第63話 変人美術少女、文化祭準備を“顔が豊作な季節”と呼ぶ
鳴瀬いろはが教室へ現れた瞬間、黒峰恒一は今日の疲れが一段だけ別の種類へ変わるのを感じた。
机をどかし、椅子を積み、掃除をし、入口の空気を確認し、ようやく「今日はここまででいいか」という雰囲気になっていたところだったのだ。体の疲れだけなら、まだ水でも飲めばどうにかなった。
でも、ここでいろはが来ると話は少し違う。
この美術少女は、疲れている人間を見ると元気になる。
それも、助けたいとか心配するとかではない。もっとこう、純粋に「いいものを見つけた」みたいな顔をする。そこが厄介だった。
「顔見に、って何だよ」
恒一が言うと、いろははスケッチブックを抱えたまま、前方へゆっくり歩いてきた。
「そのままの意味」
「いや、意味が怖いんだよ」
「怖くないよ。今、かなり豊作だから」
「豊作って何」
ことねが、机に半分突っ伏した姿勢のまま顔を上げる。
いろはは少しだけ考えるふりをしてから、当然みたいに答えた。
「顔が」
「やっぱり怖いって!」
ことねが言い、朱莉が小さく笑う。
凛はあからさまに嫌そうな顔をした。
「鳴瀬さん、それ本人たちの前で言うのやめたほうがいいよ」
「なんで」
「なんで、じゃない」
凛が腕を組む。
「文化祭準備で疲れてるところに来て、“顔が豊作”はだいぶ変」
「でも本当」
「それが一番困るんだよ」
いろははそこで、教室の前方に積まれた机や布のロールには目もくれず、五人の顔を順番に見た。
ことね。
凛。
朱莉。
しおん。
最後に恒一。
「夢咲先輩は、盛り上げようとしてるのに途中で一回だけ“これ終わるのかな”って思った顔してた」
「えっ、してた!?」
ことねが勢いよく起き上がる。
「してたよ」
「うそ、どこで!?」
「机の三列目動かしたあたり」
「細かっ!」
ことねは本気で驚いていた。
たぶん、自覚もあったのだろう。だからこそ反応が大きい。
「で、朝霧先輩は“疲れてるの悟られたくない”顔」
凛がすぐに眉を寄せる。
「してない」
「してた」
「してない」
「してた」
まったく同じトーンで返されて、凛は一瞬だけ言葉を失う。
朱莉が笑いを噛み殺しながら言う。
「今のは鳴瀬さんのほうが強いね」
「火乃森さんは、“体動かしてるほうが余計なこと考えなくて済む”顔」
朱莉の口元の笑みが少しだけ止まった。
「……それは、ちょっと分かるかも」
「認めるんだ」
ことねが言うと、朱莉は肩をすくめる。
「鳴瀬さん、変なとこ見てるけど、たまに外してないから」
「外してないよ」
「自分で言うのか」
恒一が思わず言うと、いろはは平然とした顔で返した。
「だって今のは、かなり見やすかったし」
「見やすいとかあるのか」
「あるよ」
いろはは、今度はしおんを見る。
「雪代先輩は、静かなのに満足してる顔」
しおんが少しだけ目を瞬かせる。
「満足?」
「うん。入口の流れ、途中でちょっと見えたでしょ」
しおんは数秒だけ黙ったあと、小さく頷いた。
「……うん」
「ほら」
「いや、雪代さんまで認めるんだ」
ことねが言うと、しおんは少しだけ困ったように笑った。
「今のは、たぶん本当だから」
そして最後に、いろはの視線が恒一へ来る。
「で、黒峰くんは」
「言うなよ」
「疲れてるのに投げない顔」
やっぱり来た。
教室の前方に、小さな沈黙が落ちる。
ことねは「出た」という顔をし、凛は露骨にため息をつき、朱莉は少しだけ目を細め、しおんは静かにこちらを見たままだ。
「……その言い方、ほんとやめろ」
恒一が言うと、いろはは不思議そうに首を傾げる。
「なんで」
「なんで、じゃないだろ。疲れてるのにちゃんとやってる顔とか、そんなの本人の前で言われたら普通に困る」
「でも本当だし」
「だからそれが一番困るんだよ!」
