第56話 最初の買い出し前、必要なものより空気の整理が先だった
放課後の教室は、昼間より少しだけ本音が出やすい。
授業が終わったあと独特の、ほっとしたような、でもまだ帰りきれない空気。窓の外では春の夕方が校舎の白い壁をやわらかく染めていて、廊下の向こうからは部活へ向かう足音が断続的に聞こえてくる。残っている生徒は半分もいないのに、教室の前方だけはなぜか熱を持っていた。
黒峰恒一は、その熱の中心にいた。
前の席を少し寄せて、簡単な打ち合わせ用の輪を作る。
机の上にはルーズリーフが数枚、黒いボールペン、スマホで開いたメモアプリ。
文化祭準備の初回買い出し前。今日は何をどれだけ買うのか、その“前提”を決めるために残っている。
メンバーは五人。
夢咲ことね。
朝霧凛。
火乃森朱莉。
雪代しおん。
そして、自分。
昨日のうちに「第一回の買い出し候補はこの五人」と決めた。決めたのだが、あらためて放課後の教室に五人そろうと、それだけで少しだけ空気に意味が乗る。
文化祭準備だから。
役割があるから。
複数人だから。
そういう理屈は全部ある。
でも、理屈があることと、意識しなくて済むことは別だった。
「……よし」
最初に口を開いたのは、ことねだった。
彼女は髪を耳にかけながら、机の中央へルーズリーフを置く。いつも通り明るい。明るいのに、今日は少しだけその明るさに“ちゃんと進めたい”が混ざっている。
「じゃあ、最初だから整理からいこ。買い出しって言っても、何となく行って何となく買うのは一番だめだし」
「急に委員っぽいな」
恒一が言うと、ことねはすぐにこちらを見た。
「急にじゃないよ。昨日からわりと頑張ってるよ、私」
「それはそう」
通路側の席に斜めに腰かけていた凛が、あっさり頷く。
「夢咲さん、テンションで走るタイプではあるけど、準備を雑にしたいわけじゃないし」
「“テンションで走るタイプ”の前半いらなくない?」
「でも正確」
「朝霧さんのそういうとこだよ!」
ことねが抗議して、凛は軽く肩をすくめる。
この二人は最近、会話のテンポがやたらいい。噛み合っているのか噛み合っていないのか分からないまま、それでもちゃんと話が前へ進む。
朱莉はそれを見ながら、小さく笑った。
「でも、ことね先輩が最初に声出してくれるのは助かるよ」
「えっ、ほんと?」
「うん。誰かが“じゃあ始めるよ”って言わないと、こういうのずっと雑談で終わるし」
「火乃森さん、それ今ちょっと嬉しい」
「そこまで喜ぶこと?」
「喜ぶよ! だって朱莉ちゃん、こういうのあんまり軽く褒めてくれないじゃん」
「軽くっていうか、必要なら言うだけ」
朱莉はそう言って、机の上のメモへ視線を落とした。
相変わらず、必要なことを必要な温度で言う。だが今日は、その必要の中に少しだけ柔らかさがある気がする。
「で」
凛がペンを持ち直した。
「必要なものの前に、誰が何を見るかを一回決めたい」
「それ、わりと大事だと思う」
しおんが静かに言った。
いつの間にか彼女は五人の輪の少し外側ではなく、ちゃんと机へ近い位置に立っていた。声は小さい。けれど、その小ささのせいで逆に聞き漏らせない。
「同じ物見てても、たぶん見てるところ違うから」
「だよね」
ことねがすぐに頷く。
「私、可愛いとか入口の印象とかそっちから見ちゃうし」
「私は値段とサイズと、持ち帰りやすさ」
凛が言う。
「あと、教室でちゃんと固定できるかどうか」
「私は……」
朱莉が少し考える。
「完成した時にちゃんと“作った感じ”が出るか、かな。安っぽいのは嫌だし」
「作った感じ」
恒一が繰り返すと、朱莉はこくりと頷いた。
「文化祭って、見に来た人が“頑張ってるな”って分かると、ちょっと得するじゃん」
