第60話 明るい子は、空気を回しながらちゃんと傷つく
翌日の放課後、黒峰恒一が教室へ戻ると、夢咲ことねは前の席で一人、文化祭用のメモとにらめっこしていた。
窓の外は、昨日より少しだけ雲が多い。夕方の光も白っぽくて、教室の中へ入る色がやわらかい。そのぶん、放課後のざわつきだけが妙に耳へ残った。
部活へ向かう声。
廊下を走る足音。
机を引く音。
笑いながら帰っていく女子たち。
その中で、ことねだけが前の席へ残っている。
「……珍しいな」
思わず口にすると、ことねが顔を上げた。
「あ、おかえり」
「ただいまって言う場面か?」
「まあ、放課後の教室に戻ってきたら半分そうじゃない?」
ことねはいつも通り笑った。
笑ったけれど、その笑い方がほんの少しだけ浅い。
恒一は前の席へ近づく。
机の上には、広報用のラフ案らしい紙が何枚か散っていた。タイトル文字の位置、案内文のレイアウト、入口の写真を入れるかどうか、そんな走り書きが見える。
「まだやってたのか」
「うん。広報の叩き台、今日ちょっとだけまとめたくて」
「朝霧は?」
「さっきまでいたよ。必要な情報だけ先に箇条書きして、職員室寄るって」
「ああ、あいつらしいな」
「ね」
ことねはそう言って、ペンを指のあいだでくるっと回した。
その仕草はいつも通りだ。
でも、やっぱり何かが少しだけ違う。
「……なんかあったか」
聞くと、ことねは一瞬だけ目を丸くした。
「え」
「いや、何となく」
「何となく、って便利だね」
「お前にだけは言われたくない」
そう返すと、ことねは少しだけ笑った。
今度の笑いは、さっきより少し自然だった。
「なんで分かったの?」
「分かったってほどじゃないけど」
恒一は近くの席を引いた。
「ちょっと静かだなって」
「私が?」
「お前が」
「ひどい、それじゃ普段うるさいみたいじゃん」
「みたい、じゃなくて、普段はもっと前に出るだろ」
「うーん……」
ことねは否定しなかった。
ペンを置いて、紙の端を指で軽く揃える。
「まあ、ちょっとだけね」
「やっぱ何かあったんじゃねえか」
「うん。あったっていうか、今日ちょっと思っただけ」
「何を」
ことねはすぐには答えなかった。
前髪を耳へかけて、それから教室の後ろのほうを見る。もう残っている生徒は少ない。会話の熱もだいぶ引いていた。
「今日さ」
「うん」
「私、ポスターのこととか、入口の見え方のこととか、わりといっぱい喋ったじゃん」
「喋ってたな」
「で、クラスの子たちも普通に聞いてくれてたんだけど」
「うん」
「そのあと、後ろのほうでちょっと聞こえたの」
声が少しだけ落ちた。
「“夢咲さんって、やっぱこういう時盛り上げ役だよね”って」
恒一は黙った。
それ自体は、悪い意味だけの言葉じゃない。
ことねは実際、空気を前に進めるのが上手い。誰かが最初の一声を出さなければ止まりそうな時、明るく場を回して、話を動かすことができる。
でも。
「……それ、嫌だったか」
恒一が聞くと、ことねは少し困ったように笑った。
「嫌、っていうか」
「うん」
「半分はうれしいんだよ。私、そういう役回りわりと好きだし。実際、黙ってるより喋ってたほうが楽だし」
「うん」
「でも、たまにね」
ことねは視線を落とした。
「それだけで処理されるの、ちょっとしんどい」
その言い方は軽くなかった。
教室の空気を回す子。
盛り上げ役。
明るい子。
分かりやすい子。
どれもことねの一部だ。
でも、その一部だけで見られ続けると、近いところまで来ているつもりの気持ちまで、薄く見られてしまう。
「……なるほどな」
恒一がぽつりと言うと、ことねが顔を上げた。
「何その反応」
「いや、ちゃんと納得した」
「納得された」
「だって、お前、賑やかしだけじゃないだろ」
ことねは一瞬だけ言葉を失ったみたいに黙った。
それから、少しだけ目を細めた。
「今のさ」
「うん」
「普通に言うのずるいよね」
「なんでだよ」
「いや、なんか……」
ことねは小さく息をつく。
「私が気にしてるとこ、ちょうどそのまま言うから」
教室には、もう笑い声は少ない。
遠くの廊下の足音だけが、ときどき聞こえる。
「私、分かりやすいのはいいの」
ことねが静かに続けた。
「そこはもう半分、自分でもそうだって思ってるし。顔にも出るし、声にも出るし、楽しい時は楽しいってなるし、やなのもたぶん分かるし」
「うん」
「でも、“分かりやすい=軽い”って見られるのはやなんだよね」
その言葉は、思っていた以上に真っ直ぐだった。
恒一は少し考えてから答える。
「それは分かる」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「適当に合わせてない?」
「合わせる意味ないだろ」
ことねはじっとこちらを見た。
何かを確かめるみたいに。
「だってさ」
ことねは少しだけ早口になった。
「私、たしかに話すし、明るいし、わーって言うし、たぶん見てて分かりやすいと思う。でも、それって別に浅いってことじゃないじゃん」
「そうだな」
「ちゃんと考えてるし、ちゃんと気にするし、ちゃんと傷つくし、ちゃんと……」
そこで少し止まる。
言葉を選び直して、少し小さく言った。
「ちゃんと、近くなりたいとも思ってるし」
最後のほうの声は、だいぶ静かだった。
普段のことねなら、ここまで低い声で言わない。
