第68話 放課後に残る回数が増えると、見てる側はちゃんと見ている
文化祭準備が本格的に動き出してから、黒峰恒一の放課後はほとんど毎日、どこかしらで教室と繋がっていた。
机を動かす日。
配置を確認する日。
ポスター案を詰める日。
買い出しのメモを整理する日。
全部、必要なことだ。
必要だし、ちゃんと文化祭の準備でもある。
でも、必要で正しいことと、それが周囲にどう見えるかは別の話だった。
そのことを、恒一は火曜日の昼休みに思い知らされることになる。
◇
昼休み。
購買前の廊下は、いつも通り人が多かった。
パンの袋を持った女子たちが笑いながら行き交い、階段前では飲み物片手に立ち話をしている生徒がいる。教室の中よりも少しだけ雑多で、でもそのぶん、会話の断片がよく耳に入る場所だ。
恒一は、自分のクラスへ戻る途中で立ち止まった。
別に、盗み聞きするつもりはなかった。
ただ、通路の角を曲がろうとした瞬間、自分の名前が聞こえたのだ。
「――黒峰くんってさ、最近ずっと残ってない?」
足が止まる。
声の主は、隣のクラスの女子二人だった。
見覚えはあるが、名前までは分からない。
二人とも購買のパンを持ったまま、窓際で話している。
「残ってるね。文化祭の中心っぽいし」
「いや、中心っていうか……なんか、いつも周りにいるメンバー決まってるじゃん」
「あー、分かる」
片方が笑う。
「夢咲さんと、朝霧さんと、火乃森さんと、静かな子と……あと何か後輩の子もよくいるよね」
「いるいる。ていうか、文化祭準備でさらに距離縮んでる感じしない?」
その一言が、妙に耳へ残った。
文化祭準備でさらに距離縮んでる。
たぶん、悪意のある言い方ではない。
ただの噂話だ。
よくある、学校の廊下で消費される軽い会話。
それでも、こうして外から言葉にされると、急に現実感を持つ。
「誰が本命なんだろ」
「いや、あそこまで行くともうよく分かんないって。みんなそれぞれ近そうだし」
「でも、夢咲さん一番分かりやすくない?」
「分かる。あと朝霧さん、静かなのに実は強そう」
「火乃森さんも普通に近いよね。あれ幼馴染なんでしょ?」
「え、そうなの? じゃあ強いじゃん」
「で、静かな子が一番怖いやつだったりして」
二人は笑った。
軽く。
本当に軽く。
それなのに、恒一はなぜかその場からすぐに動けなかった。
自分たちが最近やっていることは、全部文化祭の準備だ。
机を動かして、ポスターを作って、買い出しに行って、放課後残って。
そこに嘘はない。
でも、外から見ればそれはただの“放課後によく一緒にいる人たち”でもある。
「……まあ、そりゃそう見えるよな」
小さく呟いてから、恒一はようやく歩き出した。
だが、その言葉は思ったよりあとまで残った。
◇
教室へ戻ると、ことねが最初に気づいた。
「遅かったね」
「ちょっと購買前混んでて」
「パン取れなかった?」
「いや、別にそういうわけじゃ」
言いながら、自分でも少しだけ声が平坦だと分かった。
ことねはパンを袋から出す手を止める。
その反応の速さは、最近ますます鋭くなっていた。
「……なにかあった?」
「え」
「今の“別にそういうわけじゃ”の温度、ちょっと低い」
「温度って」
「そういうのあるでしょ。いつもの返しより、ちょっとだけ落ちてる感じ」
そこへ、凛が横から口を挟んだ。
「夢咲さん、その説明だとたぶん黒峰には伝わりにくい」
「じゃあ朝霧さんならどう言うの」
「今の黒峰、ちょっと気分落ちてる」
「それだ」
ことねが指をさした。
「で、何があったの」
隠しても、たぶん無駄だった。
恒一は少しだけ迷ってから答える。
「……別クラスのやつらが、廊下で噂してた」
ことねの表情が、一瞬だけ止まる。
「噂?」
「うん。最近ずっと残ってるとか、文化祭準備でさらに距離縮んでる感じするとか」
言葉にした瞬間、教室の空気が少しだけ変わった。
