第70話 静かな子は、空気が荒れる前に先に気づく
夢咲ことねの調子が完全に戻ったわけではない、ということを、黒峰恒一は翌日の放課後になってもまだ感じていた。
見た目にはいつも通りに近い。
笑う。
返事をする。
文化祭準備の話になればちゃんと前へ出る。
でも、前みたいに“考える前に空気へ飛び込む”感じが少しだけ薄い。
それが悪いわけじゃない。
むしろ、昨日より自然で、無理が減っている気もする。
ただ、その微妙な変化を周囲がどう受け取るかまでは、まだ読めなかった。
今日の作業は、入口札の最終仮置きと、体験コーナー周辺の細かい動線確認。それに加えて、広報用に教室の途中経過を少しだけ写真へ残す予定もある。
ことねがその“写真”に関わる以上、前より少しだけ目立つ日でもあった。
「じゃあ、とりあえず札の位置もう一回見るね」
ことねが言う。
言い方は明るい。
でも、前ほど勢いで押し切らない。
その“少し引いた明るさ”が、分かる人には分かってしまう感じがあった。
前方の席で文化祭の話をしていた女子二人が、ことねの声を聞いてちらっと顔を上げる。
別に悪い視線じゃない。
でも、“いつもより静かだな”と気づくには十分な視線だった。
恒一がそれに気づいた時には、もう別のところで少し空気が動いていた。
「夢咲さん、今日ちょっと大人しい?」
前方にいた女子の一人が、軽い調子で言ったのだ。
軽い。
軽い言い方だ。
それだけに、返し方を間違えると変な空気になりやすい。
ことねは一瞬だけ笑おうとして、ほんの少しだけ止まった。
「え、そうかな」
「なんか昨日もそんな感じじゃなかった?」
「いや、別に普通だけど」
返せている。
返せているが、少しだけ硬い。
その微妙な硬さを、恒一は見逃せなかった。
そして、たぶん朱莉も、凛も、しおんも見ていた。
「……」
しおんが、動いた。
動いたと言っても、大きく前へ出るわけじゃない。
ただ、入口側に仮置きしてあった灯りの箱を持って、自然にことねの近くへ行っただけだ。
「夢咲先輩」
静かな声。
「これ、一回ここで見てほしい」
ことねがそちらを見る。
「え?」
「写真に入る位置、こっちのほうがいいかも」
それだけ。
それだけなのに、空気がすっとずれた。
さっきまで“ことねが今日は少し静かかどうか”へ向きかけていた周囲の視線が、一気に“灯りの位置の話”へ流れる。
「どこどこ?」
ことねは反射みたいにそちらへ行く。
「こっち」
しおんが灯りを少し持ち上げる。
「入口札と一緒に入れるなら、今の位置だとちょっと切れる」
「うわ、ほんとだ」
ことねの声が少し戻る。
「これだと端が寂しいかも」
「そう」
しおんは静かに頷く。
「だから、こっち」
それを見た朱莉が、すぐに札の位置を微調整した。
「じゃあ、札あと少し右かな」
凛も会話へ入る。
「右に寄せるなら、床の導線死なない位置で止めてね」
「朝霧さん、それ一回“いいね”から入ってよ」
ことねが言う。
その返しが出た時点で、だいぶ大丈夫だと分かった。
「いいね。でも右に寄せすぎると危ない」
「後半早いんだって!」
いつものやり取りが、小さく戻る。
さっきことねへ声をかけた女子も、もう自然にそっちの輪へ入っていた。
誰も、さっきの“ちょっと大人しい?”の続きをしない。
しおんはそれ以上何も言わず、少し離れて全体を見ていた。
あまりにも自然だった。
ことねを庇うようでもなく。
話題を変えようと露骨に見えるでもなく。
ただ、本当に必要な作業を差し込んで、空気の矢印をずらしただけ。
「……今の、うまいな」
恒一が小さく言うと、凛が同じく小声で返した。
「雪代さん、ああいうの早いよね」
「見えてたのか」