「その発想は分かる」
ことねが言う。
「なんか、完成度高すぎて業者っぽいより、“このクラスで作ったんだな”感は欲しい」
「ただし雑でいいわけじゃない」
凛がすぐ入れる。
「そこ、夢咲さんはたまに勘違いしそうだから」
「しないよ! いや、たまにするかもだけど!」
「するんだ」
「今のは正直に言ったの!」
少し笑いが起きる。
しおんは、その笑いが引くのを待ってから言った。
「私は、色と光」
四人の視線がそちらへ向く。
「布の色と、照明の色と、そこに人が入った時の空気」
「やっぱり雪代さん、そこなんだ」
ことねが感心したように言う。
「私、その“人が入った時の空気”って感覚、まだちょっとわかりきらないんだけど、でも大事そうなのは分かる」
しおんは少しだけ目を細めた。
「入口でうるさすぎないほうが、奥まで人が入りやすいと思う」
「……それ、かなり大事だな」
恒一が言う。
しおんは静かにこちらを見る。
「黒峰くんは?」
「俺?」
「うん」
「俺は……」
恒一は少し迷った。
こういう時、自分が何を見る側なのか、あまり言葉にしたことがない。
だが、みんながちゃんと自分の役割を言っているのに、一人だけ曖昧なのも違う気がした。
「実際に動けるか、かな」
「動ける?」
ことねが聞き返す。
「通路の広さとか、机どかした時にちゃんと人が回れるかとか、組み立てが面倒すぎないかとか。飾りが良くても、実際の導線詰んでたらだるいだろ」
「うわ、黒峰くん、それかなり必要」
ことねがすぐに言った。
「今の、めっちゃ準備班の人の意見じゃん」
「準備班だからな」
「いや、それはそうなんだけど」
ことねは少し笑う。
「なんか、“ちゃんと現場で困るやつを先に気にする人”って感じ」
凛も小さく頷いた。
「うん。そこ、かなり助かる」
「朝霧さん、今日は素直だな」
「必要だから言ってるだけ」
「それ、最近よく聞く」
「最近、必要なこと多いし」
それは否定できなかった。
◇
話が少しずつ前へ進み始める。
布。
縦札。
提灯っぽい飾り。
景品用の小物。
入口側に置く見せ場。
体験コーナーの導線。
書き出していくと、想像以上に必要物は多い。
「ちょっと待って」
ことねがメモを見ながら眉を寄せた。
「これ、思ったより買うもの多くない?」
「多いよ」
凛が即答する。
「だから最初に整理してるんでしょ」
「いや、でもさあ」
ことねはペン先で紙をつつく。
「布と札と小物と照明系だけならまだしも、景品まで考えると急に“普通に買い出し”の範囲超えてくるんだけど」
「超えてるね」
朱莉が言う。
「一回で全部は無理かも」
「だよな」
恒一も頷く。
「荷物もそうだけど、その場で決めること多すぎる」
しおんが小さく言った。
「光の色は、実際に見ないと分からないし」
「そうなんだよねえ……」
ことねが机へ頬杖をつく。
「私、最初は“みんなで買いに行けばすぐ決まるっしょ”くらいに思ってたんだけど」
「それ、昨日の時点で少し見えてたけどね」
凛が言う。
「朝霧さんは見えてても、もうちょっと優しく言ってよ」
「優しくしたら現実変わる?」
「変わんないけど!」
「なら同じ」
ことねが唸る。
その様子が少し面白くて、恒一は思わず笑ってしまった。
「……今笑った?」
ことねがすぐに反応する。
「ちょっとな」
「ひどくない?」
「いや、でも、お前が“買い物すれば何とかなるっしょ”って思ってたの、ちょっと夢咲ことねすぎて」
「なにその言い方!」
「でも分かる」
朱莉が言う。
「ことね先輩って、最初の勢いで空気作るの上手いから、そこで進む感じするんだよね」
「火乃森さん、それ今だいぶ褒めてる?」
