第73話 匿名のメモのことを、誰も忘れていないのが一番厄介
教室の前方に残っていたのは、火乃森朱莉と黒峰恒一の二人だけだった。
夕方の光はすでに薄く、窓の外の空は群青へ傾き始めている。昼間のざわめきが嘘みたいに引いた教室で、朱莉は木札へ細い文字を書き込み、恒一はその横で椅子に座っていた。
静かだった。
でも、気まずいわけではない。
朱莉が筆を止めない音。
紙に触れる指先の小さな擦れ。
遠くの運動部の掛け声。
廊下を誰かが走っていく足音。
その全部が、今はちょうどよかった。
「……なんか、こういう時間久しぶりだな」
朱莉が手を動かしたまま言った。
「どれ」
「二人でいて、別に何も起きない時間」
その言い方に、恒一は少しだけ笑った。
「何も起きない、って言い方ひどくないか」
「いい意味だよ」
朱莉は筆を置いて、軽く手首を回す。
「最近、何か話すたびにちょっと意味増えるじゃん」
「それは分かる」
「でしょ」
朱莉は小さく息を吐いた。
「文化祭準備してるだけなのに、誰がどこに立ってるとか、誰と何話してるとか、ちょっとずつ見られてる感じするし」
「うん」
「正直、少し疲れる」
その疲れる、には、たぶんいくつか意味がある。
文化祭準備そのものの疲れ。
放課後が増えたことの疲れ。
そして、見たくないものまで見えてしまう疲れ。
恒一は机に肘をついて、少しだけ朱莉の横顔を見た。
「火乃森」
「なに」
「さっき、我慢してるって自分で分かってる感じだったな」
朱莉は一瞬だけ黙ってから、少し笑った。
「そんなに顔に出てた?」
「顔っていうか、言い方」
「うわ。最悪」
「いや、別に悪くはないだろ」
「悪いよ。幼馴染にまで見抜かれるの」
「幼馴染だからだろ」
その返しに、朱莉は少しだけ目を細めた。
「……そういうとこなんだよね」
「何が」
「近いのに、あんまり特別な言い方しないとこ」
それは責めているわけでも、褒めているわけでもない声だった。
ただ、本当にそう思っている人の声だ。
恒一は、返事に少しだけ困った。
「今の、難しいな」
「うん。私も言っててちょっと難しいと思った」
朱莉は苦笑して、それから机の上の木札を揃えた。
「でも、まあ……今日は少し楽」
「それならよかった」
「うん」
また静かになる。
このまま、文化祭の作業の話でもして終わるのだろうと思った時だった。
朱莉が、何気ない顔で言った。
「そういえばさ」
「うん」
「最近、机の中どうなの」
その一言で、教室の空気が少しだけ変わった。
恒一はすぐには答えなかった。
匿名の焼き菓子。
甘すぎないものを選びました、のメモ。
喉に良さそうなのを入れておきました、の飴。
文化祭準備が始まってから、直接その話題になることは少し減っていた。
でも、消えたわけじゃない。
「……何もない」
ようやくそう答えると、朱莉は小さく頷いた。
「そっか」
「なんだよ、その聞き方」
「いや、別に」
「別に、の顔じゃない」
さっき自分が言った言葉を、そのまま返される。
朱莉は少しだけ視線を逸らした。
「忙しくなったから、さすがに止まったのかなって」
「それは思う」
「でも、完全に終わった感じもしないんだよね」
その言葉は、妙に的確だった。
そうなのだ。
止まったようにも見える。
でも、終わった感じはしない。
最初の焼き菓子の時点で、もうただのいたずらではなかった。
メモがつき、飴が入って、そこに“見ている人”の温度が混ざり始めた。
それが文化祭準備で忙しくなったからといって、急にゼロになる気もしない。
「……誰も忘れてないしな」
恒一が言うと、朱莉は苦笑した。
「それなんだよ」
「何が」
「一番厄介なの、それ」
朱莉は静かに続ける。
「事件みたいに騒いでるわけじゃないのに、みんな忘れてない。夢咲先輩も、朝霧も、雪代さんも、小鳥遊さんも。たぶん、ひよりちゃんも鳴瀬さんも」
その名前が並ぶと、妙に現実味が増した。
