第75話 前日準備、みんな疲れてるのに心だけは妙に眠らない
文化祭前日の放課後、教室へ入った瞬間、黒峰恒一は少しだけ足を止めた。
ここ数日ずっと見てきたはずの自分たちの教室が、もうほとんど別の場所になっていたからだ。
入口の横には低い位置の札。
やわらかい色の布が、壁と机の線をうまく隠している。
灯りはまだ本番用に全部点けてはいないが、試しに一つ灯すだけで空気が急に落ち着く。
体験コーナーの案内札も、景品用の小物も、細かい位置はともかく形にはなっている。
「……すごいな」
思わず漏れる。
すぐ近くで、夢咲ことねが振り返った。
「でしょ」
声は明るい。
でも、その明るさには明らかに疲れが混ざっている。
前髪を留めるピンが少しだけずれていて、袖も軽くまくったままだ。
普段ならもっときちんと可愛く整えているはずなのに、今日はその余裕がないのが逆に本気っぽい。
「まだ終わってないけど、かなりそれっぽくなったよね」
「それっぽいどころじゃないだろ」
「えへへ。ちょっと嬉しい」
ことねはそう言って笑ったあと、すぐに「でもまだ終わってないから!」と自分へ言い聞かせるみたいに言い足した。
その横で、凛が備品表を片手に言う。
「入口の札、あと三センチ上。今のままだと人が立った時に下だけ隠れる」
「容赦ないなあ……」
ことねが言う。
「今くらいちょっと達成感に浸ってもよくない?」
「本番前日に達成感に浸ると、だいたい一個見落とす」
「朝霧さん、そういうこと言う時ほんとに目が覚めるよね」
「起こしてるだけ」
「それを現実担当って言うんだよ」
やり取りはいつも通りだ。
でも、二人とも少し声が掠れている。
ここまで来る間、何日も放課後を使ってきたのだ。
疲れていないはずがない。
◇
「黒峰、それ持って」
火乃森朱莉が、壁際で布の端を押さえながら言った。
「どれ」
「そこの紐。いや、短いほうじゃなくて長いほう」
「お前も朝霧みたいな指示するようになってきたな」
「今さら?」
朱莉は少し笑う。
「文化祭前日だよ。ふわっとしてたら終わんないでしょ」
その言い方が、いかにも朱莉だった。
恒一が紐を渡すと、朱莉は片手で受け取りながら器用に結び直した。
動きに迷いがない。
目立つタイプではないが、こういう“ちゃんと完成へ寄せる手”は本当に強い。
「ここの布、少しだけ引っ張る」
「了解」
「もっと」
「これで?」
「うん。そこで止めて」
結び終わったあと、朱莉は一歩下がって全体を見た。
「……よし。今のほうがいい」
「わかるのか」
「わかるよ。さっきまでちょっとだけ緩かったし」
「火乃森って、こういう時の目ほんと細かいな」
そう言うと、朱莉は少しだけ目を細めた。
「黒峰がちゃんと押さえてくれるから見れるんでしょ」
その返しが自然すぎて、一瞬言葉に詰まる。
「今の、さりげなく褒めた?」
ことねが後ろから食いつく。
「別に」
「いや、今のはかなりそうだったでしょ」
「作業の話だし」
「作業の話でも褒めは褒めだよ」
ことねは疲れているくせに、こういうところだけは元気だ。
でも、その元気もどこか少しほっとする。
完全に無理している感じでは、もうない。
◇
窓際では、しおんが灯りの最終確認をしていた。
一つ灯して、少し離れて見る。
消す。
また別の位置へ置いて見る。
その繰り返しだ。
「雪代」
恒一が声をかける。
「ん」
「もうそこ、だいぶ良くないか」
しおんは灯りの横にしゃがんだまま、少しだけ考える。
「良い。でも、あと少しだけ」
「何が」
「明日の朝の光だと、たぶん今より白く見える」
「ああ……」
「だから、今のうちに一段だけ温かくしておきたい」
しおんのそういう感覚は、最後まで一貫していた。
