第72話 幼馴染は、我慢している自分をちゃんと自覚している
火乃森朱莉は、自分が今、少しだけ面倒な感情を抱えていることをちゃんと自覚していた。
文化祭準備が始まってから、黒峰恒一の周りにはいつも誰かがいる。
夢咲ことねは明るく前へ出て、空気ごと巻き込んでいく。
朝霧凛は現実を見ながら、必要なところをきっちり締める。
雪代しおんは静かなまま、いちばん空気が揺れる瞬間へ自然に入ってくる。
小鳥遊ましろは生活の隙間から当然みたいに助ける。
鳴瀬いろはや毒島ひよりだって、別の角度からちゃんと存在感を残す。
その全部を見ていて、朱莉は思う。
――別に、おかしいことじゃない。
恒一は文化祭準備の中心にいる。
人が集まるのも自然だ。
誰かと話すのも、一緒に動くのも、全部ちゃんと理由がある。
それでも。
それでも、備品庫から戻ってきた時の、恒一と凛のほんの少しだけ静かな顔を見た瞬間。
胸の奥に、小さくて、でも無視できない何かが引っかかった。
嫌だった。
凛が悪いわけじゃない。
恒一が悪いわけでもない。
それは分かっている。
分かっているのに、嫌だった。
その“嫌だった”を、朱莉はちゃんと自分で認めていた。
◇
放課後の教室。
文化祭準備の時間。
今日は、入口まわりの細かい装飾ではなく、体験コーナーで使う木札や案内札の下書きを進めることになっていた。朱莉は前方の席を一つ使って、木札に書く文字のバランスを見ている。
和風寄りの空気にしたい。
でも、読みにくいのはだめ。
凝りすぎても浮く。
雑すぎるのはもっとだめ。
やることは単純で、だからこそ集中しやすい。
こういう時間は好きだった。
手を動かしている間は、余計なことを考えなくて済むから。
「朱莉ちゃん、それ文字すごくきれい」
ことねが、後ろから覗き込むように言った。
「そう?」
「うん。なんか、ちゃんと“手で作ってる感じ”ある」
「それ褒めてる?」
「かなり」
ことねは笑った。
今日はだいぶいつもの調子へ戻っている。
でも、完全ではない。
朱莉には分かる。
少し前まで静かだった人の、無理しない範囲での明るさだ。
「夢咲先輩こそ、さっきの写真よかったじゃん」
朱莉が言うと、ことねは少しだけ目を丸くした。
「え、見てた?」
「見てたよ。入口札の横で撮ったやつ」
「あれ、だいぶ悩んだんだよね。どこまで“楽しそう”を出して、どこまで“ちゃんと分かる”に寄せるか」
「うん。でも、ことね先輩っぽかった」
「なにその言い方。うれしい」
ことねは素直だ。
そういうところは、見ていて少し羨ましいとすら思う時がある。
朱莉が木札へ視線を戻した時、少し離れた場所で凛が恒一へ何か言っているのが見えた。
「黒峰、それ、先に切るとぐちゃっとなる」
「分かってるって」
「分かってる人の持ち方じゃない」
「お前その言い方好きだな」
「好きじゃない。事実」
やり取りはいつも通りだ。
短くて、少し刺して、でもどこか噛み合っている。
ことねもその会話に笑って入っていく。
しおんは静かに見ている。
何もおかしくない。
なのに、朱莉は小さく息を止めそうになる。
近い。
そう思ってしまう。
別に肩を寄せているわけでもない。
特別なことを言っているわけでもない。
でも、文化祭準備の流れの中で自然に噛み合っている感じが、変に胸へ残る。
「……火乃森さん?」
ことねが呼んだ。
「え?」
「ちょっと止まってる」
「あ、ごめん」
朱莉は筆ペンを持ち直した。
「平気?」
「平気。ちょっと文字のバランス見てただけ」
「ほんとに?」
ことねの目が少しだけ鋭い。
最近のことねは、人の空気の揺れに前より敏感だ。自分が静かになった時間を経験したからかもしれない。
「ほんと」
朱莉はそう言って、小さく笑った。
「大丈夫」
それは完全な嘘ではなかった。
作業自体はできる。
手も止まらない。
ただ、心のどこかが少しざわついているだけだ。
ことねは数秒だけ朱莉の顔を見ていたが、追及はしなかった。
「そっか。じゃあ、あとでその札、一回入口で見せて」
「うん」
助かった、と朱莉は思う。
今の自分は、深く聞かれると少し困る。
◇
作業は順調に進んだ。
木札の文字。
入口札の高さ。
仮の景品札。
小さな説明文。
やることは多いが、手を動かしていれば前へは進む。
問題は、手が止まった時だった。
誰かが笑う。
誰かが名前を呼ぶ。
誰かが自然に恒一へ話しかける。
それだけで、意識がそっちへ引っ張られる。
やめたいのに、やめられない。
「……はあ」
小さく息をつく。
その音を、自分で思っていた以上に近くで拾われた。
「朱莉」
凛だった。
いつの間にか、前方の席の横へ来ていたらしい。
「何」
「ちょっと疲れてる?」
「普通」
「普通の顔じゃない」
「最近みんなそればっかりだね」
朱莉が苦笑すると、凛は少しだけ肩をすくめた。
「文化祭準備って、顔に出るから」
「朝霧に言われたくない」
「失礼だな。私だって出る時は出る」
「出てても分かりにくいだけでしょ」
「まあ、それはそう」
凛は意外にも否定しなかった。
少しだけ間が空く。
朱莉はそのまま、木札へ視線を落としたまま言う。