「見えてた」
凛は短く言う。
「夢咲さんに視線集まりかけた瞬間に、ちゃんと別の中心作ってた」
「朝霧さん、それ分かるなら先に動けばよかったじゃん」
恒一が言うと、凛は少しだけ眉を寄せた。
「私は、ああいう時に前へ出ると逆に“庇ってる感”強くなる」
「……ああ」
「雪代さんのやり方のほうが、たぶん自然」
それは確かにそうだった。
凛が入れば、“明らかに空気を切り替えた”感じになる。
しおんは、その切り替えをほとんど感じさせないままやってしまう。
◇
しばらくして、作業の流れが落ち着いた頃だった。
ことねは写真の撮り方を確認し、朱莉は入口札の支えを見直し、凛は備品表へ追記をしている。
しおんは窓際から入口側を何度か見て、光の入り方を確認していた。
恒一は、そのしおんの横へ自然に立った。
「雪代」
呼ぶと、しおんがゆっくりこちらを見る。
「ん?」
「さっき」
「うん」
「助けたろ」
しおんは少しだけ瞬きをした。
「助けた?」
「夢咲の空気」
しおんは、ほんの少しだけ考えるように沈黙した。
それから静かに答える。
「荒れそうだったから」
「やっぱ分かってたんだな」
「うん」
「どのへんで?」
しおんは入口札のほうへ視線を向けたまま言う。
「夢咲先輩が笑う前に少し止まった」
「……それで?」
「そのあと、周りが“どうしたんだろう”のほうを見る感じになったから」
そこまで見えていたのか。
「すごいな」
思わず言うと、しおんは少しだけ首を傾げた。
「たぶん、そういうの気になるだけ」
「気になるっていう範囲超えてる気がするけど」
「でも、放っておくと夢咲先輩、余計に頑張るから」
その言葉に、恒一は少し黙った。
たしかにそうだ。
ことねは、空気が変だと感じると、無理してでも明るくしようとする。
それは昨日も一昨日も見てきた。
「だから、そっちへ行く前に別のこと置いた」
「灯りの位置か」
「うん」
「ほんとに必要なやつだったしな」
「必要じゃないと、不自然になるから」
それが、しおんのすごいところなのだろう。
単に話題を逸らすんじゃない。
ちゃんと必要な作業を持ってきて、その中へ自然に人を戻す。
「……雪代ってさ」
「うん」
「空気が荒れる前に気づくの、だいぶ強いよな」
しおんは少しだけ目を細めた。
「荒れてからだと、戻すの難しいから」
「それはそうだけど」
「だから、先に」
その“先に”が、しおんの全部みたいだった。
◇
作業が終わりに近づいた頃、ことねがしおんへ声をかけた。
「雪代さん」
「なに」
「さっき、ありがと」
しおんが少しだけ首を傾げる。
「灯りのやつ」
「うん」
「たぶん、助かった」
ことねの言い方は、あくまで軽かった。
でも、その軽さの奥に本音があるのが分かる。
しおんは、やっぱり静かに答えた。
「ならよかった」
それだけ。
それだけなのに、ことねは少しだけ笑った。
「なんかさあ」
ことねが続ける。
「雪代さんって、静かなのにたまに一番助けるとこあるよね」
「そう?」
「あるよ」
朱莉が横から言う。
「しかも助けた感じ出さないのが強い」
凛も頷く。
「うん。あれ、私にはできない」
「朝霧さんにもできないことあるんだ」
ことねが言うと、凛は少しだけ呆れた顔をした。
「あるよ。普通に」
「なんかちょっと安心した」
「何その安心」
少しだけ笑いが起きる。
その空気を見ながら、恒一は思っていた。
しおんの近づき方は、やっぱり独特だ。
押さない。
喋りすぎない。
でも、一番必要な時に、一番自然な形で近くへ入ってくる。
静かな子は、空気が荒れる前に先に気づく。
そしてその強さは、派手じゃないからこそ余計に深く残るのだった。