今度はことねが机を叩きそうな勢いで言った。
「鳴瀬さんって、なんで毎回そこまで核心だけまっすぐ来るの!?」
「きれいだから」
「答えになってない!」
いろはは少しだけ目を細めた。
「だってさ」
彼女はスケッチブックを胸の前で持ち直す。
「楽しい顔って、もちろんいいの。でも、文化祭準備って、楽しいだけじゃないでしょ」
「それはそうだね……」
朱莉が言う。
「机重いし、床汚いし、地味だし」
「うん。だからいい」
いろははあっさり言った。
「疲れてる。面倒。帰りたい。なのに、ちゃんと投げない。その顔が一番、その人の中身出るから」
その言い方は、やっぱり変だ。
でも、少しだけ分かるのも嫌だった。
「黒峰くん、今日途中で三回くらい“だるいな”って顔した」
「そんなにしたか?」
「した」
「してたね」
朱莉が平然と同意する。
「うわ、火乃森まで」
「でも、投げなかったのも本当だよ」
その言葉は、さっきのいろはの見方を少しだけ補強する。
ことねも、机に肘をついたまま言った。
「黒峰くんって、しんどそうな顔はするけど、やること自体は投げないよね」
「そう?」
「そうだよ」
ことねは即答した。
「なんなら、“だるい”って言いながら机持つし、“めんどい”って言いながら入口の見え方考えるし」
「言い方がひどいな」
「でも事実じゃん」
凛も小さく頷く。
「うん。そこはまあ、そう」
「朝霧さん、その“そこはまあ、そう”って褒め方独特だよね」
「褒めるの慣れてないから」
「最近ちょくちょく本音漏れるね?」
「夢咲さんは拾いすぎ」
少しだけ笑いが起きる。
◇
「じゃあ描くね」
いろはが当然みたいに言った。
「いや、待て」
恒一が即座に止める。
「何を当然みたいに始めようとしてるんだ」
「今日の黒峰くん」
「なんでだよ」
「今しかないから」
「何が」
「疲れてるのに、ちゃんと立ってる感じ」
「そんな限定された需要ある?」
「ある」
即答だった。
「かなりある」
「鳴瀬さん、それ普通に怖い」
ことねが言うと、いろははそちらを見た。
「夢咲先輩も今いいよ」
「え、私も!?」
「うん。疲れてるのに空気下げたくなくて、ちょっと無理して明るくしてる顔」
ことねが一気に黙る。
「……それ、やめて」
「なんで」
「今のはちょっと刺さるから」
その声はさっきまでより少しだけ静かだった。
いろははそこで初めて、少しだけ声をやわらげた。
「でも、悪い意味じゃないよ」
「分かってるけどさ」
ことねは小さく息を吐く。
「分かってるけど、見えてるって言われると、やっぱちょっと効くんだって」
そのやり取りを聞いて、恒一は少しだけ思う。
いろはは無神経ではない。
ただ、見えたものをそのまま言いすぎるのだ。
「じゃあ、勝手に描くのやめろ」
恒一が言うと、いろははスケッチブックを抱えたまま少しだけ考えた。
「勝手にじゃなければいい?」
「条件付き」
「なに」
「変に盛るな」
「盛らない」
「格好よく描くな」
「それは保証できない」
「なんでだよ」
「今の顔、普通にちょっと格好いいから」
またそれだ。
凛が横から言う。
「鳴瀬さん、それ本人の前で言うの、ほんとにだめだと思う」
「でも本当」
「だから困るってみんな言ってるでしょ」
「朝霧先輩も今いいよ」
「話そらさないで」
「疲れてるのにちゃんと目が起きてる顔」
凛が一瞬だけ言葉に詰まる。
ことねがすぐに吹き出す。
「うわ、朝霧さん、今の顔かなり図星っぽい」
「夢咲さん、うるさい」
「だって今の反応めっちゃ分かりやすかったし!」
「分かりやすいの、そっちでしょ」
朱莉が少しだけ笑いながら言う。
「でも、今の鳴瀬さんの“疲れてるのにちゃんと目が起きてる”って表現、わりと好きかも」
「火乃森さんまでそっち乗るの?」
「いや、なんか……うまいなって」