「……別に、作業が嫌なわけじゃないよ」
「うん」
「文化祭準備自体は、ちゃんと楽しいし」
「うん」
「でも」
そこまで言って、自分で少しだけ笑う。
「ちょっとだけ、自分でも面倒くさいなって思ってる」
凛は、それ以上急かさなかった。
だから、朱莉のほうが続けるしかなくなる。
「なんかさ」
「うん」
「一緒にやってる時間が増えると、やっぱ見えちゃうじゃん」
「何が」
「いろいろ」
便利な言い方だった。
でも、今はそれで十分だった。
凛は少しだけ考えるような顔をした。
「……黒峰?」
朱莉は、返事の代わりに小さく息を吐いた。
それで、たぶん十分だった。
「まあ、そうだよね」
凛の声は低い。
変に慰めもしない。
でも、雑にも扱わない。
「私だって、全然分からないわけじゃないし」
その言葉に、朱莉は少しだけ目を上げた。
「分かるの?」
「分かるよ」
凛はあっさり言った。
「今のこの状況で、“文化祭準備だから”だけで全部流せるほど器用じゃないでしょ、みんな」
それは、ひどく正しい言い方だった。
誰も悪くない。
文化祭準備は必要。
距離が近くなるのも自然。
でも、自然だからって、何も感じないで済むわけじゃない。
「……朝霧って、そういうの分かってるくせに平然としてるよね」
朱莉が言うと、凛は少しだけ苦笑した。
「平然としてるように見せてるだけかも」
「え」
「いや、今のは忘れて」
「今の、忘れられないやつなんだけど」
凛は一瞬だけ気まずそうに視線を逸らした。
「とにかく」
少しだけ早口になる。
「朱莉が今、少し嫌だなって思ってても、それで文化祭準備壊さないようにしてるのは分かる」
その言葉は、妙にまっすぐだった。
「……壊したくないよ」
朱莉は、小さく言う。
「せっかくちゃんと進んでるし」
「うん」
「みんな頑張ってるし」
「うん」
「だから、今ここで変な顔したくないだけ」
その“変な顔したくない”の中に、かなり多くの意味が入っていることを、凛はたぶん分かっていた。
「なら、それでいいと思う」
「それでいいの?」
「今はね」
凛は短く答えた。
「今は、ちゃんと終わらせるほうが先」
それは、あまりに凛らしい答えだった。
恋愛や感情の話を完全に否定するわけじゃない。
でも、優先順位を切る。
今は文化祭準備。
だから、まずはそこを壊さない。
朱莉は、小さく笑った。
「ほんと、そういうとこ朝霧だよね」
「褒めてる?」
「半分」
「最近それ流行ってるの?」
「便利だから」
二人のあいだで、少しだけ笑いが起きた。
その笑いのあとで、朱莉は少しだけ楽になっている自分に気づいた。
◇
日がだいぶ傾いて、準備も終わりに近づく。
今日はここまで、という空気になって、ことねと凛は備品の確認へ、しおんは灯りを箱へ戻しに行った。
気づけば、教室の前方に残っていたのは朱莉一人だけだった。
木札。
細い筆ペン。
入口用の小さな説明札。
まだ、書ききれていないものが少しだけ残っている。
静かな教室。
遠くの運動部の掛け声。
廊下の足音も、さっきよりだいぶ減っている。
「……まあ、これくらいのほうが楽か」
朱莉は小さく呟いて、札へ向き直った。
手を動かす。
文字を書く。
余白を見る。
それだけに集中していれば、余計なことは少し薄れる。
でも、完全には消えない。
備品庫から戻ってきた時の、凛と恒一の少しだけ静かな顔。
ことねの、今日の明るさの戻し方。
しおんの、空気をずらすみたいな優しさ。
みんなそれぞれ、ちゃんと近い。
その中で、自分は何なんだろうと思う。
幼馴染。
昔から知っている。
説明が少なくても動ける。
安心もするし、イラつくこともある。
それは強い。
強いはずだ。
でも、“昔から知っている”だけでこれから先までずっと同じ位置にいられる保証なんて、どこにもない。
「……面倒」
小さく笑う。
自分でも、今かなり面倒くさいことを考えている。
その時だった。
「火乃森」
声がした。
顔を上げる。
教室の入口に、恒一が立っていた。
もう帰ったと思っていたから、少しだけ驚く。
「……なに」
「いや」
恒一は少しだけ近づいてくる。
「一人で残ってるから」
「残ってたらだめなの?」
「だめじゃないけど」
そう言って、朱莉の机の上を見た。
「まだ書いてたのか」
「あと少しだけ」
「手伝う?」
その言い方が、あまりにも自然だった。
朱莉は、少しだけ笑った。
「文字書くの手伝えるの?」
「いや、そこは無理」
「じゃあ何手伝うの」
「終わるまで一緒にいるくらいはできる」
その一言が、妙にずるかった。
幼馴染というのは、こういうところが厄介だ。
今ほしい言い方を、ちょうどよく選ぶ時がある。
「……それ、優しいね」
朱莉が言うと、恒一は少しだけ困ったように笑った。
「そうか?」
「そうだよ」
朱莉は視線を札へ戻した。
「まあ、座れば」
「おう」
恒一が近くの椅子を引く音がする。
静かな教室。
筆ペンの音。
隣にいる気配。
幼馴染は、我慢している自分をちゃんと自覚している。
でも、その我慢の中で、こうして少しだけ救われる瞬間まであるから、余計に面倒なのだろうと、火乃森朱莉は思っていた。