ことねはパンを持ったまま黙る。
凛は、分かりやすく眉を寄せた。
朱莉は窓際の席から視線だけこちらへ向ける。
しおんは静かに箸を置いた。
「……それ、まあ、言われるだろうね」
最初にそう言ったのは凛だった。
現実的で、冷静で、いつも通りの返答。
でも、その声には少しだけ嫌そうな硬さがあった。
「分かってる」
恒一が答える。
「分かってるけど、実際に聞くとやっぱ微妙だなってだけ」
「どんな感じで言ってたの?」
ことねが聞く。
声は明るいままに聞こえる。
でも、その明るさがほんの少しだけ上滑りしているのを、恒一は感じた。
「軽くだよ。誰が本命なんだろう、とか、文化祭準備でさらに距離縮んでる感じするとか」
ことねの手が、ほんの少しだけ止まる。
「……そっか」
それだけだった。
短い。
でも、短いからこそ、響いた。
朱莉が静かに口を開いた。
「クラスの外まで行ったんだ」
「たぶん、放課後残ってるの見られてるんだろ」
「そりゃ見るよね」
朱莉は淡々としていた。
でも、その淡々さの奥にあるものは、昔より少しだけ読みやすくなっている。
「だって、最近の私たち、わりと目立ってるし」
「“私たち”って言うとまた広いな」
恒一が言うと、朱莉は肩をすくめた。
「黒峰の周り、でいい?」
「そっちのほうがさらに刺さるんだよな」
少しだけ笑いが起きる。
けれど、その笑いは軽くない。
◇
その日の午後は、妙に長かった。
授業は普通に進む。
先生は黒板に字を書く。
ノートも取る。
でも、頭の片隅にはさっきの噂話が残っていた。
文化祭準備で、距離が縮んでる感じ。
そう言われた。
言われて、否定しきれないところがあるのが厄介だった。
ことねは、昼休みのあとから少しだけ静かだった。
まったく喋らないわけじゃない。
普通に返事もするし、ノートも取る。
でも、普段のように小さなことへすぐ反応する感じが、少しだけ薄い。
五時間目のあと、凛がそれに気づいた。
「夢咲さん」
「なに」
「さっきから静かすぎ」
「そう?」
「そう」
ことねは少しだけ笑った。
「まあ、ちょっとね」
「噂のこと?」
「うん」
ことねはそこを隠さなかった。
凛は一瞬だけ黙り、それから机へ視線を落とした。
「……気にするなって言って済む話でもないか」
「そうなんだよね」
ことねの声は、やっぱり少しだけ静かだ。
「別に、見られるのが嫌っていうより……なんていうか」
「うん」
「文化祭の準備してるだけなのに、“誰と誰がどう近いか”みたいに見られるの、ちょっとやだなって」
その言い方が、前の「軽く見られたくない」に少し近かった。
楽しい。
頑張っている。
近くにいたい。
そういうものが、全部まとめて“恋愛の配置図”みたいに雑に処理される感じが、しんどいのだろう。
「でも、そう見えるのも分かるから余計やなんだよ」
ことねは小さく言う。
「分かる」
今度は、しおんだった。
その一言は短い。
でも、ちゃんと重さがあった。
「文化祭の準備って、ただ残ってるだけじゃなくて、一緒にいる時間が増えるから」
「うん」
「見てる側は、そこだけ取る」
しおんの言い方は、いつもみたいに静かだ。
静かなのに、ずいぶん鋭い。
「だから、夢咲さんが気になるのも分かる」
ことねは、その言葉を聞いて少しだけ目を伏せた。
「ありがと」
そして、小さく笑おうとした。
笑った。
でも、いつもみたいにぱっと場を明るくする笑いではなかった。
凛が、それを見て少しだけ息を吐く。
「……文化祭準備、普通に進めたいだけなんだけどね」
「ほんとだよ」
ことねが言う。
「もっと“これかわいい!”とか“ここどうする?”だけでわちゃわちゃしたいのに」
「現実はそうでもない」
「朝霧さん、そこで現実担当しなくていいから」
「でも、本当だし」
その返しにすら、ことねは今日は大きくは笑わなかった。
◇
