第64話 生活導線ヒロイン、文化祭準備でも先回りをやめない
文化祭準備が本格的に始まってから三日目の放課後、黒峰恒一は自分でも笑いたくなるくらい分かりやすく手が止まっていた。
教室の前方では、ことねが入口用の案内札の文言をあれこれ試している。
凛は備品表とにらめっこしながら、今日使う分とまだ出さなくていい分を分けていた。
朱莉は壁際へ寄せた机の位置を微調整し、しおんは灯りを仮置きした時の見え方を少しずつ確認している。
みんなそれぞれ動いている。
動いているのだが、恒一だけは今、教室の真ん中でロール状の布を持ったまま、妙に中途半端な姿勢で固まっていた。
「……あれ」
小さく漏れる。
ことねがすぐに反応した。
「なに? どうしたの?」
「いや、ガムテどこだっけ」
「え」
「さっきまであったよな」
「朝霧さんが持ってたんじゃない?」
ことねが振り向く。
凛は顔を上げた。
「さっき黒板横に置いた」
「ない」
「え?」
凛がすぐに立ち上がる。
教卓の脇、窓際の棚、前の席。
見える位置をざっと確認して、それから小さく眉を寄せた。
「……ほんとだ。ない」
「え、うそ。ここで消える?」
ことねが言う。
「消しゴムじゃないんだよ?」
「夢咲さん、そういう雑な例え今いらない」
「でもほんとにないじゃん」
恒一は布を持ったまま、少しだけ手を動かした。
この布は今日、仮で入口横へ垂らして、見え方を確認したいものだ。
だから途中でやめるのも違う。
でも固定用品がないとどうにもならない。
「……ちょっと待てばいいか」
自分でそう言ったものの、声にはあまり元気がなかった。
その瞬間。
「先輩」
教室の後ろ扉から、柔らかい声がした。
振り向く。
小鳥遊ましろだった。
小柄で、落ち着いた雰囲気の後輩。別クラスなのに、なぜかこちらの教室へ入ってくるタイミングが妙に自然な子だ。今日も両手に小さな袋を持っていて、その顔はいつも通り控えめなのに、目だけはまっすぐこちらを見ていた。
「……なんでいるんだ」
恒一が聞くと、ましろは少しだけ首を傾けた。
「文化祭準備、今日もこの時間かなと思って」
「それだけで来る?」
「それだけではないです」
ましろはそう言って、右手の袋を少し持ち上げた。
「ガムテープ、予備です」
教室の空気が、一瞬止まった。
「……は?」
ことねが一番に声を出す。
「なんで!?」
ましろは不思議そうに瞬きをした。
「昨日の時点で、使用ペース的に今日このへんで一本なくなると思ったので」
「使用ペース的に!?」
ことねの声が半音上がる。
凛が、額を押さえそうになってやめた。
「小鳥遊さん、そこまで読んでたの?」
「はい」
ましろは当然みたいに頷く。
「昨日、入口周辺で固定の仮止めを結構やっていたので。今日布を本格的に触るなら、たぶん切れます」
「……ほんとに切れた」
朱莉が小さく言う。
「すごいな」
しおんも静かに見ている。
恒一は、ましろが差し出したガムテープを半ば反射で受け取った。
「助かるけど、何その読み」
「先輩、このへんで手が止まるので」
ましろは静かに言う。
その一言が、妙にすっと教室に落ちた。
ことねが頭を抱える。
「やだもう、ましろちゃんそれ強すぎる」
「強いですか?」
「強いよ! だって今、完全に黒峰くん止まってたじゃん!」
「はい。なので持ってきました」
それをそんな平然と言うな。
◇
おかげで作業はすぐ再開できた。
布を入口横へ垂らす。
仮止めして少し離れて見る。
しおんが位置を調整し、ことねが見え方を言い、凛が固定の安全性を見て、朱莉が完成した時の形を考える。
そして、ましろはなぜか自然に、その輪の少し外側へいた。
「小鳥遊さんって、別班だよね?」
凛が作業しながら聞く。
「はい」
「なのに、なんでこんなに自然にここにいるの」
「必要そうだったので」
「だからその必要判断が早いんだって」
ことねが言う。
ましろは少しだけ考えるようにしてから、率直に答えた。
