“少しあったほうがいい”が、またしても生活に近い。
ことねがすぐに寄ってきて言う。
「ましろちゃん、もう完全に保健室係みたい」
「違います」
「でも助かるでしょ?」
ことねが恒一を見る。
「助かる」
「ほらー」
ましろはそこで、少しだけ声を落とした。
「先輩、今日ちゃんと忙しいので」
「その言い方な」
「見てれば分かります」
そして本当に、それで終わる。
余計な含みを持たせない。
でも、近い。
近いのに、押しつけがない。
それがましろの強さなのだろう。
◇
毒島ひよりは、景品管理の補助に入っていた。
変食案は全却下されたが、それで拗ねるような子ではない。
むしろ今日のひよりは、やけに真面目だった。
「先輩、景品の減り、予想より安定してます」
「おお」
「やはり、“すぐ嬉しい”は強いです」
「そこ学んだのか」
「学びました」
ひよりは真顔で頷く。
「ただ、個人的には、普通じゃないものを一つだけ混ぜる案も最後まで惜しいと思ってます」
「まだ言うのかよ」
「文化祭ではやめます」
「ならいい」
「文化祭では」
その言い方に、ことねがすぐ反応する。
「ひよりちゃん、その言い方だと文化祭以外ではやる気じゃん」
「可能性はあります」
「ひどい!」
教室に笑いが起きる。
でもその笑いの中で、ひよりは小さく続けた。
「でも、こうやって普通の景品でもちゃんと喜ばれるの、少し嬉しいです」
それはかなり本音だった。
「変わったものだけじゃなくて、“普通に嬉しい”を選ぶのも悪くない」
ひよりはそう言って、少しだけ口元をやわらげた。
その横顔を見て、恒一は思う。
ひよりもまた、ちゃんとこの文化祭の中へ馴染んでいるのだと。
◇
鳴瀬いろはは、忙しい時間の合間を縫うように現れた。
教室の入口で一瞬だけ立ち止まり、中を見る。
そして、恒一を見つけると、少しだけ笑った。
「今日、いい」
「何が」
「顔」
「もうその入りやめろ」
「だって本当だし」
いろはは近づいてきて、小さく言う。
「忙しいのに、ちゃんと楽しい顔になってる」
「……それ、昨日までと違うのか」
「違う。昨日までは“疲れてるのに投げない顔”だったけど、今日はそこに“回ってる”が足されてる」
意味はよく分からない。
でも、いろはの中ではたぶんそれで全部なのだろう。
「今の黒峰くん、かなりいいよ」
「褒められてるのか?」
「かなり」
そう言って、いろはは本当にそれだけで満足したみたいに去っていった。
変なやつだ。
でも、その短い評価が妙に頭へ残る。
◇
文化祭は、にぎやかだ。
ずっと誰かがいて、ずっと何かが起きている。
その中では、大きな出来事より、むしろたった一瞬の視線や言葉のほうが深く残る。
ことねの、写真を見せる時のうれしそうな顔。
凛の、「助かった」は本音だと言った時の少し逸れた視線。
朱莉の、「安心する」と言った時の静かな温度。
しおんの、「今日はちょうどいい」と言った時のやわらかい目。
ましろの、当然みたいに差し出される飲み物。
ひよりの、“普通に嬉しい”を認めた小さな笑み。
いろはの、相変わらず変なのに妙に正確な一言。
どれも一瞬だ。
でも、一瞬だからこそ深く残る。
そしてその中で、恒一の頭にはやっぱり、しおんの視線だけが少し長く残っていた。
理由は分からない。
大きな言葉があったわけでもない。
ただ、あの静かな“ちょうどいい”が、今日の文化祭の空気ごと胸へ残っている。
にぎやかな日ほど、たった一瞬の視線が深く残る。
文化祭の真ん中で、黒峰恒一はそのことを妙にはっきり感じていた。