放課後。
文化祭の作業のために残る生徒たちが、前のほうへ少しずつ集まってくる。
今日やるのは、入口札の試作と体験コーナーの簡易レイアウトの確認。
地味だが大事な日だった。
ことねはいつも通り、広報用のメモを持って前へ来た。
来たのだが、声の出し方がやっぱり少し違う。
「じゃあ、とりあえず……」
そこで一回止まる。
普段ならもっとすっと言葉が出る。
「入口の札、位置だけ一回見ようか」
「夢咲さん」
凛が、小さく呼ぶ。
「なに」
「無理に回さなくていいよ」
ことねが一瞬だけ動きを止めた。
「え」
「今日ちょっと、いつもの感じじゃないし」
「……そんな分かる?」
「分かるよ」
凛は平然として言う。
でも、その声は責めるものではなかった。
「夢咲さんって、空気回す時もっと早いでしょ。今、少しだけ自分の声の出し方探してる」
ことねはしばらく黙っていた。
それから、少しだけ苦笑した。
「やだなあ……」
「何が」
「朝霧さんって、そういうのたまにちゃんと見てるから」
「たまにじゃなくて、わりと見てる」
「そこは今言わなくていいって」
少しだけ、ことねの笑いが戻る。
でも完全ではない。
空気を回そうとする癖と、今は少し静かでいたい気持ちが、うまく噛み合っていない感じだった。
それを見て、恒一はようやく動いた。
「ことね」
名前を呼ぶと、ことねがこちらを見る。
「ん?」
「無理して回さなくていい」
教室の前方の空気が、少しだけ止まった。
ことねの目が少しだけ揺れる。
朱莉も、しおんも、凛も、黙ってそれを見ていた。
「今日は、普通にやるだけでいいだろ」
恒一は続ける。
「札の位置見るのも、レイアウト確認するのも、別にお前がずっと喋ってないと進まないわけじゃないし」
ことねはすぐには返事をしなかった。
でも、その沈黙は拒絶ではない。
「……うん」
ようやく出た声は、少しだけやわらかかった。
「ありがと」
それだけ言って、ことねはメモを持ち直す。
「じゃあ今日は、喋りすぎない広報担当でいきます」
「なんだそれ」
恒一が思わず言うと、ことねは少し笑った。
「だって、完全に黙るのも違うし」
「それはそう」
凛も頷く。
「夢咲さんがゼロになると、それはそれで空気変だから」
「ね」
ことねは少しだけ肩をすくめた。
「結局、全部やめたいわけじゃないんだよね」
その言い方は、すごくことねらしかった。
明るい。
でもその明るさは、ただの癖じゃなくて、自分で選んで使っているものなのだろう。
◇
文化祭準備はそのあと、ちゃんと進んだ。
入口札の位置を確認し、しおんが「あと五センチ右」と静かに言い、朱莉が支えて、凛が「そのままだと通路狭い」と現実を入れる。ことねはそのあいだ、必要な時だけ言葉を足し、広報として見た時の印象を短く言う。
普段より少し静か。
でも、そのぶん一言ずつがはっきりしている。
「……それ、いいかも」
ことねが、入口札の位置を見て言った。
「遠目でも分かるし、写真撮る時も邪魔にならない」
「今の感じなら、入口の流れも死なない」
凛が言う。
「雪代さん、どう?」
「うん。止まりすぎない」
しおんのその評価が、最近はみんなの中でかなり信頼されている。
「じゃあ仮でこれにしよう」
朱莉が言う。
「あとで布かけた時にもう一回見ればいいし」
自然に、話が前へ進む。
その流れの中で、ことねは少しだけ息を吐いた。
完全に元気になったわけではない。
でも、さっきよりはちゃんとここに戻ってきている。
放課後に残る回数が増えると、見てる側はちゃんと見ている。
それは外のクラスだけじゃない。
教室の中でも、みんなちゃんと見ている。
誰が無理して明るくしているか。
誰が現実へ戻しているか。
誰が空気の荒れ方を先に見ているか。
そして、誰がそれにどう声をかけるか。
文化祭準備は、やっぱり普通の作業だけでは済まなかった。




