第59話 値段を見る横顔は、恋愛イベントより現実を連れてくる
買い出しを終えて学校へ戻るころには、空はもうかなり夕方の色になっていた。
校門をくぐる時、ことねが紙袋を持ち上げて言った。
「なんかさ、文化祭の準備してるって感じしてきたよね」
「さっきも言ってた」
朱莉が言う。
「でも今のは、もっとちゃんとそう思ってるやつ!」
「その違いまだあんまり分かんないんだけど」
恒一が言うと、ことねは少しだけ笑った。
「分かるようになるよ。たぶん」
「その“たぶん”便利だな」
「便利だよ。だって文化祭って、最後まで“たぶん大丈夫”で進むイベントだし」
「それ全然安心できないんだけど」
凛がすぐに言った。
「“たぶん大丈夫”で進めるから、最後に予算も時間も崩れるんでしょ」
「うわー、朝霧さん、せっかく今ちょっといい感じだったのに」
「でも本当」
「本当でも!」
ことねがむっとして、それから朱莉としおんを見た。
「ねえ、今の流れなら一回くらい“うん、いい感じだね”って乗ってくれてもよくない?」
朱莉が小さく笑う。
「私はちょっと思ってたよ」
「ほんと?」
「うん。思ってたけど、凛が絶対そこ切るなって思って見てた」
「火乃森さん、それもう見物してる側じゃん」
ことねが言うと、しおんが静かに口を開いた。
「でも、いい感じなのは本当」
「雪代さん!」
ことねの顔がぱっと明るくなる。
「そのフォロー好き!」
「フォローじゃないよ」
しおんは少しだけ首を傾げる。
「ただ、今の灯りと布で、入口の空気は少し見えたから」
「うんうん、そういうの!」
ことねが嬉しそうに何度も頷く。
「ねえ、やっぱり雪代さんって、静かなのにテンション上がる時あるよね」
「ある?」
「ある。声は静かなのに、ちょっとだけ熱ある」
その会話を聞きながら、恒一は少しだけ肩の力を抜いていた。
買い出しは無事に終わった。
変な空気が一瞬もなかったとは言わない。
でも、ちゃんと文化祭の準備として進んだ。
そこに少しだけ安堵していた時だった。
「じゃあ、私これ職員室に持ってくるね」
ことねが軽い袋を持ち上げる。
「広報の仮メモもまとめたいし、一回教室寄ってから帰る」
「私は装飾班のメモ、しおんと合わせたいから少し残る」
朱莉が言うと、しおんも頷いた。
「灯りの位置、今のうちに書いておきたい」
「はいはい、真面目組」
ことねが笑う。
「で、朝霧さんと黒峰くんは?」
凛が持っていたレシートの束を軽く振った。
「会計処理」
それだけだった。
でも、その一言で、ことねの顔がほんの少しだけ止まった。
止まったのは本当に一瞬だけだ。
けれど、最近はその一瞬に気づいてしまう。
「……そっか」
ことねはすぐに笑った。
「まあ、そこは朝霧さんだよね」
「だよね、って何」
「いや、もう完全にそういう役割じゃん。値段見て、レシート見て、足りないの拾ってくれる人」
「褒めてる?」
「褒めてる」
「ならいい」
凛の返事は短かったが、少しだけやわらいでいた。
結局、職員室へ向かうことね、装飾メモを詰める朱莉としおんと別れ、恒一と凛だけが教室へ戻る流れになった。
◇
夕方の教室は、昼間よりずっと静かだった。
窓の外から差し込む光はオレンジに近く、机の影が長く伸びている。誰もいない教室というわけではない。隣のクラスからは笑い声も聞こえるし、廊下を走る足音も時々響く。けれど、この教室だけは、少しだけ世界から切り離されたみたいに静かだった。
凛は教卓のそばにレシートを広げた。
「黒峰、そっち座って」
「なんで命令形なんだよ」
「立ったままやるの面倒だから」
「はいはい」
恒一は前の席の椅子を引いて座る。
凛はその向かい、少し斜めの位置に腰を下ろした。
レシートの束。
買った物のメモ。
今の残予算。
文化祭の相談というより、完全に会計作業だった。
「で、何やればいい」
「このメモとレシートの項目合わせて。店ごとに分けるから」
「了解」
紙を受け取る。
ホームセンター。
百円ショップ。
雑貨屋。
それぞれの品目が思ったより多い。
布、麻紐、木板、和紙、フック、景品候補の小物、灯り。
「……結構使ったな」
恒一が言うと、凛はすぐ答えた。
「でも想定内」
「本当か?」
「本当。今日の買い出し前にだいたい上限見てたから」