たしかにそうだ。
誰も今さら“犯人探し”みたいにはしていない。
でも、それぞれ違う角度でずっと引っかかっている。
「……文化祭が終わる前に、また何かあると思う?」
朱莉が聞いた。
「分かんない」
「でも、ありそう?」
少しだけ間を置いて、恒一は答える。
「……ありそうな気はする」
朱莉はそれを聞いて、ほんの少しだけ息を吐いた。
「だよね」
その“だよね”の中に、安堵と面倒くささが同時に入っていた。
「なんで安堵っぽいんだよ」
恒一が言うと、朱莉は少しだけ困ったように笑う。
「だって、何もなかったら何もなかったで、逆に落ち着かない感じしてきてるのちょっと嫌じゃん」
「それは……」
「分かるでしょ」
「……分かる」
認めると、朱莉はまた小さく笑った。
「やっぱり」
その笑い方が、少しだけ昔に近かった。
◇
帰り道、恒一はその会話を少し引きずっていた。
匿名のメモのことを、誰も忘れていない。
それは事実だ。
文化祭準備が忙しくなって、話題がそっちへ流れても、完全に消えることはない。
むしろ、忙しい時ほどふとした瞬間に思い出す。
誰なんだろう。
何を見ていたんだろう。
あの言葉を書いた時、どんな顔をしていたんだろう。
考えても答えは出ない。
でも、もう考えないでもいられない種類のことになっている。
◇
翌日。
文化祭準備の昼休みの打ち合わせも、放課後の細かい作業も、全体としては平和だった。
ことねはだいぶいつもの調子へ戻っていて、でも少しだけ前より言葉を選ぶようになっていた。
凛は相変わらず現実担当で、でも前より少しだけ他人の気分の波に気づくようになっている。
朱莉は見える形を整えながら、たまに静かに刺す。
しおんは空気を見て、必要な時だけ動く。
ましろは別クラスなのに、ガムテと飲み物を持って現れた。
いろはは一瞬だけ顔を見に来て、「今日は疲れてるのに目だけ前向きでいい」とわけの分からない評価をして去っていった。
ひよりは景品の最終候補から変食を外されても、まだ少し諦めていない顔をしていた。
いつも通りと言えば、いつも通りだ。
ただ、文化祭本番が近づくにつれて、全員の動きが少しずつ速くなっている。
やることが増え、考えることも増える。
そして、そのぶん机の中のことまで、忘れる余裕がなくなるはずなのに。
それでも、忘れない。
そのことが本当に厄介だった。
◇
放課後。
その日は、少しだけ早く作業が終わった。
ことねが「今日ちょっと進んだ感じある!」と笑い、凛が「進んでないと困る」と返し、朱莉が「でも今日は本当に進んだ」と珍しく認めていた。しおんも「入口、だいぶ落ち着いた」と小さく言った。
少しだけ達成感がある。
その達成感のまま、みんなは順番に帰っていく。
恒一も鞄を取りに、自分の席へ戻った。
机の上は何もない。
それは確認するまでもない。
でも、最近は机の中も見ないと終われない。
自分でも、半分呆れている。
「……ないだろうけどな」
小さく呟きながら、机の中へ手を入れる。
教科書。
ノート。
筆箱。
その奥に、指先へ少しだけ柔らかい感触が触れた。
「……ん?」
動きが止まる。
紙ではない。
でも、ただのプリントの角ではない。
引き出す。
小さな透明の包み。
中には、丸い飴が一つだけ入っていた。
個包装の、喉飴とも違う、少し淡い色の飴。
市販の、どこにでもありそうなもの。
でも、机の中に入っているはずのないもの。
心臓が、少しだけ大きく鳴った。
「……おい」
誰もいない教室で、思わず声が漏れる。
紙はない。
メモもない。
ただ、飴が一つだけ。
それが余計に厄介だった。
机の中へ、また何かが入っている。
それだけで、前までの時間が一気に戻ってくる。
甘すぎないものを選びました。
喉に良さそうなのを入れておきました。
そして、今度は何も書かずに飴だけ。
黒峰恒一は、しばらくその小さな包みを見つめたまま動けなかった。