「先輩、文化祭準備入ると、道具足りない時に一回黙るので」
「うわ」
ことねが恒一を見る。
「それ、当たってる?」
「……当たってる」
素直に認めると、ことねは本気で笑った。
「ましろちゃん、観察力こわいなあ」
「こわくないです」
「いや、ちょっとはこわいよ?」
「でも、助かってますよね」
その問いが、妙に落ち着いていた。
凛が小さく息を吐く。
「そこはそう」
「朝霧さんまで」
「だって助かったのは事実だし」
朱莉も頷く。
「うん。さっき完全に止まりかけてたし」
恒一が苦笑する。
「もう俺の扱いが“止まる人”になってきてるな」
「止まるよ」
しおんが静かに言った。
「道具ない時と、水分切れた時と、少し疲れた時」
「分類細かいな」
「見えてるから」
最近この台詞を聞きすぎて、もう否定する気力も薄れていた。
◇
しばらくして、布の位置がだいたい決まった頃だった。
恒一は入口横の低い棚へ屈み込み、木札を仮置きしようとして、また少しだけ動きを止めた。
手の甲がなんとなくざらつく。
さっきから紐や木板を触っていて、手の乾きが気になり始めていた。
「……地味に手痛いな」
ぼそっと漏らした瞬間だった。
「先輩」
また、ましろだった。
今度は左手の袋から、軍手を一組取り出している。
「これ使ってください」
「なんで出てくるんだよ」
「今日たぶん木材と紐触る時間長いので」
「だからなんでそこまで……」
「昨日の買い出しで、木札の角ちょっと荒かったじゃないですか」
ましろはほんとうに当然みたいに言う。
「あと、先輩、手が乾いてると触るの少し雑になるので」
「うわー……」
ことねがもう笑うしかないという顔で言った。
「ましろちゃん、それ本人の前でそんな正確に言う?」
「でも本当です」
朱莉が軍手を見て、少しだけ感心したように言う。
「そこまで読んで持ってきたんだ」
「はい」
「軍手まで?」
「はい」
「……負けた感じするな」
ことねが言う。
「何に?」
凛が聞く。
「こういう、“必要なものを必要なタイミングで出す”やつに」
ことねは正直だった。
「私、文化祭の見え方とか、入口の印象とかはいっぱい考えるけど、“黒峰くん今このへんで手荒れるな”はたぶん出てこないもん」
「夢咲さんはそこじゃないからいいんじゃない」
凛が言う。
「でも、こういうの見るとさあ……」
ことねは半分ふてくされたみたいな、半分感心してるみたいな顔でましろを見た。
「ましろちゃん、強いんだよなあ」
ましろは少しだけ首を傾げた。
「強いですか?」
「強い」
今度は朱莉も言った。
「しかも無自覚っぽいのが余計に」
「無自覚ではないです」
ましろが静かに答える。
その一言に、場の空気が少しだけ変わった。
「……え、そうなの?」
ことねが聞く。
「はい」
ましろは軍手を恒一へ渡しながら続けた。
「先輩が、止まりそうなところとか、困りそうなところ、最近わりと見えるので」
「それを先回りしてるってこと?」
「そうです」
「うわ、そこ認めるんだ」
ことねが小さく目を見開く。
ましろは少しだけ考えてから言った。
「だって、困ってから渡すより、その前に出したほうが先輩楽なので」
その言い方は、派手じゃない。
でも、かなりまっすぐだった。
凛が小さく息を吐く。
「小鳥遊さんって、そういうところで躊躇ないよね」
「必要なら出します」
「そこがすごいんだよ……」
ことねがぼやく。
◇
軍手をつけると、たしかに木札の扱いはかなり楽になった。
「……助かる」
恒一が素直に言うと、ましろは少しだけ目をやわらげた。
「よかったです」
その“よかったです”が、妙に自然で困る。
「黒峰くん」
ことねが声をかけてくる。
「なに」
「今、だいぶ助けられてる顔してる」
「助けられてるからな」
「そうなんだけど、もうちょっと抵抗しないの?」
「なんでだよ」
「いや、こう、後輩にここまで読まれて先回りされると、普通ちょっと照れたりしない?」
恒一は少しだけ言葉に詰まる。
「……してないとは言わない」