派手にはしない。
でも、空気の温度は譲らない。
「疲れてないのか、お前」
恒一が聞くと、しおんは少しだけ首を傾けた。
「疲れてる」
「見えにくいな」
「でも、今見ておかないと、明日ずっと気になるから」
「……わかる気がする」
すると、しおんは少しだけ笑った。
「黒峰くんも、今日はそんな感じ」
「どんな感じだよ」
「疲れてるけど、今やめたら気になるから続ける感じ」
それは、かなり図星だった。
「ほんとみんな、そういうのよく見てるよな」
「最近ずっと見てるから」
その言い方が静かなのに、妙に近い。
文化祭準備が進むほど、こういう短い一言のほうが変に残る。
◇
少しして、小鳥遊ましろが飲み物の入った袋を持って現れた。
「先輩たち、休憩してますか」
「してない」
ことねが即答する。
「やっぱり」
ましろはため息みたいに小さく息をついて、袋を机へ置いた。
「スポーツドリンクと、お茶と、のど飴です」
「また来た」
ことねが言う。
「ましろちゃん、もはや文化祭準備の守護精霊みたいになってない?」
「なってません」
「いや、なってるよ」
ことねは真顔だ。
「今のうちの教室で一番“困る前に来る”人だもん」
ましろは少しだけ考えてから、恒一へ小さな袋を差し出した。
「先輩、今日はこっち」
「何これ」
「喉用。昨日のとは別です」
その一言で、教室の空気がほんの少しだけ止まる。
昨日のとは別。
誰も、明言はしない。
でも、何を指しているかは全員分かる。
「あー……うん」
ことねが、半分だけ笑って半分だけ困った顔をする。
「最近、“喉”って単語が妙に強いよね」
「強いですね」
ましろはあっさり認めた。
凛がペンを置く。
「小鳥遊さん、それわざとか天然か分からない時あるよね」
「必要そうだったので持ってきました」
「その答えが一番判断困るんだよ」
それでも、ましろが持ってきた飲み物と飴に全員しっかり助けられているのが現実だった。
「うわ、生き返る……」
ことねがスポーツドリンクを一口飲んで言う。
「前日準備ってこんなに声使うんだね」
「夢咲さんが使いすぎなだけでは」
凛が言う。
「それはある」
朱莉も頷いた。
「ことね先輩、今日ずっと人に指示出してるし」
「だって説明係っぽくなっちゃうんだもん」
「なっちゃう、じゃなくてなってる」
凛の訂正は容赦ない。
でも、その容赦なさにすら少し疲れた笑いが混ざるくらいには、全員もうへとへとだった。
◇
夕方を越える頃には、いろはまで現れた。
扉のところから教室を眺めて、第一声がこれだった。
「いいね。今日、かなり顔がいい」
「また来た……」
恒一が額を押さえると、ことねが苦笑する。
「鳴瀬さん、それもう挨拶なの?」
「うん」
「よくない文化!」
いろはは気にせず前へ来て、変わった教室の空気と、そこにいる面々の顔を順番に見ていく。
「前日って感じする」
「何それ」
ことねが聞く。
「疲れてるのに、まだ終わらせたくなくて、終わったら少し寂しそうな顔」
誰もすぐには言い返せなかった。
それがかなり正しいからだ。
「……変なこと言うけど、わかる」
朱莉がぽつりと言う。
「終わったら楽になるのに、終わるのちょっと惜しい感じあるよね」
「ある」
ことねが頷く。
「ここまでずっと準備してきたから、明日で終わりって言われると急にさみしい」
「文化祭あるあるだね」
凛が言う。
「準備してる時間のほうが、案外長く残る」
その言い方が、珍しく情緒寄りだった。
「朝霧さん、今のちょっといいこと言った」
「たまには言う」
「その“たまには”が惜しいんだって」
笑いが起きる。
しおんはその会話を聞きながら、灯りを一つ消した。
教室が一段だけ静かになる。