「そこまでやってたのかよ」
「やるでしょ。そうしないと、夢咲さんが“これもよくない?”ってやった時に止められないし」
思わず笑ってしまう。
「それはちょっと分かる」
「でしょ」
凛はレシートを指先で整えながら続けた。
「ことねって、悪気なく可愛いもの追加しそうなんだよね。しかも大抵、完全に無駄ではないから困る」
「それも分かる」
「“なくても成立するけど、あったら絶対よくなるやつ”を見つけるの上手い」
「めちゃくちゃ分かる」
二人で同時に少し笑う。
それから、少しだけ間ができた。
会計の数字を書くペン先の音。
紙をめくる音。
窓の外の風の音。
こうして二人だけになると、さっきまで五人で歩いていた時間が逆に遠く感じる。
「……ねえ」
凛が不意に言った。
「ん?」
「さっきの買い出し、思ったより普通だったね」
「ことねも似たようなこと言ってた」
「うん。聞いてた」
凛は視線を紙へ落としたまま言う。
「もっと変に空回るかと思ってた」
「俺も」
「でも、ちゃんと文化祭の買い物になった」
「それはそうだな」
恒一はレシートの合計を横へ書きながら答える。
「五人いたからかもな」
「それもある」
凛は頷く。
「あと、役割が見えてたのも大きい」
「役割?」
「うん。夢咲さんは見た目と入口。火乃森さんは完成形。雪代さんは光と空気。黒峰は動線と実際に使えるか」
「で、朝霧は金」
「言い方」
「でも合ってるだろ」
「合ってるけど」
凛は少しだけ唇を引いた。
「もうちょっとこう、“支える側”とかあるでしょ」
「自分で言うのか?」
「言ってない。ただの希望」
「希望なんだ」
「今のは忘れて」
そう言いながらも、凛の声は少しやわらかかった。
恒一は少しだけ考えてから言う。
「でも、実際そうなんじゃないか」
「何が」
「支えてる側」
凛のペンが止まった。
「いや、だって」
恒一は言葉を探す。
「夢咲が“いい感じ”を言って、朱莉としおんが完成の空気を見て、俺が実際の置き方とか運びやすさ見てるとしても、それを形にするために削ってるのは朝霧だろ」
凛は数秒黙った。
「……それ、褒めてる?」
「褒めてる」
「なんか今日、みんな急にそういうこと言う」
「嫌か?」
「嫌じゃない」
凛はすぐにそう言って、でも少しだけ視線を逸らした。
「ただ、困る」
「なんで」
「そういうの急に言われると、準備してないから」
「今の会計の話だぞ」
「会計の話でも、困る時は困るの」
その返しに、恒一はまた笑ってしまう。
「お前、たまにそっちのほうが分かりやすいな」
「何それ」
「夢咲のこと、分かりやすいってよく言ってるけど、朝霧も別方向に分かりやすい」
「どこが」
「照れると、ちょっとだけ言葉が雑になる」
「……黒峰」
「なに」
「今の、絶対あとで後悔するからやめたほうがいい」
「なんでだよ」
「私が」
「そっちか」
凛は小さく息を吐いて、ペンを持ち直した。
でも、耳が少し赤い。
たぶん本人も分かっている。
分かっているから余計に面倒なのだろう。
◇
しばらく、ちゃんと会計の話をした。
残予算。
次回必要な買い足し。
景品候補の優先順位。
広報用の紙代。
教室装飾に使える上限。
数字を整理しているうちに、自然と空気は仕事寄りへ戻る。
「これ、思ったよりまだ余裕あるな」
恒一が言う。
「うん。今日、必要最低限で止めたから」
「夢咲がもう少し暴れてたら危なかった?」
「危なかった」
「そこ断言するんだ」
「だって本当だし」
凛はメモの端へ合計を書き込んでから、少しだけ考えるように言った。
「でも、夢咲さんがああやって“かわいい”とか“入口の印象”を先に言ってくれるから、削る基準も作れるんだよね」
「珍しく素直だな」
「今日はそういう日なの」
「そういう日って何だよ」
「知らない。でも今はそう」
その言い方が少しだけ曖昧で、逆に本音っぽかった。
「火乃森さんもさ」
凛が続ける。
「最後の形ちゃんと見てるし、雪代さんは空気の温度みたいなの拾うし、黒峰は“それ実際面倒じゃない?”ってとこ見てるし」
「うん」
「だから、私が数字見てるだけで済むなら、そのほうが楽」
「“済むなら”ってことは、済まない時もあるのか」
凛は少しだけ笑った。