「ほら!」
ことねが指をさす。
「やっぱしてるじゃん!」
「でも、助かるのは本当だし」
「うわ、それ言われると何も言えない……」
ことねは机に頬杖をついた。
その横顔には、面白がっているのと、少しだけ複雑なのが同時に出ている。
朱莉がそれを見て、小さく笑った。
「ことね先輩、今だいぶ顔に出てるよ」
「火乃森さんまでそういうこと言う?」
「言うよ。だって分かるし」
「もう最近みんなそればっかり……」
しおんが静かに言う。
「でも、ことね先輩のその顔、嫌ではなさそう」
「え?」
「驚いてるけど、嫌ではない顔」
ことねが言葉を失って、少しだけ頬を染めた。
「雪代さん、その観測やめてよ……」
「本当だから」
しおんは穏やかだ。
穏やかなのに、刺す時はちゃんと刺す。
◇
作業がひと段落した頃には、教室の入口周辺はだいぶ変わっていた。
机の位置が整い、入口横の布もいい感じに落ち着いた。
低い位置の札も仮置きされ、灯りを置いた時のイメージまで見え始めている。
「うん、だいぶよくなった」
ことねが言う。
「入口、ちゃんと“入ってみようかな”って感じある」
「まだ仮だけどね」
凛が言う。
「でも、方向は見えた」
朱莉も頷く。
「最初より全然いい」
しおんは少し離れて見てから、小さく言った。
「人が入る速さ、前より少し落ちると思う」
「それはいい意味?」
恒一が聞く。
「いい意味」
しおんは答える。
「入口で一回、空気見る時間ができるから」
「やっぱりそこ見てるんだなあ」
ことねが感心したように言う。
その時だった。
ましろが、小さく恒一を見た。
「先輩」
「ん?」
「文化祭の日も、たぶん先輩忙しいので」
またその切り口か、と思う。
「うん」
「見てます」
一瞬、教室の空気が静かになった。
言葉自体は短い。
でも、“たぶん先輩忙しいので見てます”は、かなり強い。
「……小鳥遊さん」
凛が先に口を開く。
「それ、自然に言うのちょっとすごいよ」
「そうですか?」
「そうだよ!」
ことねがすぐに言う。
「今の、かなり“ましろちゃんらしい本音”だったじゃん!」
ましろはきょとんとする。
「文化祭の日、先輩たぶんずっと動くので。飲み物とか、喉飴とか、余分に持っておいたほうがいいかなと」
「いや、だからその発想がもう……」
ことねは途中で言葉を失った。
朱莉が小さく息を吐く。
「そこまで先に見てるんだ」
「はい」
ましろは頷く。
「当日たぶん、今よりもっと忙しいので」
「……なんかもう、そこまで行くとすごいな」
恒一が正直に言うと、ましろは少しだけ笑った。
「先輩、最近ちゃんと無理するので」
「ちゃんと無理するって何だよ」
「無理はするけど、投げないってことです」
その言い方は、いろはが昨日言っていたこととも少し似ていた。
疲れてるのに投げない顔。
止まりそうなところ。
忙しくなるところ。
見ている角度は違うのに、拾っているものがどこか繋がっているのが不思議だった。
「……文化祭って、準備してると人の見え方変わるよね」
ことねがぽつりと言う。
「今さら?」
朱莉が聞く。
「いや、だって昨日までは“ましろちゃんって先回りすごいな”くらいだったのに、今の“見てます”で急に距離感まで見えた感じするし」
「それは、そうかも」
凛が珍しくすぐに同意した。
しおんは静かに、でもはっきり言った。
「小鳥遊さん、近さが生活に出る」
ましろがしおんを見る。
「生活、ですか」
「うん。困る前に出るから」
その表現が妙にきれいで、少しだけ教室が静かになった。
生活導線ヒロインは、文化祭準備でも先回りをやめない。
そしてその近さは、派手ではないのに、気づくと一番深いところまで入り込んでいる。
黒峰恒一は、軍手をつけたままの手を少しだけ見下ろした。
助かっている。
かなり助かっている。
そして、その助けられ方がもう、ただの“親切な後輩”の範囲だけでは収まりきらなくなっていることも、少しずつ分かってしまっていた。