だからこそ、その静けさが本音っぽく聞こえる。
「なのに、“夢咲さんって空気回すの上手いよね”だけでまとめられると」
「うん」
「なんか、“そこまでしか見えてないんだな”って思う時ある」
恒一は、すぐには返せなかった。
ことねはたぶん、いつもより少しだけ勇気を使っている。
普段なら笑いに変えるところを、今日は変えずにそのまま出している。
「……黒峰くん?」
「考えてた」
「何を」
「お前が今言ったこと」
ことねは少しだけ苦笑した。
「真面目だね」
「お前が真面目な話してるからだろ」
「それもそうか」
ことねは椅子に浅く座り直す。
「ねえ、私さ」
「うん」
「たぶん、黒峰くんに対しても、わりと“分かりやすい子”で見られてると思うんだよね」
「それはまあ……」
「否定しないんだ」
「いや、だって」
恒一は少し困った。
「実際、分かりやすいだろ」
「そうなんだけど!」
ことねはすぐに言い返して、それから少し笑った。
「でもね、その“分かりやすい”の中にあるものまで、軽く見られたくないの」
その言い方が、さっきより少しだけ柔らかくなった。
「私、話しかけるじゃん」
「うん」
「一緒に文化祭のことも考えるし、広報もやるし、明るくしようともするし」
「うん」
「それって、別に“賑やかし担当なので!”ってだけじゃないんだよ」
ことねは机の上のメモ用紙を指先で軽くなぞる。
「ちゃんと近くいたいからだし、ちゃんと一緒にやりたいからだし、ちゃんと同じもの見たいからでもある」
その言葉は、派手じゃなかった。
でも、ことねの中ではかなり深いところの本音なんだろうと思う。
文化祭が楽しいから。
盛り上がるのが好きだから。
もちろんそれもある。
でもそれだけなら、ここまで気にしない。
ここまで“軽く見られたくない”とは言わない。
「……ことね」
名前を呼ぶと、彼女は少しだけ目を丸くした。
「なに」
「お前、ちゃんと近いよ」
言葉にした瞬間、自分でも少し驚いた。
でも、出たものは本音だった。
「賑やかしだから近いとかじゃなくて」
ことねの視線が揺れる。
「ちゃんと中に入ってきてるし、文化祭のことだって、お前が前で喋るから回る部分かなりあるし」
「……うん」
「だから、そのへんを軽く見てるやつがいたとしても、俺はそうは見てない」
ことねは何も言わなかった。
ただ、少しだけ唇を噛むみたいにして、視線を落とした。
沈黙が落ちる。
でも、気まずい沈黙じゃない。
「……それ」
しばらくして、ことねが言った。
「だいぶ効くんだけど」
「何が」
「今の一連」
「効くって何だよ」
「こう、ちゃんと見てる感じがするやつ」
ことねは少しだけ笑った。
けれど、その目の端はさっきよりもやわらかかった。
「私、分かりやすいのはいいんだけど、軽く見られるのはやなんだよね」
もう一度、今度は少し落ち着いた声でそう言う。
「うん」
「ちゃんと近いのに、“賑やかし”では終わりたくない」
その一言が、この回のいちばん深いところだった。
恒一は、ゆっくり息を吐く。
「……分かった」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「じゃあ、ちょっと安心した」
ことねはそう言って、ようやくいつもの笑顔に近いものを見せた。
ただ、その笑顔は、さっきまでの明るさだけのものじゃない。ちゃんと本音を出したあとに戻ってきた笑顔だった。
◇
「ねえ」
ことねが少しだけ身を乗り出す。
「じゃあ、お礼に一個だけ聞いていい?」
「何だよ」
「私、そんなに分かりやすい?」
「分かりやすい」
「即答じゃん!」
「だって本当だろ」
「でも、どこが?」
「どこがって……」
恒一は少し考える。
「文化祭の話してる時、楽しいと前に出るし、ちょっと引っかかると顔に出るし、嬉しいとすぐ声のトーン変わるし」
「うわ、見られてる」
「見えるんだよ」
「で、軽いわけじゃない?」
「軽くない」
その返しに、ことねは一瞬だけ黙った。
それから、すごく小さく「そっか」と言った。
その“そっか”が、妙に大事に聞こえた。
少しして、廊下から賑やかな声が近づいてくる。
別のクラスの生徒たちが帰るらしい。
静かな時間は終わりに近い。
「じゃ、そろそろ帰る?」
ことねが言う。
「そうだな」
二人で教室を出る。
廊下を並んで歩く。
さっきまでの話のせいで、少しだけ足音の間合いまで意識しそうになるのが嫌だった。
「でもさ」
ことねが前を向いたまま言う。
「今日言ってよかった」
「何が」
「さっきのやつ。軽く見られたくないって話」
「うん」
「黒峰くん相手に言うの、ちょっと勇気いったけど」
「そうなのか」
「そうだよ。だって、私の“分かりやすいとこ”って、たぶん一番見られてる部分だから」
それはたしかにそうかもしれない。
「でも、そこだけじゃないって言ってもらえたから」
ことねは少しだけ笑った。
「今日はそれで十分」
校門まで来ると、夕方の空気は少しひんやりしていた。
文化祭準備の熱も、匿名メモの余韻も、何もかもがまだ終わっていない。
それでも今日のことねは、来た時より少しだけまっすぐに見えた。
明るい子は、空気を回しながらちゃんと傷つく。
そして、その傷つき方まで軽く見てはいけないのだと、黒峰恒一はようやくちゃんと理解していた。