しおんが静かに口を開いた。
「鳴瀬さん、人の顔を言葉にするの上手」
いろはは少しだけしおんを見た。
「雪代先輩に言われると、ちょっとうれしい」
「本当のことだから」
しおんの返しは静かだった。
でも、その静けさの中にちゃんと肯定がある。
◇
「じゃあ、少しだけ」
いろはは教卓の横へ椅子を引いて座り、スケッチブックを開いた。
「十分だけ」
「ほんとか?」
「たぶん」
「その“たぶん”一番信用ならない」
恒一が言うと、ことねが笑った。
「でも、ちょっと見たいかも」
「夢咲さんまで言うなよ」
「だって、鳴瀬さんの絵って普通に上手いし」
「そこは否定しない」
朱莉も頷く。
「変だけど」
「最後の一言いらない」
いろはは笑いながら、シャープペンを走らせ始めた。
教室には、少しだけ静かな時間が流れる。
紙を走る音。
窓の外の部活の声。
ときどき誰かが小さく息をつく音。
ことねは机へ頬杖をつき、凛は腕を組んで、朱莉は少し離れた席に座り直し、しおんは窓際に立ったままこちらを見ている。
その中で、恒一はなんだか妙に落ち着かない。
「……なあ」
数分後、耐えきれずに言う。
「何」
いろはは顔を上げない。
「今、どう見えてるんだよ」
「机に手ついてるのがいい」
「そこ?」
「うん。疲れてるのに、完全には抜いてないから」
「またそれか」
「今日はそこが一番いい」
いろははさらさらと描きながら続けた。
「黒峰くんって、文化祭準備みたいな“地味に大変なやつ”の時に、一番その人っぽい顔する」
その言葉には、少しだけ言い返しづらさがあった。
たしかに、文化祭準備は派手じゃない。
机を運び、掃除し、配置を考え、予算を見る。
そういう面倒を“面倒だな”と思いながらも投げずにやる時間だ。
そこに、その人の性格が出るというのは、少しだけ分かる。
「……鳴瀬さんってさ」
ことねがぽつりと言う。
「うん?」
「恋愛っぽいこと見るより、人間そのもの見てる感じあるよね」
いろはの手が、一瞬だけ止まった。
それから、少しだけ考えてから答える。
「両方見てるよ」
「うわ、そう返すんだ」
「だって本当だし」
ことねが苦笑する。
「やっぱり強いなあ……」
凛がそこで、小さく息を吐いた。
「でも、鳴瀬さんの言ってること、たまに嫌なくらい当たる」
「朝霧先輩、今それ認めるんだ」
「今日はなんか、そういう日だから」
「それ、昨日も言ってた」
「最近多いんだよ」
その言い方に、少しだけ笑いが起きる。
◇
十分後。
「はい」
いろはがスケッチブックを少しだけ傾けた。
「見せるのかよ」
「条件付きでしょ」
恒一は渋い顔のまま、それを覗き込む。
そこにいたのは、教室の前方に立って、少しだけ机へ手をつき、半分疲れたような、でもまだどこかで前を見ている自分だった。
格好つけてはいない。
でも、だるそうなだけでもない。
「……なんか、ずるいな」
思わずそう言う。
「何が」
「こういうの、自分で見ると、思ってたよりちゃんとして見える」
「してるから」
いろはは平然としていた。
ことねも覗き込む。
「うわ、すご。黒峰くん、なんか“文化祭の中心で疲れてる人”って感じする」
「言い方が雑なんだよ」
「でも合ってる」
朱莉も見て、小さく笑った。
「うん。ちょっと悔しいけど、ちゃんとして見える」
「悔しいのかよ」
「たまにだらしないの知ってるから」
「幼馴染の視点が厳しいな」
しおんは最後に静かに見て、少しだけ目を細めた。
「今日の顔、そのまま」
それが、たぶんいちばんまっすぐな感想だった。
変人美術少女は、文化祭準備を“顔が豊作な季節”と呼ぶ。
意味はやっぱり少し分からない。
でも、疲れているのに投げていない顔を、ちゃんと見ている人がいることだけは、もう誤魔化しようがなかった。