「あるよ。現実だけ見てたら、文化祭ってたぶんつまらないし」
「そこまで分かってるなら、もう少し柔らかく言えないのか」
「言ったら多分、誰も私の言うこと聞かない」
「そんなことないだろ」
「あるって。夢咲さんとか絶対、“朝霧さん今日やさしいから、これもいけるかも!”って乗ってくる」
「それは……ちょっとあるかもな」
「でしょ」
凛は肩をすくめる。
「だから私は、夢ばっかり見てる側じゃなくていいの」
その言葉は、さっきまでの流れをきれいにまとめていた。
文化祭は夢だ。
楽しい。
華やか。
思い出になる。
でも、それだけでは完成しない。
予算。
時間。
置き方。
安全。
片付けやすさ。
誰かがそこを見ていないと崩れる。
「……朝霧ってさ」
恒一が言う。
「ん?」
「わりとちゃんと、全部見てるんだな」
「全部は見てない」
「でもかなり見てるだろ」
「それは、まあ……」
凛は少しだけ考えたあと、真面目な顔で答えた。
「誰かが見てないと、崩れるから」
その返しは、飾らない。
でも、それだけに強い。
「夢ばっかり見てると崩れるから、私が見てるだけ」
静かな教室に、その言葉がそのまま落ちた。
外では誰かが笑っている。
廊下の向こうで部活帰りらしい声もする。
でも、この教室の中だけは一瞬、時間が止まったみたいに静かだった。
恒一は、すぐには何も返せなかった。
その言葉はたぶん、文化祭の話だけじゃない。
いや、今は文化祭の話として言ったのだろう。
でもそれだけでは済まない響きがあった。
「……それ、ずるいな」
やっと出た言葉がそれだった。
「何が」
「そういうの、普通に言うの」
「普通じゃないよ。だいぶ考えて言った」
「なおさらずるい」
凛は少しだけ目を丸くして、それから小さく笑った。
「黒峰って、たまに変なところで正直だよね」
「お前に言われたくない」
「なんで」
「今の台詞のあとで、そんな顔してるからだよ」
「どんな顔」
「ちょっとだけ、言ってしまったなって顔」
「……してる?」
「してる」
「最悪」
凛は片手で額を押さえた。
でも、その仕草は本気で嫌がっているというより、照れ隠しに近かった。
「まあでも」
恒一は、メモとレシートを見ながら言う。
「その役、助かる」
凛は額に手を当てたまま、少しだけ動きを止めた。
「……どっちの意味?」
「文化祭の会計と、全体が崩れないように見てる役」
凛は手を下ろして、今度は真っ直ぐこちらを見た。
「そういうの、さらっと言うのやめたほうがいいよ」
「なんで」
「さっき自分で言ったでしょ」
「なにを」
「準備してないから困るって」
その返しが、妙に静かで、でも少しだけやわらかかった。
気づけば、レシートの整理はきれいに終わっていた。
残予算もまとまった。
次回買い足すものも決まった。
文化祭の会計作業としては、かなりちゃんと進んだ。
それなのに、その途中の会話だけが、妙に頭に残る。
◇
教室を出る前、凛はまとめたメモをファイルへ挟みながら言った。
「じゃあ、これは先生に出しとく」
「了解」
「黒峰はもう帰る?」
「たぶん」
「たぶん?」
「今日はもう、これ以上何かあると頭追いつかない」
そう言うと、凛は少しだけ笑った。
「それはそうかも」
「否定しないんだな」
「だって、最近の流れ見てたら分かるし」
そこで少しだけ間が空く。
「……でも、今日はそこまで悪くなかったでしょ」
凛が静かに言った。
「何が」
「二人で残ったこと」
その聞き方が、少しだけ慎重だった。
恒一は、少しだけ考える。
たしかに、最初は少し意識した。
でも、ちゃんと文化祭の話をして、ちゃんと必要なことを整理して、ちゃんと終わった。
変なイベントではなかった。
でも、何も残らなかったとも言えない。
「悪くはなかった」
そう答えると、凛はほんの少しだけ目をやわらげた。
「そっか」
それだけ言って、彼女はファイルを抱え直す。
その横顔は、やっぱり綺麗だった。
でも今は、それよりも“値段を見て、崩れないように切って、でも全部をつまらなくはしないようにしている人”の顔として強く残る。
値段を見る横顔は、恋愛イベントより現実を連れてくる。
なのに、その現実の中にある不器用さのほうが、たぶん今の自分にはずっと効いていた。