それでいて、寂しすぎない。
「……これ、好きかも」
ことねが言った。
「少し暗くした時の感じ」
「本番はもう少し人入るから、もう一段だけ明るくてもいい」
しおんが答える。
「でも、今はこのくらいでちょうどいい」
そのちょうどよさが、前日準備の今の空気とよく合っていた。
◇
最後の確認が終わった頃には、時計はだいぶ遅い時間を指していた。
教室の真ん中へ机を少し寄せて、みんなで一度だけ全体を見渡す。
入口。
札。
灯り。
体験コーナー。
景品。
広報の掲示位置。
「……やったね」
ことねが、小さく言った。
大声ではない。
でも、その一言にかなりの実感がこもっていた。
「うん」
朱莉が頷く。
「ちゃんと形になった」
「まだ明日いろいろあるけどね」
凛はそう言いながらも、否定の調子ではない。
「でも、今日ここまで来たのは大きい」
「朝霧さんがそう言うと、ほんとに大きい感じする」
ことねが言う。
「だって、かなり切ってきた人の言葉じゃん」
「何それ」
「褒めてる」
ことねが笑う。
しおんも、静かに教室を見ていた。
「明日、人が入るの楽しみ」
その小さな声に、ことねがぱっと振り返る。
「雪代さんが“楽しみ”って言うの、なんかすごい効く」
「そう?」
「うん。だって本気っぽいから」
「本気だよ」
しおんは穏やかに言った。
ましろが、机の端へ空いたペットボトルを集めながら言う。
「先輩たち、ちゃんと寝てくださいね」
「それが一番難しい」
ことねが真顔で答える。
「たぶん今日、帰っても頭起きてるもん」
「わかる」
恒一も頷いた。
「疲れてるのに、なんか妙に眠れなそう」
「前日ってそういうものかも」
朱莉が言う。
「体は限界なのに、心だけ変に起きてる」
その表現が、あまりにも今の全員だった。
◇
片付けを終えて、みんなが少しずつ帰る準備を始める。
先にましろが「明日も見てます」と言って帰り、いろはは「本番の顔も豊作だといいね」と変な感想を残して去った。朱莉としおんは灯りの最終確認の話をしながら一緒に教室を出る。凛は最後まで備品表を確認してから、「明日遅れないで」とだけ言って先に行った。
気づけば、教室に残っていたのは恒一とことねだけだった。
入口の札の前。
やわらかい灯り。
ほとんど完成した教室。
「……なんか、ほんとに明日なんだね」
ことねが言う。
「今さらだな」
「今さらだけど」
ことねは少し笑ってから、教室の中を見渡した。
「ここまで来ると思ってなかった」
「思ってなかったのかよ」
「いや、だって最初はもっとバタバタして、途中で何か足りないとか、空気変になるとか、いろいろあると思ってたし」
「それは実際あっただろ」
「まあ、あったけど」
ことねはゆっくり振り向いた。
疲れている。
でも、目は起きている。
前日準備の最後らしい顔だった。
「でも、ちゃんとここまで来れたの、ちょっと嬉しい」
「うん」
「みんなで作った感じあるし」
「あるな」
「……黒峰くん」
「ん?」
「明日、ちゃんと成功するといいね」
その言い方は、文化祭の成功を祈っているだけにも聞こえる。
でも、それだけじゃない感じもあった。
ここまでの時間。
一緒に準備してきた空気。
積み上げてきたもの全部が、ちゃんと形になるといい。
そういう願いが、短い一言の中へ入っている気がした。
「するだろ」
恒一が答えると、ことねは少しだけ目を細めた。
「そういう返し、ずるいよね」
「なんで」
「なんか、ちゃんとそうなる気するから」
ことねは小さく笑った。
前日準備、みんな疲れてるのに心だけは妙に眠らない。
そのいちばん最後に残ったのは、ほとんど完成した教室と、少しだけやわらかいことねの声だった。