「まあ、そうかも」
「やった」
ことねは少し元気を取り戻す。
その横で、凛がぼそっと言った。
「でも、勢いだけじゃ文化祭は完成しないから」
「朝霧さんはほんとに最後の一刺しを忘れないよね」
「大事だから」
「分かってるよ……」
ことねは本気でへこんではいない。
ただ、前へ出るタイプだからこそ、現実に引き戻されるたびに少しだけ勢いが削られるのだろう。
しおんが、その空気を見て静かに言う。
「でも、ことね先輩が最初に空気作らないと、ここまで出てなかったと思う」
ことねが顔を上げる。
「え」
「必要なものの話とか、入口の印象の話とか」
しおんはゆっくり言う。
「たぶん、ことね先輩が“どう見えるか”を先に言ったから出てきた」
ことねは一瞬だけ黙った。
それから、少し照れたように笑う。
「……雪代さん、それ不意に言うのずるい」
「ずるい?」
「うん。今ちょっと効いた」
「ならよかった」
その返しもまた静かで、でもちゃんとやさしかった。
◇
「で、結局」
凛がまとめに入る。
「初回買い出しで全部を取りに行くんじゃなくて、“必須のもの”と“現物見て方向性決めたいもの”に絞るのがいいと思う」
「それが現実的かな」
恒一が言う。
「そうしないと、店の中で永遠に決まらない」
「それは絶対ある」
ことねが真顔で頷く。
「私、和風小物コーナーとか入ったら普通にテンション上がって止まる自信ある」
「自信満々に言うな」
「でもほんとだもん!」
朱莉が笑いを噛み殺しながら言う。
「それは、ちょっと想像できる」
「朱莉ちゃんまで」
「いや、悪い意味じゃなくて」
「たぶん、いい意味でもない」
また少し笑いが起こる。
その笑いのあとで、恒一はふと気づく。
みんなちゃんと話している。
役割の話をして、必要物の話をして、予算や導線まで気にしている。
でも、その下にうっすらと別のものも流れている。
誰がどんなふうに前へ出るか。
誰がどんなふうに支えるか。
誰がどんなふうに場を整えるか。
それが文化祭の相談の中で、そのまま人間関係の見え方にもなっている。
「なあ」
恒一が口を開く。
「ん?」
ことねが見る。
「必要なものの前に、やっぱり空気の整理が先だったな」
数秒、みんなが黙った。
最初に笑ったのはことねだ。
「なにそれ、今日のまとめみたい」
「でも合ってる」
凛が頷く。
「今のうちのクラス、文化祭準備って言いながら、まず“どう近くなりすぎないか”から調整してるし」
「それは、ちょっと寂しいけど」
朱莉が言う。
「でも、必要なんだろうね」
「うん」
しおんも静かに同意した。
「最初にそこ整理してるから、今日普通に話せてる感じする」
その“普通に話せてる”が、今の自分たちには案外大事だった。
匿名の焼き菓子とメモ。
文化祭の係決め。
買い出し候補。
残れる日の表。
何をしても意味が増えやすい今の教室で、それでもちゃんと作業の話へ戻ってこられる。
そのこと自体が、少しだけ救いだった。
「じゃあ」
ことねがメモを整える。
「今日はここまでにして、明日の買い出しは“必須のもの優先”でいくってことでいい?」
「いいと思う」
凛が言う。
「うん」
朱莉としおんも頷く。
恒一も、小さく頷いた。
そしてその瞬間、ふと気づく。
この五人で固定される感じ。
それを少しだけ意識していたのは、自分だけじゃなかったのかもしれない。
ことねが最後に、半分自分へ言い聞かせるみたいに笑った。
「……よし。明日の買い出し、ちゃんと文化祭の準備だけに集中するからね」
その一言は、軽い冗談みたいだった。
でも、その中にちゃんと本音が混ざっていることを、黒峰恒一はもう分かってしまっていた。




